アランタトルの檻 11
レジデが生きていた。
それだけが私の望みだった。
だから、もう良い。
ねぇ。私は頑張ったでしょう?
トロトロと深い深い、眠りにつく。
夢さえ見たくない、深い深海のような眠り。
幾度と無く起こされて。けれども何も感じず、何も覚えず、また深い眠りにつく。
――皇帝にも困った物です。レジデールの事は、最も隠しておくべき事柄だったのに。
せめてもう少し、上手くやって頂きたかった。あと一歩で洗脳が完了する所で、こう壊されてしまうとは。
――欲しかったのは理知的な従順な乙女であり、白痴では無いのです……。ですが皇帝の興味が逸れたのは、良しとしましょう。折角の乙女を、皇帝の、あの閨での嗜虐的な趣味につき合わせる事はありません。
水泡のように、消えて行く言葉たち。
張り詰めていたモノが溶けてしまえば、周りを取り巻く人間の、言葉ですら理解が出来なくなる。
「…――。……、――。」
ほら、最初からこうすれば良かったんだよ。
人間に飼われている観察用実験動物と何ら変わらない、安穏な生活。
その何と幸せな事か。
眠りが途切れても、柔らかな、見えない薄い繭に包まれて、そこは眠りの世界と変わらない。
特別礼拝堂の地下、幾重にも星屑のランプの灯る部屋に連れていかれ、ただ一人、座り続ける。
その光は日を追うごとに強くなれど、私の心は変わらない。
……そんな緩慢な自殺のような日々を、どの位過ごしたのか。
ある時、星屑のランプが部屋を出たあと、いつもは連れて行かれない、神殿の最奥に連れて行かれた。
心が柔らかく凍ったような私に、強く鼻につく匂いと、こぽりと暖かな水音。
ふわりと暖かな風が頬を撫でる。
大きな石の扉を開くと、そこは地下神殿の奥に湧き出した、温泉。
「…――。……、――。」
周りの女性信者たちは、ひとしきりの逡巡の後、消え去る。
人形のような私の、身の回りの世話をする信者がいないのは、初めてだ。
この時間が自分の為に特別に用意されたと気づく事は、勿論無く。暖かな湯に独り、身を沈める。
懐かしい感触。 柔らかな湯触り。
ひらり、ひらりと、湯の中を時折舞う、黄色い切片をぎこちなく片手で掬い上げる。
けれどもそれは、金魚すくいのように、私をからかいながら、するりと逃げる。
造り込まれた大理石の神殿とは違い、洞窟のような、硬い岩盤をくり貫いたままの天井や壁。
天然の温泉は、自然の姿を残しているからこそ、故郷のそれと、なんら変わる事は無くて。
ぽたりと水面に落ちた水滴が、ゆっくりと同心円状に広がり、消える。
身体を包む暖かさを、好ましいものと、ぼんやり感じた。
この感覚はどれぐらいだろう……。
そんな気持ちが、緩やかに浮かび上がって、懐かしい、ひとりの面影を思い出す。
鮮やかな夜の髪。
流水模様の装飾扉を教えてくれた、ひと。
……けれども、その名を形作る間も無く、私の心をまた柔らかな繭が包み込む。
何も思い出さなくて良いよ。
何も考えなくて良いよ。
柔らかな雲のようなソレは、そう私を安寧の地へと、優しくいざなう。
そうして懐かしい響きの名は、思い出されること無く――白い装束を再び身にまとう頃には、ほどけかけた私の気持ちは、また柔らかな膜に、しっかりと包まれた。
* * *
気だるく温まった身体を、幾人もの追従の信者たちに守られながら、行きと同じ道を辿って戻る。
けれども、
「…――!……、――。」
いつもは静かな神殿のほんの少しの騒がしさ。
そこから隠されるように、迂回するように、進まされた、いつもと反対の廊下。
付き従う信者達のわずかな動揺を感じながら進む道は、いつしか私の部屋に続く道と左右反対の作りとなり――ぼんやりと、鏡の世界に迷いこんだようだと思った。
僅かな逡巡の後、広い廊下の緩やかな窪みのベンチに、座らされる。
「…――。……、――。」
予定外の行動だったのだろう。密やかに話し合う信者たち。
その後ろに見えた、渡り廊下と一つだけ、ぽつんと見覚えのある優美な窓。
火照った身体が、その窓辺の涼しさを求め、ふらりと近寄る。
窓から見えるのは、夕暮れ時の変わりゆく空の色。
白い雪をかぶった山の上、深みを増した蒼を支える、一条の茜の空と、ゆったりと沈みゆく小さな夕日。
夜へと変わる瞬間の、美しい複雑な、山間の景色。
ふわりと動いた空気に、ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、なつかしい故郷の詩だ。
――菜の花畑に、入り日薄れ
――見渡す山の端、霞深し
「……はる、か…ぜ、……そよ…く、そ…ら、みれば、」
風に乗って聞こえるような、微かな幻聴の歌声にぼんやりと聞き惚れ、いつしか懐かしいそのフレーズを、無意識に唇にのせる。
「ゆう……あかり、て、…匂い、淡し…。」
俯き、唇からこぼれ落ちた歌は、膝の上に落ちて、まろぶように消えて溶ける。
何日も声帯を震わせる事すらしなかった自分が、無意識に求めた故郷の歌。
触りと揺れた優しい風に、枯れたはずの涙が一筋、頬の上を撫でる。
水底に沈めるように、山間へと落ちる夕日は、園庭で遊ぶ子どもたちが、母親の元へと帰る時間。
クレヨンで書いたような綺麗で、悲しい空の色を見て、門を何度も振り返る子どもたち。
インターフォンの音と、満面の笑顔。
背には、まだ雪を残した白い山。
見送る園からの道には、夜でも薄明かりを灯したような、菜の花畑が広がる。
投げ出してきてしまった子どもたちは、ひとつ上の学年に上がった頃だろうか。
無意識に忘れていた故郷の情景が、変わりゆく空の色と共に、鮮明に浮かんでは、消える。
――帰りたい。
初めて、思った。
粉々に壊れた、自分を守っていた堅固な理性の鎧。傷つき、真っ二つに折れた、自立の剣と、意地の盾。
足元に散らばるその破片から、私を守るように包み込む、やさしく静かな薄い繭。
その繭の中で、幼子のように守られながら、ようやっと思えた。
それは、帰るべきと言う、責任でも贖罪でも逃避ですら無く、ただ郷愁の思いからきた素直な思い。
トーコじゃない。
アーラなんて知らない。
白い鳥も、神子姫も関係ない。
私は、橙子だ。ただの橙子なんだ。
帰りたい。と、――皮肉にも、全ての感情と理性を投げ出したからこそ聞こえた、心の最奥の、小さな小さな声。
ただそれだけの感情と、今初めて、ようやっと、……向き合えた。