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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十一回 朱貴、水亭に合図の矢を放ち 林冲、雪の夜に梁山泊へと入る
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(三)

 その日、久しく続いていた粉雪はぱったりと止み、久方ぶりの青空が、きんと冷えた滄州道の上を覆っていた。

 (豹子頭林冲……誠に得難き男よ)

 すべてを失い絶望に霞んだ瞳をしていた男は今、昏い復讐の炎だけを再び瞳に宿し、柴進の後ろ、食客や下男たちが連なる狩の一行に紛れている。

 馬が歩を進めるほどに、き、き、と音をたてる雪道をしばらく行けば、厳しく通行人を詮議しているという滄州道の出口が近づいてくる。

 (もう少し、膝を突き合わせてあなたと話をしていたかったが……これもまた、天命というもの)

 門前で冷えた両手をこすり合わせている二人の軍官をちらりと見れば、なんのことはない、彼らは二人とも、柴進のよく知る男である。

 同じく軍官であった彼らの父もまた柴進の父と親交があったので、この職に就く前に、親子そろって柴家を訪ねてきたことが何度もあった。

 「おや、柴大官人殿。この寒い日に、狩ですか?」

 厳しい寒さに通行人も少ない中、見知った顔を見つけたのでほっとしたのであろう、どこか気の緩んだ笑顔を二人が浮かべたので、柴進は内心ほくそ笑みながら馬の背を降りた。

 「いかにも、これだけが私の楽しみでねえ。それよりも、お二人はなぜまた、こんな寂しいところにおられるのです? 確かここは、少し前まで別の者がついていたはずだが」

 「実は滄州の大尹殿から公文書がまわってきまして、人相書きが出され、大罪人の林冲を捕らえよとのお達しがあったのです。そこで俺たちが命じられ、ここで見張りをしているってわけです。なにせここは柴大官人のお膝元ですし、通行人は片っ端から厳しく取り締まらねばと気を引き締めております」

 「なるほど、なるほど……」

 柴進は優雅に髭をひと撫ですると、二人の若者をからかうように、背後に控える一行を指さした。

 「その林冲とやらだが……私のこの一行の中に紛れ込んでおるようだ。君たち、それがわからぬとは、おかしい話じゃないか」

 「はは、大官人殿は冗談がお好きで!」

 先ほど気を引き締めていると言ったその口で、二人の若き軍官はけらけらと笑う。

 「どうして義に篤く法度に明るい大官人殿ほどの方が、天下の大罪人を連れて狩りになど出かけましょう? さあ、冷え込みも厳しい故、どうぞおはやく、馬に乗ってお通りください」

 背後から、焦燥と緊張に駆られた気配を感じる。目深にかぶった笠の下、豹の如く円らな瞳が馬上からこちらをじっと見据えているのがわかる。

 (まったく、厳しく詮議していると聞いたが……この気配にさえ気付かぬとは、職務に忠実だったお父上たちには程遠い。まあ、まだ若いからであろうな)

 二人がちらりとも自分の一行に目をやらないことに苦笑が零れるのを隠しつつ、柴進は再び軽やかに馬の背にまたがった。

 「それほどまでにこの柴進を信用してくださるとあれば、帰り道には獲物を君たちにも分けてさしあげよう」

 「お、いいですね、待ってますよ」

 のほほんと見送る軍官たちの姿が見えなくなったころ、柴進の一行の前に、林冲の荷物を持って先に関所を通り抜けていた下男の一人が現れた。

 「旦那様、首尾のほどは」

 「うむ、まったく拍子抜けするほど容易に通り抜けることができたよ。あれでは真の極悪人が来た時が心配だねえ……だがまあ、林教頭、ここまで来れば、もう安心ですぞ」

 馬の背から降り、一行の中ほどでひっそりとしている馬上の林冲に手を伸ばす。

 「柴大官人……あなた様にこの先ご迷惑がかからないかだけが、心配なのです」

 雪の上に静かに降り立った林冲が、笠の下で目を伏せている。

 「あなたも先ほどの様子をご覧になっていたでしょう。万に一つも、あなたがいたことが露見することはありません。さあ、帰りはあなたのその狩衣をこちらの下男に着せて帰る故、ご自分の着物に着替えを」

 下男が抱える荷の中から林冲の着物を引っ張り出して手渡せば、何か言いたげにしていたのをぐっとこらえるように唇を引き結び、林冲が手早く着物を取り換える。再会したときには薄暗い紅色がべっとりと残っていた着物は、すっかり清潔な白に戻っていた。

 「……どうか、あなたの行く道の先が、少しでも明るくなるように……私には祈ることと、多少の力添えをすることしかできぬが」

 「さ、柴大官人、これは……」

 腰に刀を佩き、朴刀を手にしようとした林冲に、小さな包みを渡す。

 「綿入れやわらじ、当面の食糧と、銀子も入っています。梁山泊まではここからしばらくかかりましょう。どうか道中、お気をつけて」

 「……このような大恩、どのように返せばよいのか……っ」

 「や、やめたまえ、林教頭」

 冷たい雪の上に跪いた林冲の頬を何かが伝っていたようだったが、柴進はそれについては触れなかった。

 「荷を増やしてしまって申し訳ないが、これが私のできる唯一のこと。私に恩を返したいと言うのなら、決してはやまった真似はしないでくれたまえ。よいですかな、あなたには今、時だけはあるのです。それを忘れぬよう」

 く、と小さくうなずいた林冲の笠から下がる緋色の房が、冷たい風に微かに揺れる。

 「どうか柴殿も、お元気で」

 再びこちらを見つめ、踵を返した豹の瞳に、もう涙はなかった


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