アランタトルの檻 10
ガンッと、殴られたかのような強い衝撃を感じて、皇帝の視線を追う様に、額づく集団を振り返り、視線をやる。
その先頭に佇むシャムール・ギザエットと、信者の中一人の男。
確かに部屋にいた、覚えのある姿。
芯のぶれた頭でのろりと思う。
――皇帝は、今、なんて……言った?
「皇帝より、神子姫様への挨拶を特別に許す。とのお言葉です。」
声が、何重にもゆがんで聞こえる。
まるで、水の中にいるみたいだ。
「レジデール。御前に参られませ。」
その声に、シャムール・ギザエットの後ろにいた信者たちのうち、一人の男が私の前に出る。
熱狂的に濡れた視線の信者たちの中、たった一人、寂しげな色を宿していたから覚えていたその男は、深く叩頭して一言、答えた。
「……ありがたき幸せ。」
もう二度と聞けないと覚悟していた、低い抑揚のある口調。
深く魅惑的なバリトンボイス。
その姿が見知ったものではなくても、この声だけで、この自分物が誰かと言うのを間違えれるはずが無い。
「レ……ジデ?」
深く叩頭したままの男の茶色い髪。
「神子姫様には、数々の非礼をお許し下さい。無事この地にお招きできたことを、天空の神々に感謝致しますと共に、新たな神子姫としてお役目を、恙無く勤められますよう、――……。数ならぬ身ではございますが、――……」
――生きていた。
涙が滑り落ちる。
――生きていたのか。
膝から力が抜けて、崩れ落ちた床の上、一段と近くなる茶色の髪。
目線を合わさないほど、深く首を垂れた、男の手。
生きていて嬉しいはずなのに、どうして涙が出るんだろう。
ぽたりぽたりと大理石の床に、レジデの言葉と雫が落ちる。
『記憶を無くしていても、トーコが愛されて育ったと言う事は分かります。』
『俺が言いたいのは、そう言う事じゃないっ!』
『私に何があっても、必ず貴女を元の世界に帰します。』
柔らかな笑顔。怒った声。真摯な顔。
涙が零れ落ちる度、胸の内にあった、レジデの言葉と思い出が流れて零れる。
音のなくなった世界で、ただ一人、目の前の男だけが鮮明に見える事を、ただ不思議に思う。
ねえ。どうして。
何も考えられない私の頭に、その言葉がゆったり浮上する。
――全てが偽りだったの?
いきなり視界が天を向き、眦から涙が零れ落ちた。
崩れ落ちた私を引き上げた、老人の炯炯とした目。
私の体に巻きつく、豪奢な衣装の厚い布地と、骨ばった手。
むき出しになった喉に食らいつく、黄色い歯と、ねとりと濡れた感触。
夜伽に差し出せとの、言葉の意味すら頭に入らない。
天井に絵描かれた、神代の人々が涙で歪む。
――ねえ。呼んでよ。
ふわふわの毛並みで、トーコと、もう一度、呼んでよ。
壊れた童女のように、それだけを思う。
「恐れながら申し上げます。強いコウキを持つ乙女との交わりは、何が起きるか分かりませぬ。二つと無い御身で御座いますれば、此度は……。」
大好きだった、低い声。
どんどん目の前の男の言葉が、曇りガラスの向こうに消えるようにして、消えていく。
強い強い空虚な脱力感に囚われながら、私の周りに薄く見えない膜が張り巡らされる。
そこは、怒りも、憎しみも、悲しみすら湧かない、幸せな世界。
「――…我らが手中に乙女は落ちた。積年の恨み、晴らしてくれようぞ!ファンデール!!」
戦いの時は近いと、熱気に湧く人々と、しゃがれた老人の声。
その言葉を最後に、私は見えない繭に心を委ねた。