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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十一回 朱貴、水亭に合図の矢を放ち 林冲、雪の夜に梁山泊へと入る
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(一)

 最初に感じたのは、日差しだった。

 うっすらと開けた瞼の向こうで、冬にしては珍しく穏やかな日差しが辺りを照らしている。

 (良い天気だ……いや、ここはもはや、この世ではないのか)

 閉じようとする瞼を必死にこじ開け、岩を乗せられたように重い首をもたげ、釘を打ち込まれたように痛む頭を巡らせる。

 まず、こぢんまりとした中庭が見えた。ひっそりと地味な佇まいながらも、そこかしこに植えられた花木から品が感じられる。

 そして、きんと澄んだ青空の中に聳える瓦屋根の、その濃い藍色が目に入った途端、林冲は、微かに我が身を襲った違和感の正体に気が付いた。

 「なっ……」

 やけに瓦屋根が近いのも、当然である――林冲は、得体の知れぬ百姓屋敷の楼門の軒先に、まるで豚肉か何かのように吊るされていた。

 「無礼者! いったいどこのどいつが、俺をこんなところに吊るし、さらし者にしたのだ!」

 「あ、あいつ、ようやく目覚めやがった」

 体に巻き付く荒縄をちぎらんばかりに身を捩る林冲の、昨夜の弱気が嘘のような大音声を聞きつけたらしい百姓たちが、手に手に白木の棒を握りしめ、四方八方から現れる。

 「こいつ、盗人の分際で、まだ偉そうな口をききやがるなあ」

 よく見れば、彼らの顔にはどこか、覚えがあった。

 鈍く痛む頭の奥で、昨晩、雪の中で火を借りようと立ち寄った小屋に詰めていた百姓どもの顔と、彼らの面立ちが重なった。

 「ふん、盗人め。貴様、我らを敵にまわしたこと、たんと後悔するがいい」

 殺気だつ百姓どもの中から一歩、進み出てきたのは、林冲が暴れたときに燃える薪を顔にくらい、髭を焼かれた年寄りだった。

 「さあ、お前たち、こいつを存分に痛めつけてやるんだ。旦那様が起きてこられたら、衙門に突き出し、取り調べをしてもらおう」

 「なんだと……ぐゥッ!」

 白く、何もない世界で、自分の何もかもは終わってしまったのだとばかり思っていた。

 すべてを失った自分には、もはや生きる気力すら残っていないのだと思っていた。

 だが、次々と遠慮なしに打ち付けられる百姓たちの棍棒の痛みが、消えかけていた怒りを、屈辱を、恨みを、そしてそれを晴らさずにおけぬ身の内の炎を呼び戻した。

 「やめ、ろ……俺の話を、聞け……やめんか……!」

 散々に殴りつけられるのをなんとか躱そうと、吊られた体を大きく揺らしながら叫んでいると、棍棒をふりあげていた百姓の中の一人が、何かにはじかれたように体を背後に振り向かせた。

 「あ! 旦那様がお見えだぞ!」

 (旦那様、だと……?)

 こんな横暴な百姓どもを従える旦那とはどのような人物かと、二日酔いで霞む目を懸命に凝らす。

 見れば、庭の向こう、回廊の奥から、一人の人物がゆったりとこちらへ歩いてくるところだった。 

 遠目からでもわかるほど豪奢で繊細な刺繍が施された茶の着物の上に、美しい波紋を描く毛皮のついた深紫の外套を羽織り、後ろに手を組んだ背の高い男は、百姓たちが騒ぎ立てている様子を見て、なんとも典雅に首を傾げた。

 「お前たち、こんな朝早くから、いったい何の騒ぎかね。叩きのめされているのは何者だ?」

 「こいつぁ、俺たちの米蔵に押し入った強盗でさあ! 無理やり酒を盗もうとしたんで厳しくしたら、いきなり槍をふりまわして暴れだしやがった。慌てて逃げてきて、今朝になって様子を見に戻りゃ、こいつ、酔っぱらって行き倒れてるじゃないですか。そこでふん縛って、こうして痛めつけてるってわけです」

 「ほう、それは大胆な輩がいたものだ。どれ、近くで顔を見るとしよう」

 なんともおかしげな声をあげた男が、相も変わらずゆっくりとこちらに近づき、どこかで嗅いだような香の薫りがふわと漂い、

 「り、林教頭!」

 「その、お声は……」

 身にまとう絹よりさらに滑らかで深い、知性と品性が宿るその声には、確かに聞き覚えがあった。

 「なんと……お前たち、この方をどなたと心得る! 東京八十万禁軍教頭の豹子頭林冲殿であるぞ!」

 優雅で大らかな手が、慌てて林冲の縄を解く。

 「旦那様」の言葉で自分たちの失態を思い知ったらしい百姓たちが、皆一斉に逃げ出してしまったので、自ら林冲の長躯を支えてくれた、その男――

 「面目ない……どうかお助けを、柴大官人」

 「ああ、何を謝ることがあろうか、林教頭! さあ、腕をかけたまえ」

 優雅に波打つ髪の下、鳳凰のごとき瞳を冬の日差しに煌めかせ、小旋風柴進は、よたよたと地に足をつけた林冲に肩を貸した。彼のごとき貴人に汚れきった体を預けるのは気が引けたが、いかんせん昨夜の寒さと、そして寒さ以上に心を凍えさせた絶望が、体から力を奪っていた。

 「林冲殿、いったいあなたは、何故こんなところにいるのです? なぜうちの百姓どもごときに、辱めを受けられた」

 「……話せば、長くなってしまいます」

 がらがらと耳障りな林冲の声に何かを察したのか、「まずは何か食べ物と飲み物を用意せねばな」と言うと、意外なほどに力強い足取りで、柴進は林冲を屋敷の奥へと誘った。

 連れられる道すがら、あたりを見回した。以前訪れた柴進の屋敷ではないとすれば、馬草場からの方角を考えても、ここは彼が以前言っていた東の別荘であろう。

 例の邸宅に比べればかなり地味な造りではあるが、調度や庭の手入れの行き届いた様子などは、やはり高貴な品を醸し出している。先ほどの百姓たちが悪態をついているのであろう声に混じって、武芸の稽古にはげむような若い声がいくつか聞こえるので、おそらくこの別荘でも好漢を幾人も召し抱えているのだろうと思われた。

 「さあ、林教頭、お座りください。まずは体を温めて」

 招き入れられた控えの間の、そこに置くにはなんとも立派すぎる椅子を勧められて座れば、柴進は自ら部屋の隅に置かれていた火鉢を引っ張り、林冲の側へと移す。

 あの日、馬草場を焼いた炎とは正反対の、小さくとも優しく温かな火が、凍り付いた体をじわじわと溶かしていく。

 「……お聞きしても、よいですかな?」

 決して無理に聞き出そうとはしない、けれど礼を失しない程度の好奇心がにじむ声に促され、林冲は、ぽつりぽつりと、柴進と別れた後のことを語った。あくまでも起こったことだけを、淡々と話す。そうでもしなければ、今にもどこかに向かって駆け出し、誰彼構わず殺してしまいそうだった。

 「なんとも……なんとも運のない御方だ」

 林冲の言葉を聞き終わった柴進は、小さくため息を吐き、まるで、買おうと思っていた品を誰かに横取りされた時のような、軽い声音でそう言った。

 「そう、すべてはあなたの運が悪かっただけ。悪運に抗おうとしたあなたと、あなたの悪運につけいろうとする者が争った、それだけのことです。だが、こうしてあなたは私のもとへやってきた。あなたが雪の中に命を落とさず、私たちが再びこうして出会ったのは、悪運に抗うあなたに天が与えた幸運ですぞ。さあ、もう何も案ずることはない。ここは私の東の別荘です。本宅に比べるといささか不便もありましょうが、どうか我が家と思って寛がれよ。まずはしばらく心身を休め、その後のことはともに考えればよいのです」

 膝の上で握りしめていた手を柔らかく叩いた柴進の顔には、言葉の軽さに反して、心の底から気遣う色があった。

 (少しでも、俺の気を和らげようとしてくださっているのだな)

 今はまだ、昨夜起こったすべてのことが、どこか夢のように朧げに思える。だが、落としきれなかった血の痕や、掌に残る陸謙の心臓の感触、そして瞼の裏に焼き付いて離れない彼の最期の表情――そのどれもが、夢ではなかったのだと訴える。

 それでも、すべてを失ったと思っていた昨夜と違い、今、目の前に、己に手を差し伸べてくれる人がいる。

 まだ、何もかもを諦めるには早いのだ。

 己からすべてを奪ったものに復讐をするまでは、生きのびなければ。

 「さあ、そうと決まれば、まずは湯を沸かさせましょう。着物も一揃い用意させるので、着替えをしてから食事にいたそう。誰か、林教頭の湯浴みの支度を」

 柴進が手を打ち鳴らせば、どこに控えていたのか、先ほどの百姓たちとは明らかに違う、上品な着物姿の下男たちが現れる。

 「林冲殿、それではこちらへ」

 「……柴大官人、何から何まで、かたじけない。今はご厚意に甘えることしかできませぬが、いつかこの御恩は必ずお返しいたします」

 「何を申されるのです。私が好きで勝手にしていること、どうか気負わず、ゆるりと過ごしてくれたまえ」

 龍の如き髭を指先で撫でつけながら、柴進が微笑む。

 「今のあなたには、時がある。焦ることはありませんぞ」

 恨みに急く心を見透かしたようなその言葉に、林冲はただただ頭をさげることしかできなかった。


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