(二)
その日からしばらく林冲は、柴進の別荘でじりじりとした時を過ごすことになった。
何故陸謙が己を裏切ったのか。どうすれば友を、妻を失わずに済んだのか。どうすれば高俅の罠から逃れることができたのか――今更考えても詮無いことばかりが頭の中を巡り、いくら柴進の下男たちが心を尽くしてもてなしてくれようと、心の内まで暖まる日は来なかった。
このままでは頭がおかしくなってしまう、と気を取り直し、食客たちと軽い手合わせをしたりもしたが、智深のように己の心を震わせるような男には出会えるはずもなく、ただ彼らが憧憬の眼差しを向け、教えを請うてくるものだから、むげにもできぬままに槍棒の稽古をつけてやりもした。
そのひと時だけは、まるで禁軍教頭として若き兵たちを指導していた日々が戻ってきたかのように思えたのだろう、わずかばかり、己の心も上向いたようであった。
「林教頭、大変でさあ。ちょいと近くの町まで出かけてきたんですがね、もうこのあたりにも、あなた様を捕らえよというお触れがあちこちに出回っているようで」
そんなある日、今ではすっかりおとなしくなった百姓たちが血相を変えて知らせてきたことには、すでに滄州の町中だけでなく近隣の小さな村々にまでも、己の首に三千貫をかけて探し回っているという旨の高札が掲げられ、捕り手たちが昼夜問わずうろうろと歩き回っているらしい。
「なんと……あれから幾日も経っていないというのに、すでにそのように広く触れが出回っているとは」
「どうせ滄州の典獄の野郎が、あることないこと申し立てたんでしょう。林教頭、ここにもいつ、捕り手たちが来るかどうか……」
いくら柴進が丹書鉄券を所持しているとは言っても、今の朝廷は、どんな横暴をしでかすかわからない。
(恩人の柴殿に、迷惑はかけられぬ)
まわりから二郎と呼ばれていた食客が具合を悪くしたようで、彼を連れてしばらく本宅に戻っていた柴進が、数日後に別荘へと戻ってきたのを見計らい、林冲は静かに切り出した。
「柴殿、すでにご存じのこととは思いますが、いまや滄州だけでなく、国中に俺を捕らえよという触れが出回っているようです。このように俺を匿っていただくのはありがたいことですが、捕り手も一軒一軒、家の中まで押し入り厳しく俺を探している様子。このままここにいて奴らの手が及んでは、柴殿にご迷惑をおかけしてしまいます。そうなっては、ご恩を仇で返してしまうようなもの。すでに大恩を頂いている身ではありますが、さらに恥を忍んでお願いするならば、どうかいくらかの路銀をお貸しくださいませんか。よそへ行って身を隠し、この難を生き延びることができたなら、犬馬の労を尽くして大官人の大恩に報いる所存です」
馨しい香の酒を一口、口に含み、しばらくその味を楽しむように瞼を閉じていた柴進が、小さな音をたてて杯を卓に置く。
ゆっくりと開いた瞼の向こうで、鳳凰の如く聡明な瞳がきらりと瞬いた。
「……あなたが身を隠すのに、良いところを思いつきましたぞ」
柴進の手ずから注ぎ足された盃の酒が、林冲自身の吐息でかすかに揺れる。
「私が紹介の文を書く故、お持ちになるとよろしい。あなたとこんなにも早くまた別れねばならぬとは無念の極みですが、あそこならばきっと、あなたもその才を発揮できるはず」
「なんと……そのようにしてくだされば、俺も安心というもの。ところで、そのように都合よく俺が身を隠せる場所とは、いったい何処です?」
柴進もまた、湯気をあげる杯の水面を覗き込む。そこには、すがるような林冲の顔と、どこか寂しさを帯びた柴進の顔が映りこんでいた。
「山東は済州にある水郷……四方八百余里の湖の内に築かれた寨です。その名を、誰もが畏怖を込めてこう呼んでいます。梁山泊、と」
大宋国広しと言えど、梁山泊ほど上下臣民問わず人々を震え上がらせる名はないだろう。
山東鄆城県の外れに広がるその水郷は、何度も繰り返される黄河の氾濫の中で徐々に規模を大きくし、林冲の生まれる少し前の氾濫を経て、いまや四方八百余里とも謡われるようになった広大な沼地である。
林冲は未だ近くで目にしたことはなかったが、小島と水脈が入り組み鬱蒼と葦が生い茂るその沼地には、これまで数多の賊が居を構え、ことあるごとに朝廷や民を脅かしてきた。
そんな物騒な地の名をまさか柴進の口から聞くことになろうとは思いもよらなかったが、江湖に顔の広い小旋風のことだ、あの沼地を我が物にする好漢と繋がりがあったとて不思議ではない。
「林教頭、あなたも梁山泊の名は聞き及んでいることでしょう。あの沼地の中心には、宛子城と蓼児洼があり、今はそこに、三人の男が寨を構えています。一の頭領は白衣秀士の王倫、二の頭領は摸着天の杜遷、三の頭領は雲裏金剛の宋万と言い、皆そろって江湖に名をはせる好漢たち。あそこで七、八百人の子分を集め、盗賊稼業をしているのです。この国で大罪を犯した者はよくあそこへ身を寄せ、頭領たちは来る者拒まず、皆かくまってやっているようです。私も何を隠そう、この好漢たちと親しくしており、よく手紙を送りあったりしているのですよ。さあ、そうとなれば、さっそく紹介文を書いて差し上げよう。その文を持ち、彼らのもとで仲間になられるのがよろしいでしょう」
火鉢で爆ぜる炎の如く温かく、しかし確かな熱を持ってきらめく柴進の瞳に見つめられ、林冲はもはや、己の選ぶ道はそれしかないのだと確信した。彼の勧める道ならば、きっと間違いはないはずだ。
「大王たちと親しくなさっている柴大官人の文を携えれば、きっと彼らも俺を受け入れてくれるはず。そのようにお取り計らいくだされば、なによりです」
「ふむ、だが一つ厄介なことがあってね……」
林冲が己の案を拒むことなど最初から考えていなかったのであろう笑顔がしかし、ほんの少し不穏な気配を帯びる。
「この滄州道では、すでに衙門の高札が掲げられていて、二人の軍官が往来するものを厳しく詮議し、出口をふさいでいるという。そこを通らねば、あなたがこの滄州を出ることはできないのだが……」
優雅な指先で思案気に髭を撫でつけていたのも束の間、再び柴進の瞳にきらりと光りが散る。
「そうだ、妙案を思いつきましたぞ。私があなたを、うまく通してさしあげよう」
「ですが、そのように厳しく詮議をしているところを、どのように……」
「はは、あなたは心配ご無用。ただこの柴進の言葉を信じ、ついてきていただければよろしい」
白い歯をこぼしながら、まるでいたずらを思いついた少年のように微笑む貴人にこれ以上あれこれ聞いても答えは返ってこないだろうと踏んだ林冲は、拱手し、静かに頭を垂れた。
「柴殿にはご迷惑をおかけいたしますが、無事にこの滄州を抜けることができれば、死んでも御恩は忘れません」
「わかった、わかった、顔をあげられよ。さあ、君、さっそく林教頭の荷物をおまとめしろ。そして先に関所を通り抜け、例の場所で、私が行くまで待っているのだ。そちらの君は、すぐに馬を用意し、若い者を二、三十人連れ立って、狩りの支度を。林教頭、あなたは、私の部屋へおいでなさい。狩装束をひとつ、ご用意してさしあげましょう」
よどみなく下男たちに命を下した柴進に手を引かれながら、林冲は、この先に己を待ち受けるものを想像し、ゆっくりと白い息を吐き出した。




