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世界のカケラ  作者: viseo
崩壊編
118/171

アランタトルの檻 11

 レジデが生きていた。

 それだけが私の望みだった。

 だから、もう良い。

 ねぇ。私は頑張ったでしょう?


 トロトロと深い深い、眠りにつく。

 夢さえ見たくない、深い深海のような眠り。

 幾度と無く起こされて。けれども何も感じず、何も覚えず、また深い眠りにつく。


 ――皇帝にも困った物です。レジデールの事は、最も隠しておくべき事柄だったのに。

せめてもう少し、上手くやって頂きたかった。あと一歩で洗脳が完了する所で、こう壊されてしまうとは。


 ――欲しかったのは理知的な従順な乙女であり、白痴では無いのです……。ですが皇帝の興味が逸れたのは、良しとしましょう。折角の乙女を、皇帝の、あの閨での嗜虐的な趣味につき合わせる事はありません。


 水泡のように、消えて行く言葉たち。

 張り詰めていたモノが溶けてしまえば、周りを取り巻く人間の、言葉ですら理解が出来なくなる。

「…――。……、――。」

 ほら、最初からこうすれば良かったんだよ。

 人間に飼われている観察用実験動物と何ら変わらない、安穏な生活。

 その何と幸せな事か。


 眠りが途切れても、柔らかな、見えない薄い繭に包まれて、そこは眠りの世界と変わらない。

 特別礼拝堂の地下、幾重にも星屑のランプの灯る部屋に連れていかれ、ただ一人、座り続ける。

 その光は日を追うごとに強くなれど、私の心は変わらない。

 ……そんな緩慢な自殺のような日々を、どの位過ごしたのか。

 ある時、星屑のランプが部屋を出たあと、いつもは連れて行かれない、神殿の最奥に連れて行かれた。


 心が柔らかく凍ったような私に、強く鼻につく匂いと、こぽりと暖かな水音。

 ふわりと暖かな風が頬を撫でる。

 大きな石の扉を開くと、そこは地下神殿の奥に湧き出した、温泉。

「…――。……、――。」

 周りの女性信者たちは、ひとしきりの逡巡の後、消え去る。

 人形のような私の、身の回りの世話をする信者がいないのは、初めてだ。

 この時間が自分の為に特別に用意されたと気づく事は、勿論無く。暖かな湯に独り、身を沈める。


 懐かしい感触。 柔らかな湯触り。

 ひらり、ひらりと、湯の中を時折舞う、黄色い切片をぎこちなく片手で掬い上げる。

 けれどもそれは、金魚すくいのように、私をからかいながら、するりと逃げる。


 造り込まれた大理石の神殿とは違い、洞窟のような、硬い岩盤をくり貫いたままの天井や壁。

 天然の温泉は、自然の姿を残しているからこそ、故郷のそれと、なんら変わる事は無くて。

 ぽたりと水面に落ちた水滴が、ゆっくりと同心円状に広がり、消える。

 身体を包む暖かさを、好ましいものと、ぼんやり感じた。


 この感覚はどれぐらいだろう……。

 そんな気持ちが、緩やかに浮かび上がって、懐かしい、ひとりの面影を思い出す。

 鮮やかな夜の髪。

 流水模様の装飾扉を教えてくれた、ひと。

 ……けれども、その名を形作る間も無く、私の心をまた柔らかな繭が包み込む。


 何も思い出さなくて良いよ。

 何も考えなくて良いよ。

 柔らかな雲のようなソレは、そう私を安寧の地へと、優しくいざなう。


 そうして懐かしい響きの名は、思い出されること無く――白い装束を再び身にまとう頃には、ほどけかけた私の気持ちは、また柔らかな膜に、しっかりと包まれた。


 * * *


 気だるく温まった身体を、幾人もの追従の信者たちに守られながら、行きと同じ道を辿って戻る。

 けれども、

「…――!……、――。」

 いつもは静かな神殿のほんの少しの騒がしさ。

 そこから隠されるように、迂回するように、進まされた、いつもと反対の廊下。

 付き従う信者達のわずかな動揺を感じながら進む道は、いつしか私の部屋に続く道と左右反対の作りとなり――ぼんやりと、鏡の世界に迷いこんだようだと思った。


 僅かな逡巡の後、広い廊下の緩やかな窪みのベンチに、座らされる。

「…――。……、――。」

 予定外の行動だったのだろう。密やかに話し合う信者たち。

 その後ろに見えた、渡り廊下と一つだけ、ぽつんと見覚えのある優美な窓。

 火照った身体が、その窓辺の涼しさを求め、ふらりと近寄る。


 窓から見えるのは、夕暮れ時の変わりゆく空の色。

 白い雪をかぶった山の上、深みを増した蒼を支える、一条の茜の空と、ゆったりと沈みゆく小さな夕日。

 夜へと変わる瞬間の、美しい複雑な、山間の景色。

 ふわりと動いた空気に、ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、なつかしい故郷の詩だ。


 ――菜の花畑に、入り日薄れ

 ――見渡す山の端、霞深し


「……はる、か…ぜ、……そよ…く、そ…ら、みれば、」

 風に乗って聞こえるような、微かな幻聴の歌声にぼんやりと聞き惚れ、いつしか懐かしいそのフレーズを、無意識に唇にのせる。

「ゆう……あかり、て、…匂い、淡し…。」


 俯き、唇からこぼれ落ちた歌は、膝の上に落ちて、まろぶように消えて溶ける。

 何日も声帯を震わせる事すらしなかった自分が、無意識に求めた故郷の歌。

 触りと揺れた優しい風に、枯れたはずの涙が一筋、頬の上を撫でる。 


 水底に沈めるように、山間へと落ちる夕日は、園庭で遊ぶ子どもたちが、母親の元へと帰る時間。

 クレヨンで書いたような綺麗で、悲しい空の色を見て、門を何度も振り返る子どもたち。

 インターフォンの音と、満面の笑顔。

 背には、まだ雪を残した白い山。

 見送る園からの道には、夜でも薄明かりを灯したような、菜の花畑が広がる。


 投げ出してきてしまった子どもたちは、ひとつ上の学年に上がった頃だろうか。

 無意識に忘れていた故郷の情景が、変わりゆく空の色と共に、鮮明に浮かんでは、消える。

 ――帰りたい。

 初めて、思った。


 粉々に壊れた、自分を守っていた堅固な理性の鎧。傷つき、真っ二つに折れた、自立の剣と、意地の盾。

 足元に散らばるその破片から、私を守るように包み込む、やさしく静かな薄い繭。

 その繭の中で、幼子のように守られながら、ようやっと思えた。


 それは、帰るべきと言う、責任でも贖罪でも逃避ですら無く、ただ郷愁の思いからきた素直な思い。


 トーコじゃない。

 アーラなんて知らない。

 白い鳥も、神子姫も関係ない。

 私は、橙子だ。ただの橙子なんだ。



 帰りたい。と、――皮肉にも、全ての感情と理性を投げ出したからこそ聞こえた、心の最奥の、小さな小さな声。


 ただそれだけの感情と、今初めて、ようやっと、……向き合えた。

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