(六)
山神廟から歩き続けること二時ばかり、さすがに凍てつく冬の夜が骨身にこたえてきた林冲は、まばらに続く林の中をぐるりと見渡した。
馬草場からはかなり離れたこの辺鄙な場所にも、いくつか民家や店があるようで、雪を乗せて沈み込む枝の向こうに、茅葺の屋根がちらほらと見えた。
(あそこに、人がいるようだ)
その中の一軒の小屋の、襤褸の壁の隙間から明かりと人の話し声が漏れているのに気が付いた林冲は、そちらにふらふらと近寄り、
(……このままでは、まずいだろうな)
血にまみれた己の姿に思い至り、かじかんで震える手を叱咤して、半ば凍り始めた雪を掬い上げると、顔や手の穢れをすべて拭い落とした。
それでも衣服に染みついた痕までは消せないので、外套をきつく体に巻き付け、槍を抱えなおして、明かりの漏れる小屋の扉を叩き中へと入る。
「おや、どなただい」
小屋の中では、囲炉裏に灯された火のまわりにぐるりと集まり、一人の年寄りと若い百姓らしき男たちが数名、暖をとっている。
「夜分遅くに失礼する。俺は牢城から衙門へと遣わされた者だが、旅の途中でこの大雪に襲われ着物がすっかり濡れてしまった。どうか少しの間、着物を乾かせてくれはしないか」
「ああ、そういうことなら、ほれ、火の近くに座りなさい」
気だるげに囲炉裏を指し示した老人は、林冲が何者かを気にも留めることなく、若者たちと小さな声で話合い続ける。
「かたじけない」
雪を払い落とした外套を広げ、老人たちから穢れた着物を隠す。
己の姿を見下ろせば、脱ぎ捨てていた白い上衣は綺麗なままだが、内の着物や下衣は、ぐっしょりと紅に染まっている。
その紅のほとんどは、己を裏切った男が最期に流した血であった。
(殺して、しまった)
あれほど殺してやろうと血眼で探した男の、最期はあっけないものだった。
手のひらに、握りつぶした心臓の感触が蘇る。
それをどうにか振り払おうと瞼を閉じ、首を軽く振れば、思い出さなくてもいい光景ばかりが思い出されるようで、林冲はカッと目を見開くと、ただ一心に囲炉裏の炎を見つめた。
そうしてあらかた服も乾いてきたので、再び外套を体に巻き付け立ち上がろうとしたとき、ふと、囲炉裏端に置かれた甕から、酒の香りが漂っていることに気が付いた。
「……ご老人、俺は少々、小粒を持っていてな。どうか、その酒を少し、分けてくださらんか」
つとめて穏やかに声をかけたつもりではあったが、老人は途端にむっと眉を寄せた。
「おいおい、わしらは毎晩寒い中、この米蔵の番をしているんだ。こんな四更の時分は酒がなきゃ凍え死んじまう。この大雪で酒を買いに出ることもできず、その甕にはわしらの分さえ足らないほどしか入っていない。よそ者にやる分などないんだよ」
「凍えているのはあなたも俺も同じこと。どうか二、三杯、いや、一杯だけでもいい、分けてはくれぬか」
「やれないものはやれんのだ」
「一口でもよいのだ」
「お前さんもしつこい男だな。火にあたらせてやっただけありがたいと思えばいいものを、その上酒までせびるとは図々しい。そういうことならさっさと出て行け、消えろ、消え失せろ!」
「……何だと?」
雪崩の予兆の如く不気味な林冲の声に、息巻いていた老人も、そのまわりで嘲笑うようにこちらを見ていた百姓たちも、びくりと体を震わせる。
「ただでもらおうというわけじゃない、金まで払おうというのに、度量の狭い野郎どもめ!」
「ぎゃあ!」
気が付けば、己の槍が刎ね飛ばした熱い薪に、老人が顔を焼かれている。
「何故だ、何故、どいつも、こいつも……!」
囲炉裏を槍でかき回し、老人の髭が燃えるのを慌てて消そうと集まった百姓たちの背に、熱く炙られた灰を浴びせかける。
「こいつ、気でも触れたのか」
「逃げろ、殺されるぞ!」
蜘蛛の子を散らすが如く、我先にと逃げ出す百姓たちの背を、頭を、尻を、散々に叩きのめし、林冲は笑った。
「はは、皆、逃げやがった。これで酒は俺のもの、ひとつゆっくり飲むとしよう」
どかりと囲炉裏の前に腰を下ろし、土坑の上に置き去りにされた椰子の柄杓を握りしめる。引き寄せた甕を傾けて柄杓になみなみと酒を注ぎ、髭も着物も濡れるのを構わず、ぐいと呷る。
「うまい!」
己以外、人のいない小屋の中に、上ずった声が虚しく響く。
「なあ、うまい、うまいぞ……」
二杯目の柄杓を、誰に捧げたのか、自分でもわからなかった。
こんな乱暴をするなんて、とあきれて己を叱る妻も、その意気だ弟、と共に酒を楽しむ義兄も、荒れてるなあ、と肩をすくめる友も、もはや、己には誰も残されていない。
「例えあの業火から逃げ延びたとしても、馬草場に火事を出したとなれば、死罪のほかはない……」
情の一切ない声で紡がれた言葉を、なぞるように口に出す。
酒を飲み続ける気も失せ、林冲はふらりと立ち上がった。
おぼつかぬ千鳥足で外に出れば、もうすぐ夜も明ける頃合いだというのに、外は変わらず白一色であった。
目印となる山も、木々も、家も、道さえもない。
ごうごうと吹き付ける風の中、ひたすら歩く林冲だけがただ一人、この世で息をしているようだった。
「何も、ない」
良い酒だった。
香りも、味も、舌触りも、何もかもが良い、極上の酒だった。
だからなのだ。二、三杯しか飲んでいないのに、こんなにも酔ってしまったのは。
こんなにも酔って、頬を冷たい涙が伝うのは。
(酒のせいに、してくれ、夢雪)
一際強い北風が、どう、と吹いた。
豹子頭林冲は、その風に足を取られ、ついに雪の中に倒れ込んだ。
凍り付いたように、その体は、動かなくなった。
<第十回 了>




