表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水滸綺伝  作者: 一條茈
第十一回 朱貴、水亭に合図の矢を放ち 林冲、雪の夜に梁山泊へと入る
86/88

(四)

 睫が、髭が、頬に生える産毛までもが、痺れをともなって寒風に逆立つ。

 乾いた鼻腔がつんと痛み、吸い込んだ息は体の内側、骨の髄まで凍らせてゆく。

 天も地も、見渡す限りの白の中、うごめく影は己のみ。

 時折その白の中に微かな灰色の影が通り過ぎてゆくのは、温暖な地を求め豪雪の中を懸命にはばたく鳥の姿であった。

 (宿を後にしてから、すでに二晩は過ぎていようか……)

 昨夜はどうにか見つけたあばら屋のような宿で一晩を過ごしたが、この先、幸運にも寒さを凌げる場所を見つけられる保証はない。

 それでも、ここで野垂れ死ぬわけにはいかなかった。

 果たさなければならぬ復讐も、返さねばならぬ恩もある。

 すでに爪先の感覚はなくなっていた。ただ、足の裏に踏みしめる雪が、き、き、と鳴るのを頼りに、ひたすら前へと進む。

 (今は昼なのか……夕刻なのか)

 笠越しに見上げた空は、分厚い雲に覆われている。まだ辺りが真っ黒ではないので、夜でないことだけは確かだが、すでに時も、方角すらも、見失っていた。

 「今年は、よく雪が降る」

 本当ね、と返す妻も、着物が濡れたら怒られるぞ、と笑う友も、雪など溶かしてしまうほどの熱をもって生きる義兄弟も――すべてが懐かしく、夢幻の如く胸を打つ。

 (いっそ、この夢に永久に浸れたら)

 だが、そんな林冲の気の迷いを察したかのように、突如、吹き付けていた風がひたりと止んだ。

 「あれは……」

 勢いを失った雪の向こう、薄暗い靄の奥に、水辺の光景が広がっているのが見える。

 目を細めてよく確かめれば、湖を背に、渓流のほとりに一軒、『酒』の暖簾を掲げた店があった。

 重たそうに雪を乗せた柳の木々がその酒店に影を落とす様はどこか不気味であったが、あの店を逃せば、この先人家に巡り合わないかもしれぬ。それに、冷え切った体には、酒と肉が必要だった。

 「行こう」

 重く濡れた足で雪を漕ぎ、肩で押しのけるように店の暖簾をくぐれば、ほのかな明りを灯しただけの薄暗い店の中には、客は一人もいないようである。

 だが、店の奥からは酒や料理の匂いが漂い、立ち働いている人の気配がするのだから、閉まっているわけではないのだろう。

 (この大雪の中、こんな辺鄙な水辺に立ち寄る者もそう多くいるまい)

 頭や肩に積もった雪を払い、笠を脱いで刀を壁に立てかけた林冲は、火鉢の近くの席を選んでどかりと腰を下ろした。

 すると、さっそく小二が奥から姿を現し、林冲のそばに静かに立った。

 「いらっしゃいませ、お客様。外は冷えたでしょう。お酒はどれくらい、お持ちいたしましょうか」

 「そうだな、二角、もらおうか」

 小二がいそいそと二角分の酒を桶に入れて運んでくる。その湯気を見るともなしに眺めながら、林冲は小二に尋ねた。

 「肴は何がある?」

 「牛肉を煮たものと、あひる、それに若鳥もご用意がありますが」

 「では、煮た牛肉を二斤」

 「承知しました」

 少しも経たないうちに、卓の上には牛肉や菜がずらりと並び、小二が運んできた大きな椀になみなみと酒が注がれる。鼻先をくすぐる柔らかな酒の香が、舌先に広がるまろやかな味が、凍てついた心にじわりと染みる。

 そうしてゆっくり三、四杯の盃を空けたころ、店の奥からもう一人、男が姿を現した。まるで影のように音もなく、後ろに手を組んで店を横切った男は、店先にじっと佇み、降っているのか昇っているのかわからぬほど一面を覆う雪をしばらく眺めている。

 「……おい」

 林冲の卓から空いた皿を下げた小二が近づいたとき、男がふと、ぼそぼそとした声を漏らした。

 「あそこで酒を飲んでいるのは、どんな客だ」

 決して興味本位だけの呑気さはなく、かといってあからさまな敵意もないその声は返って気味が悪く、林冲はさりげなく男の様子を観察した。

 すらりと背の高い細身の体に貂の毛皮を羽織り、深いひさしの冬帽と分厚い鹿皮で寒風を遮るその男の、頬骨の高い粗削りな横顔は、いったい何を考えているのか、心の内の読めぬ表情であった。

 三筋の赤味がかった髭を無造作に弄いながら、ええ、だか、さあ、だか、曖昧に答える小二の声を聴き流し、時折暖簾の外に顔を突き出して雪の具合を確かめている様は、一見、ただ店主が客足を気にしているだけのようにも思える。

 「……おい、小二、すまんが酒を注いでくれぬか」

 なんとも静かに佇む男から意識をそらし、林冲は再び小二を手招く。

 「こう寒くては、体も芯から冷え切っていよう。お前も一緒に飲むといい」

 「なんとありがたいことで……では、遠慮なく」

 赤い指先をこすり合わせ、小二がちびりと一杯、林冲の酒を呷る。

 「小二、ここから梁山泊までは、どのくらいかかるのだろうか」

 小二の喉が、大きく鳴った。

 「……梁山泊、ですか? ここからそう遠くはありませんよ。ほんの数里といったところでしょうか。ただ、ここからですと、陸路はなく、水路だけです。舟を手配しなくてはたどり着けぬかと」

 「なんと、そうであったか……では、舟を用意してもらうことはできるだろうか」

 「旦那、こんな大雪の日に、正気ですか? それにほら、だんだん夜が近づいてきた。舟を出そうという輩なんて、どこにもいませんよ」

 「金ならば余分に出す。頼む、どうしても舟を出してほしいんだ」

 「ですから、探す当てもないんですってば。いくら金を積んだって、こんな雪の夜に舟を出したんじゃあ、旦那の身だって危ないでしょう」

 なだめるように、困り果てたように断られれば、さすがの林冲も押し黙るしかなかった。

 明日まで待てば雪が止むという確証もなく、舟を出す者の当てもなくさまようのでは、もはやどうすることもできない。

 (何故こうも、不運が重なる)

 重く痛みだした頭を片手で支え、深くため息をつく。

 禁軍教頭であったころは、憂さをはらそうと思えば毎晩でも街に繰り出し、酒を飲むことができた。話を聞いてくれる妻も、友もいた。

 あの日々が永久に続くと信じていたのに、今ではどうだ。

 高俅に陥れられ、額には消すことのできぬ刺青を刻まれ、いつ止むとも知れぬ雪の中、悪名高き賊の巣窟を探し求め、家はあっても帰ることができず、この身を捧げてきたはずの国に頼ることもできなくなってしまったとは――

 「……小二、筆と硯を貸せ」

 喉元を熱い何かがせり上がり、声が掠れる。

 頭も、目元も、喉も、胸も、何もかもが火傷をしたようなひどい痛みに足元をふらつかせながら、小二が差し出した筆を握り、白壁に向かう。

 子どもに詩歌を教えていた母の、その才を受け継いだとは到底言えぬほどの素養しか持ち合わせていなかったが、それでも、認めずにはいられなかった。


 義に依るは是林冲なり

 為人最も朴忠

 江湖に誉望を馳せ

 京国に英雄を顕す

 身世浮梗を悲しみ

 功名の転蓬に類す

 他年若し志を得ば

 威もて泰山の東を鎮めん


 筆を捨て置き、代わりに再び盃を傾け、身の内を焼く苦き炎にきつく瞼を閉じる。うまいはずの酒さえも、ただひたすらに喉を焼き、叫び出したい声さえ奪っていく――

 「貴様、いい度胸をしているな」

 その気配に、気付かなかったわけではなかった。

 林冲の腰のあたりをひっつかみ、眉間に深い溝を刻む男の瞳が、冬帽のひさしの下でぎらりと光る。

 「滄州で天下を揺るがす大罪を犯した男が、こんなところに潜んでいるとはな。知っているか? お上は今、お前の首に三千貫をかけて、血眼で探し回っているぞ。それなのにこんなところで、呑気に何をしている?」

 「……俺のことを知ったような口ぶりだな。俺が、どこの誰だと?」

 林冲の乾いた声に、男の頬骨の高い顔がひくりと引き攣る。

 「何を白々しい。貴様、豹子頭の林冲だろう」

 「林冲? 何を言う、俺の名は張だ」

 堪えきれぬ、というように、男が笑う。笑うと存外、その尖った印象の顔に、一片の柔らかさが浮かんだ。

 「何を馬鹿なことを。こんなにでかでかと壁に名前を書いておいて、張も何もあるものか。それにこの額の刺青……ごまかしはきかんぞ」

 「それで、お前は、俺を捕まえるというのか?」

 盃に残った酒を飲み干し、髭についた水滴を拭う。目を細めて男の顔を見返せば、張りつめたような男の顔に、刹那、恐怖とも諦めともとれぬ色が走った。

 「……捕まえる、か。まあいい、ついてきな。奥で話そう」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ