白い鳥 20
がちりと固まる私の前で、ミクラム嬢は貴婦人の鏡のように、礼儀正しく軽やかな動きで――退城する前に一言ご挨拶を。と頭を下げる。
温和な笑顔に、邪気も他意も、何の思惑すら見当たらない、暖かな瞳。
瞬間、私は雷に打たれたように真実を知る。
これは昨日見た、シグルスに憧れる暴走三姉妹とは、訳が違う。
真実を語るものだけが持つ、独特の落ち着きだ。
――そんなミクラム嬢に、私はきちんと答えられたのだろうか。
辛うじて、ウィンス卿にお世話になっているお礼と、幾つかの社交辞令的な挨拶を交わした後、立ち去る後姿を呆然と見つめていると、不意に肩をたたかれた。
「どうした?」
真っ白になった頭で、名すら呼べずに振り向くと、約束の品を手にした美貌の貴公子は、少し不思議そうな顔をした後、私の視線を追い、得心したようだ。
「ああ。ミクラムに会ったのか。」
そのあまりにも、平坦な答えに、くらりと世界が回る。
「……婚約者が、いたの?」
「そう言えば、話したことは無かったな。――それがどうかしたか?」
あまりにも何でもないように言われたその答えに――何でも無いよ。と応じようとして、声が喉に絡んで失敗する。
「どうした?」
具合が悪いのかと、覗き込まれ、とっさに目を伏せる。
けれども、隠し切れなかった――小さく震える指先を握りこまれてしまえば、何も言えることは無くて。
不審に思った彼の行動は早かった。
「病み上がりの体に、夜会の空気はよくないな。――少し外に出るぞ。」
こちらの意見を言う間もなく、連れ出される。
柔らかな色合いのテラスは、少し夜風が冷たいせいで、今は誰も無い。
……けれども勿論、広間から二人の様子はしっかり見える訳で。
冷たい夜風と共に、ざぁっと血が引く。
エスコートされた距離を離そうとする私と、それに気がついて不審がりながら引き寄せるフォリアとの間に、見えない小さな争いが生じた。
「どうした?……何かあったのか?」
小さく、けれども少し強い調子で詰問する男に、辛うじて答える。
「婚約者が――ミクラム嬢が、気分を害する。」
その一言で、ようやく私が何を必死に気にしているか、気がついたようだ。
けれども、私の予想に反して、フォリアは小さく眉を寄せると、不審そうに――逆に問い返された。
「そんなわけ無いだろう。――何をそんなに気にしている?」
「……っ、何も。」
冷たくなった手に、震える指先。
それでフォリアが、納得するわけが無い。
逃がさないと言わんばかりに、腰を支える手に、強く引き寄せられる。
これじゃあ、エスコートされているのか、抱き寄せられているのか、周りから見てもギリギリのラインだ。
その事実に、叫びだしたいほどの恐怖にとらわれる。
心の底から湧きあがる、強い強い恐怖心。
その荒れ狂う強い恐怖心を制御できずに、喉から搾り出されそうになる悲鳴を、――残された最後の理性で、必死で飲み込む。
「以前、同じようなことが。それで……酷い怪我をして、――こちらに。」
その強い恐怖から逃げたくて、レジデにあの夜伝えたことを、必死に、けれども最小限の言葉で伝える。
色を失って、大きく喘ぐように伝えた私に、ふと引き寄せられていた力が抜けた。
「――そう、だったのか?」
彼がその一言で、全てを理解したとは思えない。
けれどもフォリアにもレジデ同様、事故で大怪我をしたと伝えてあった。
尋常ではない私の様子で、概ねを理解したらしい男は、私を落ち着かせるように、少しだけ距離を取る。
その距離の分だけ、呼吸が楽になるような気がした。
「後見人代理を務めているのは周知の事実。――お前が心配するような事はない。」
落ち着いた、諭すような声。
つまりは、この程度のエスコートは社交界では常識で、婚約者のミクラム嬢も何も思ってないと、言いたいのだろうか。
「……けれども……あなたは、騎士ではないでしょう?」
騎士のように、身分の高い女性に敬愛を捧げるのが、慣わしになっているならばともかく、普通は婚約者を差し置いて、他の女性はエスコートしない筈だ。
フォリアは優秀な魔剣士では、あるかもしれないけれど、やはり不自然なのでは。と、混乱したまま小さく返せば、冷静に話していたフォリアがふと、私の手をとり跪いた。
「騎士であるか否かを決めるのは、称号ではありますまい。」
……え?
ふわりと広がったマント。
改まった声と、真摯に見つめる夜色の瞳。
テラスからこちらを伺っていた人間が、ざわめいているのが分かる。
「嵐に耐えられながらも、凛と咲き誇る我が姫君。――どうか私の心をお受け取り、貴女の行く手を阻むものを切り裂く剣となることを、このフォリア・ネル・ウィンスにお許しください。」
ちょっ!
「――我が双剣と共に、私の全てを貴女に捧げましょう」
頭を垂れたフォリアの姿に、より一層、大きくなるざわめき。
これもパフォーマンスの一種なの?
今度は、まったく違った方向にうろたえる私に、僅かに視線を上げたフォリアが、許すと言えと、小さく投げる。
その視線と、周囲の人間がこれ以上増えるのを恐れて、混乱のまま「許す」と一言返せば、そのまま手の甲に落とされた口付けに、何故か体をびりりと小さな電流が走った。
――何、これ。
一見、何も変化が無いように見える自分の手を、呆然と見つめる。
「これで良いか?」
混乱したままの私の横で、いつの間にかまたウィンス卿の様相で佇む男に、呆然と視線をやる。
何をされたのか、何をしたのか。
「正直――わからない。」
そんな私に、ちらりと小さく笑った秀麗な顔。
――倒れそうな恐怖心は、いつの間にか混乱の彼方に消えていた。