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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十一回 朱貴、水亭に合図の矢を放ち 林冲、雪の夜に梁山泊へと入る
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(八)

 人を小馬鹿にしたような王倫の態度に悶々としながら眠りについた林冲は、翌朝、朝食を済ませるとすぐに寨の手下に道案内をさせ、朱貴の店がある対岸へと渡り、凍てつく風の吹く小道に陣取った。

 山の上から見ると、このあたりには三本の小道があり、少し進むと一つに合流する。

 その道を先へ進むと墓場が、そしてさらに先には小さな宿場町らしき影が見えた。この小道ならば、三日間見張っていれば、誰かしらは通り過ぎるかもしれない。

 (何が投名状だ。こんなところで、無実の者を殺せというのか?)

 たまたま梁山泊を攻めようという者でも現れない限り、殺して首を持ち帰るにふさわしい人間が通るはずもない。

 すでに何人も人を殺した身とは言え、あれはすべて、自分を陥れた者への仇討ちである。どれだけ落ちぶれようとも、罪なき者を屠るような真似はできない。

 「寒いな……」

 「林教頭、温かい酒がありますよ。今日は本当に冷えますね」

 名も知らぬ手下が注いでくれる酒をちびりちびりと飲みながら、林冲はまるで石にでもなったかのように、じっと木陰から小道の様子を見つめ続ける。

 ――だが、太陽が真上に昇り少し日差しが暖かくなっても、久しぶりの冬晴れの空が茜色に染まっても、きんと冷えた空に澄んだ輝きを放つ星々が姿を現しても、誰一人、小道を通る者はいなかった。

 「おや、林冲殿、投名状をお持ちになられたのかな?」

 冷え切って硬くなった体をどうにか動かし寨に帰ると、さっそく出迎えた王倫が、小さな歯をむき出して笑う。

 「……今日は一人もこのあたりを通る者がなく、手に入れられませんでした」

 ぶっきらぼうな林冲の物言いにもなんら怯むことなく、王倫が体を反らして笑う。この小柄な男は、こうして己を大きく見せようとする仕草が多い。

 「はは、それはこの寒空に、ご苦労なことでしたな! もし明日も投名状が手に入らないようであれば……この寨への仲間入りはますます厳しくなりますなあ。まあ、気を取り直して、一緒に夕餉をどうです?」

 夕食をともにするどころか返事をするのも億劫になり、林冲は無言で首を振ると、さっさと客間に引っ込んだ。

 やはり、つくづく自分は運のない男だ。

 せっかく柴進と出会い、拾ってもらった命も、もはや風前の灯である。

 だが、諦めるわけにはいかない。

 傷つけられた己と、己の愛する家族の、その復讐を果たすためにも、なんとしてもここで生きる道を探さねばならない。ここは文字通り、林冲にとって、最後の寨なのだ。

 「林教頭、おはようございます。今日は、南側の道に行ってみませんか。あちらのほうが日当たりがよく暖かいので、人が集まるかもしれません」

 次の日、手下の助言に従い、三本ある小道のうち一番南側の道に腰を据え、再び林冲は待ち続けた。

 昨日に続いて天気はそう悪くなかったが、朝のうちは誰も通らず、昼過ぎになってようやく人の気配がしたと思えば、二、三百人は軽く超える旅人の集団が隊伍を組んでやってきたものだから、さすがの林冲もこの人数を相手に手出しをすることはできず、ただただ恨めしい視線を彼らの後ろ姿に投げかけるのみである。

 そしてその大集団が通ったあとは、再び人通りが途絶え、また一人むなしく夜を迎えることとなった。

 「……おや、その様子では、今日も投名状は手に入りませんでしたか」

 昨日よりもさらに重くこわばる体をひきずり寨に戻れば、満面に喜色を湛えた王倫が、愉快げに酒の注がれた盃を差し出してくる。

 「まあ、そうがっかりすることもありますまい。期限は明日ですから、もし明日もだめだったなら、そのときはわざわざこの山まで登ってこなくても結構。そのままどこへなりとお行きください。大丈夫、江湖は広い。あなたほどの方が行先に困ることなどないでしょう」

 もはや笑いが止まらないらしい王倫の、勝ち誇ったような顔を前に、すでに発するべき言葉はない。

 (明日、か……)

 一歩下がったところに立っている、この二日間供をしてくれた手下の顔をちらりと盗み見る。

 まるで信じられない光景を見ているような、驚愕と悲痛と怨嗟の入り混じったような視線が、王倫を射抜いている。

 (ここが最後の寨という気でいたが、部下にこのような目を向けられる男のもとに、しがみつくこともあるまい……。明日もきっとだめだろう。今宵のうちに荷物をまとめておいて、どこか行く当てがないか、探ったほうがずっと良いかもしれん)

 林冲の心中を知ってか知らずか、手下はただ労わるように、明日は必ず成功しますよ、と囁いた。


 その日は、薄暗い雲が空を覆い、夜明け前からひどい雪が降り続いていたのだが、林冲と手下が最後に残った東側の小道で待ち伏せをしているうちに、昼の光が徐々に差し込み、雪は完全に止んだようであった。

 湿った雪が笠の上に積り、首がずしりと重かったのが、冬の日にはめずらしい陽気が戻ってきたので、今度はその雪が溶けだして、笠を水滴がいくつも伝って白い地面に落ちていく。

 だが、ぽたり、ぽたりというその音が聞こえなくなってもなお、人の気配は現れない。

 「……三日間、世話になったな」

 手下が小さなため息を漏らしたところで、林冲は彼のほうを振り返り、ぎこちなく笑みを浮かべた。

 「もはやここで待っていても、見込みはない。日の暮れぬうちに荷物を取って、さっさと違う場所を探しに行ったほうがよさそうだ」

 「そ、そんな! ですが林教頭、俺たちは、あなたが……あっ!」

 立ち上がった林冲を引き止めようとしたのだろう、袖に手を伸ばした手下はしかし、その手で林冲の背後をしきりと指さした。

 「り、林教頭、ご覧ください! ようやくひとり、やってきましたよ!」

 「何……?」

 あわてて振り返れば、確かに道の向こう、ゆるやかな坂の下から、一人の男がとぼとぼとこちらへ歩いてくる。

 (ここに来てようやく好機が巡ってきた。だが、殺すべき人間であるかどうか……)

 それでも、ためらっている暇はない。

 男が十分に近づいてくるのを息を殺して待ち続け、そして男の吐息が聞こえるほどに近づいたところで、

 「待て、旅の者!」

 大音声で男を呼び止めた林冲は、抱えていた朴刀を思いきり振り上げ、男に躍りかかる。

 「う、うわあ!」

 笠の下から現れた男の顔が、どう見てもただの民であることを悟った林冲の太刀筋に、一瞬の迷いが生まれる。

 「ひ、人殺し……! 助けてくれ、命だけは取らないでくれえ!」

 「待たぬか!」

 すっかり驚いた男は、抱えていた荷物を林冲の足元に向かって放り投げると、こちらへ来るときとは正反対に、馬のごとき足の速さで逃げ去っていく。

 林冲はしばらく追いかけたが、結局その背に追いつくことはできず――いや、追いつく気もなかったのかもしれない――男の姿は雪山の向こうへと消えた。

 「……なんと運のないことだ。せっかくこうして好機が巡ってきたというのに、取り逃がした」

 「そう落ち込みなさいますな、林教頭。ほら、この重たそうな荷物、これを代わりに持っていきましょう。王頭領だって、これを見れば気持ちが変わりますよ」

 「では、お前はそれを持って先に山へ戻っていてくれないか。俺は、もう少し粘ってみる」

 あのような気弱そうな男が、たった一人で梁山泊の近くを通るわけがない。もしも連れに用心棒がいれば、必ずここを通って荷物を取り返そうとするはずだ。

 「……次は、斬る」

 外した笠から一気に水気を振り落とし、再び目深にかぶりなおすと、林冲は目を細めて坂道の先を見つめ、

 (……来た)

 ずいぶんと、背の高い男だ。

 引き締まった体は決して樹の幹のように太くはないが、全身にみなぎる殺気が、その身の大きさを二倍、三倍にも見せている。

 足取りは軽く、だが決して油断をしていない証に、己と同じように目深にかぶった笠の下の陰気な目が、暗く鈍い輝きを放っている。 

 背に負った大きな刀を、この男はいつでも抜ける。そして、己と互角に渡り合える。

 その予感だけで、十分だった。

 寒さに凝り固まったはずの体に、久方ぶりに燃えるような血の気が巡る。

 (この男、殺すには惜しい)

 足元の雪が、苦しそうに軋む。

 「……お前こそ天よりの賜りもの、ここで会ったのが運の尽きと思え!」

 その叫びは、白い龍のごとく、林冲の内から吐き出された。

 「何だと、この死に損ないの山賊め。俺の荷を奪ったのは貴様だな? 自分から出てくるとは、貴様よほど死にたいらしいな!」

 男の低い声が、地鳴りのように、白銀の大地を揺らす。

 笠の下の顔の、大きな青痣がくっきりと見えるまで、男が近づいている。

 「覚悟!」

 それがどちらの声だったのか、どちらも互いにわからなかった。 

 ただ、その声とともに、雪が止んだはずの景色が、真白に染まった。


〈第十一回 了〉

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