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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十一回 朱貴、水亭に合図の矢を放ち 林冲、雪の夜に梁山泊へと入る
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(五)

 ようやく林冲の着物から手を離した男に促され、店の奥に続く水亭へと足を踏み入れる。

 いつの間にか夜の帳に沈んだ亭の四方に明りを灯した小二を、視線だけで退出させた毛皮の男は、唐突にその場に膝を付き、拱手した。

 「……一体何の真似だ?」

 「どうか無礼をお許しください。あなたのお姿を見てもしやとは思いましたが確信が持てず、試すような真似をいたしました。ですが壁に認められたお名前と、私を睨まれたその気迫、まさしくあなたこそ真の豹子頭林冲殿。御高名はかねがね伺っておりました」

 打って変わって、まるで子どものように目を輝かせる男の姿に驚いた林冲は、慌てて男を立ち上がらせると、向かい合って卓についた。

 「林冲殿、あなたは何度も梁山泊への行き方を尋ね、舟を求めておいででしたね。あそこは賊の巣窟、いったい、そこへ向かって何をしようというのです」

 骨ばった指を神経質に組み替えながら、男が尋ねる。

 「俺のことを知っているとあらば、話ははやい。大罪を犯し厳しく追われる身の上なので、梁山泊にのぼり、好漢たちの仲間入りをさせてはもらえぬかと思っているところなのです。だから、どうしても舟を出してもらいたかった」

 「……なるほど。ですが、あなたほどのお方が、最初から梁山泊を目指したわけではありますまい。誰かに勧められましたか」

 この男は梁山泊のことをよく知っているようだが、果たして信用していいものか測りかねた林冲は、ひとまず言葉を濁した。

 「実は、滄州横海群に住むとある旧友が、梁山泊入りを勧めてくれてな」

 「もしや……その旧友というのは、小旋風の柴進殿ですね?」

 林冲は、片眉をひくりとあげた。

 「なぜその名を?」

 「何を隠そう、梁山泊の一の頭領である王倫兄貴と柴大官人とは、頻繁に文を送りあう間柄。といいますのも、昔、王倫兄貴が科挙の試験に失敗して江湖をうろついていた頃、杜遷兄貴とともに柴大官人のお屋敷に身を寄せてしばらくの間世話をしていただいた上に、出立の際には路銀も恵んでいただいたので、この梁山泊にとっては大変な恩義がある方なのです」

 話の中身よりも、林冲は、梁山泊の頭領たちを兄貴と呼ぶ目の前の男のことが気になり始めていた。ただの見張り番とは思えぬ語り口である。

 「確かに旧友と申したのは柴進殿のこと、御見それした。どうか貴殿のお名前をお聞かせください」

 拱手拝礼する林冲の様子に、男の方も焦って拝礼を返した。

 「こちらこそ、名乗りもせずに誠に失礼なことをいたしました。私は王倫兄貴の命を受け、この酒店で見張り番をしております朱貴と申します。生まれは沂州(ぎしゅう)沂水(ぎすい)県、仲間からは、この強面の容姿のためか、旱地忽律(かんちこつりつ)――荒れ地の鰐などと呼ばれております。ここで酒店を営んでいるのは世を忍ぶ仮の姿、実はここで往来の旅人を物色し、金目のものを持っていそうな奴が通れば梁山泊の寨に知らせるのが私の役目なのです。一人旅で金には縁のなさそうな者であれば見逃しますが、小金持ちを見ようものなら、よければ痺れ薬、手ごわい相手であれば手荒にその場でばらし、肉は塩漬け、脂は煮だして油をとり燈油に使っておりまして」

 飄々とした口ぶりで、世にも禍々しいことをのたまう山賊を、林冲はじっと見つめる。梁山泊の賊の恐ろしさは聞いてはいたが、それでも柴進が友と呼ぶくらいだ、その凶行は、義の心から来るものなのであろう。

 「先ほどは、あなたが梁山泊への道をしきりに尋ねられましたので、それでひとまず様子を見ていたのです。そのうちに壁に書かれた詩とあなたの御尊名、拝見すればなんと天下の豹子頭。あなたの勇名は、開封東京から来た男たちから聞き及んでおりましたが、こんなところでお会いできるとはまさに天命というもの。おまけに柴大官人の文をお持ちとあらば、きっと王倫兄貴もあなたを重く用いてくださるに違いありません」

 先ほどまでの静かな佇まいと打って変わって、どこか高揚した朱貴の口ぶりから察するに、どうやら自分は彼に歓迎されているらしい。幸先の良いことだと安堵した林冲は、先ほどから気になっていたことをもう一度口にした。

 「しかし、朱貴殿、山寨へと渡る舟はご用意いただけるのでしょうか」

 「ご心配なく。先ほどはあなたの素性がわからなかった故ああ言わせましたが、当然舟の用意はございます。ひとまずもう夜が更けますので、今晩はこちらにお泊りいただき、明日五更ごろに出立いたしましょう。さあ、そうと決まれば小二、大事なお客様だ、あるだけの酒と料理を持ってこい!」

 てきぱきと用意をはじめた朱貴の姿を眺めながら、林冲は、ようやく一旦身を落ち着ける場所を得られそうだと、ほっと胸を撫でおろした。


 朱貴に揺り起こされるまで、夢を見ることもなく深い眠りについていた林冲は、まだ夜も明けないというのにどこか遠くから葉擦れの音や鳥の気配を感じ、昨夜あれだけ降り続いていた雪がやんだらしいことを知った。

 暖かな火鉢のそばですっかり乾いた着物を羽織り、顔を洗い、朝から卓上いっぱいに並んだ豪勢な肉や酒で腹を満たせば、自然、心が冴えてくる。

 これから向かう地が、山賊の根城であろうとなんであろうと、もはや己の選ぶべき答えは一つしかない。もう、引き返すことはできないのだ。

 「林教頭、お支度は済みましたか?」

 少ない荷物をまとめ、槍を肩に担いだ林冲の様子を覗いた朱貴は、準備万端と見るや、湖に面した小窓をおもむろに開け放つ。

 肌が粟立つようなひやりとした空気が水亭の中に満ちるよりもはやく、朱貴は手にした鵲画弓に鏑矢をつがえると、ひょう、と甲高い音を鳴らし、対岸の蘆の中へとその矢を打ち込んだ。

 「今のは、いったい……」

 「これは、寨に渡る舟を呼ぶ合図なのです。さ、まもなく舟が参りますので、こちらへ」

 水亭の裏手にひっそりと備え付けられた船着き場に出ると、なるほど、薄青い寒空の下に濛々と立ち込める冷たい霧の向こうから、小舟が一艘、のったりと姿を現した。

 「では林教頭、参りましょう」

 「……頼んだ」

 朱貴に荷物を預け、質素な舟に乗り込み、均衡を崩さぬよう注意しながら舳先に立つ。

 寨の下っ端なのであろう漕ぎ手の男たちのたくましい櫂さばきに合わせて、舟はゆっくりと動き出す。

 波一つない湖の上を進むごとに、青白い靄が濃くなってゆき、肺腑の奥までしんと冷えた空気が差し込む。

 目深にかぶった笠越しに見渡す限りの蘆の向こうから、次第に朝日の気配が漂い始める。

 一群れの水鳥が、櫂にぶつかることを恐れ、ばさりと翼を羽ばたかせながら舞い上がる。

 「あれは………」

 その飛翔の軌跡を無意識に追った林冲の目の前に、唐突に、その景色は現れた。

 ――それは、寨と呼ぶにはあまりにも巨大な、ひとつの山だった。

 蘆原の奥から天を突くようにそびえる山は、おそらくこの濃い霧が晴れ、雪がすべて溶けたとて、湖上から全貌を見ることはかなわないだろう。

 山肌からは、大雪さえ意に介さぬとばかりにあちらこちらへと曲がりくねった怪樹が飛び出し、湖畔のぐるりにめぐらされた禍々しい逆茂木は、どうやら獣の骨で作られているように見える。

 港のまわりを歩き回っている屈強な男たちの手にする盃が髑髏であることに気が付けば、そこここに無造作に置かれた陣太鼓に張られた皮や、白い鼻息を吐きながらぶるりと身を震わせる馬たちの手綱が何から作られているかは容易に想像がつく。

 銀の帳をまとってなお鬱蒼と茂る林にも、その中に点々と見える建物の暗い色の屋根瓦の上にも、爛々とした殺気が目に見えんばかりに満ち満ちている。

 (これが……梁山泊……)

 徐々に近づいてきた金沙灘の岸辺には、すでにどこからか林冲の到着を知らされていたらしい若い男たちの一群が、何かを期待するような顔で待ち構えている。

 「林教頭、到着しましたよ。ようこそ、我らが梁山泊へ」

 朱貴に促され岸に上がれば、手下たちが我先にと客人の荷物を担ぐために群がる。

 「王頭領は、山の上の聚義庁でお待ちです。参りましょう」


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