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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十回 林教頭、風雪の山神廟に身を寄せ 陸虞候、馬草場を焼き尽くす
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(四)

 その日は早朝から薄曇りの空であったが、林冲が獄卒頭とともに馬草場を目指して歩き続けるにつれ雲はますます分厚くなり、北からの風がしきりに吹き付け、ついには雪が、降っているのか舞い上がっているのかわからないほどにあたりを覆いつくした。

 一面の銀世界に刻みつけたはずの己の足跡は、一歩進むごとにすぐに消えてゆく。

 眉毛に、睫毛に、髭に、髪に、体中にまとわりつく雪は、解けては凍り、凍っては解けるのを繰り返し、時折ぽたりぽたりと滴になって消えていく。

 道も、遠くに見えていたはずの山も、一面の白の中に沈んでいく。どこから来て、どこへ行くのかもわからなくなるようだ。

 「まったくひどい雪だ……ああ、ほら、明かりが見えた、あそこだ」

 見れば、獄卒頭の指さす先、土塀で囲まれた内側に、馬草を貯め込んでいるとおぼしき茅葺の倉がぼんやりと見える。門の内側、倉の狭間に見える二棟の小屋が番人の暮らす建物であろう。火を焚いている淡い明かりが見えた。

 「爺さん、いるかね」

 獄卒頭が無遠慮に小屋の扉をあけると、一人の痩せた老囚人が、火にあたりながら酒を飲んでいた。

 「おや、何もこんな日に来なくても」

 老囚人は、今回の交代のことを事前に持ち掛けられていたようで、突然やってきた二人の客にも驚くことなく立ち上がった。

 「以前お前に相談したように、典獄殿の命により、今日からこの林冲という男が馬草番となる。お前は牢城に戻り、天王堂の番を頼む。こんな大雪の日にすまんが、すぐに引継ぎをしてくれ」

 「わかりました、それじゃあ、林冲とやら、来ておくれ」

 鍵を手にした老囚人に連れられ再び外へ出ると、彼は倉庫をひとつひとつ林冲に見せてまわり、馬草の数え方やそれぞれどの順番でしまえばよいか、また火を出さないために注意すべきことなど、手短に説明した。

 「倉庫にはお上の封がしてある。馬草にも一山ごとに番号が振られているから、くれぐれも間違わんようにな」

 ぐるりと馬草場を一周し、小屋に戻ると、老囚人はわずかな荷物をさっさとまとめ始めた。

 「そうだ、火鉢や鍋や皿なんかは、みんな残してやるから、お前の好きに使うといい」

 「ありがたい。俺も器の類は天王堂に置いてきたので、あなたもそれを使ってください」

 ひとつにまとめた荷を背負い、最後に老囚人は、壁にかかったままの瓢箪を指で弾いた。

 「ここを出て東の街道を二、三里行けば、街がある。牢城に行くよりもそちらのほうが近いので、酒が飲みたくなったらその街目指していけばいいさ。飲んでくるもよし、瓢箪に酒を注いで戻ってくるもよし、好きにしてくれ」

 「それでは林冲、あとは頼むぞ」

 老囚人は、獄卒頭に連れられ、雪の中を牢城へと戻っていく。

 その後ろ姿を見送りながら、林冲は、これと言って獄卒頭に不審な動きはなかったようだと首をひねる。

 (思い過ごしならば、よいのだが)

 底冷えのする風にぶるりと身が震え、林冲は慌てて小屋の中に引っ込んだ。

 「このような襤褸の小屋で、これからの真冬を超すことができるかどうか……」

 よく見れば、屋根と壁の境目は四隅ともにぼろぼろと細かく崩れ、そこから風雪が細く吹き込んでいる。どうりで火を焚いているのに寒いはずだ。

 部屋の隅に積まれていた炭をかきよせ、囲炉裏の火を絶やさぬよう時折それをくべながら、林冲は己の体を撫でさすった。

 「雪が解けるころになったら、左官を街から呼ばねばなるまい」

 寝台の上に布団を敷いたものの、布団さえも温まらない。四方の壁は、風が強まるたびに、嫌な音をたてて軋んだ。

 「……ひとつ、酒でも飲んで、温まろうか」

 寒さにいてもたってもいられなくなった林冲は、馬草番用の槍の柄に瓢箪を括り付け、小粒を懐にしまい込み、つば広の笠をかぶって鎌を腰に提げた。

 囲炉裏の火に灰をかぶせてすっかり消えたことを確かめると、表門を出て鍵をかけ、老囚人の言葉通り、東の街道をまっすぐ歩く。

 追い立てるように背中に吹き付ける北風が骨の髄まで染み渡り、手足の指先がかじかむ。

 風の吹く音に、己の息遣いと雪を踏む音だけが混ざり合い、沈黙よりも痛い静けさが漂う。

 「……何の廟だ?」

 そうして半里ほど黙々と歩くと、雪の中から唐突に、古めかしい廟が姿を現した。

 うす暗い廟の内側はよく見えなかったが、林冲は立ち止まり、ゆっくりと拝礼をした。

 (どうかご加護を……俺の家族に、義兄に、師や友に、ご加護をお与えください。またいずれ、雪のひどくない日に、改めてお参りに伺います)

 再び歩き出すと、気まぐれな廟の主が己を不憫に思ったか、ほんの少し雪が弱まる。

 今のうちにと歩を早めると、ほどなくして人家の影と、人の姿が飛び込んできた。

 小さな街の様子を眺めていると、酒、と書かれたのれんが目に留まり、ようやくたどり着いたと一息つきながら、林冲はその店に飛び込んだ。

 「おや、お客さん、こんな大雪の日に、どちらから」

 「これに見覚えはあるか?」

 外套や笠から雪をはらい落とし、手袋を外して店主の目の前に瓢箪を突き出せば、店主は納得したように大きく頷いた。

 「ああ、それは馬草場のおやっさんの。あすこの番人さんということでしたら、どうぞどうぞ。お近づきのしるしに、酒と肉をご用意しましょう」

 馬草場の番人は、よほどの模範になる囚人か、よほどに金を持っている囚人しかなれないという話だから、店主も安心して付き合えると思ったのだろう、湯気をあげる牛肉と熱燗を気前よくふるまってくれた。

林冲もまた自分で別に肉と酒を買い、数杯飲んで店主と他愛もない話をした後、牛肉を二包、胸元にしまい、酒をたっぷりと詰め込んだ瓢箪を槍から提げて、来た道を引き返した。

 すっかり温まったはずの体がまたあっという間に冷えていくのを感じながら、林冲はただ静かに、夕暮れの雪景色の中を歩いていく。

 空はすっかり雲と雪とで覆われ、晴れていればさぞや見事であったろう夕焼けも、薄紅と紫と藍の入り交ざった靄のようにしか見えない。

 何で読んだ詩であったか、貧しい書生が詠んだ詩の中に、瑞雪という言葉があったことなどを思い出しながら、激しく吹き付ける雪の中を馬草場まで帰り着いた林冲は、しかし、門の錠を開けて内へ入るとぎょっと目を見開いた。

 「小屋が……」

 襤褸だとは思っていたが、先程までは強い北風にもどうにか耐えていた二つの小屋が、いまや大雪に負けて無残に潰れ、屋根も壁もわからぬほどに崩れ落ちている。

 「こんなにあっという間に住処を失ってしまうとは、どうしたものか」

 暫し思案するが、一人ではどうすることもできない。馬草の番人としての仕事も果たさぬうちに、とんぼ返りで牢城に戻るのも気が引けたが、訳を話して小屋を立て直す手はずを整えてもらうよりほかないだろう。

 ひとまず、火が出ては一大事と崩れた屋根の下に手を突っ込み、先程の炭火が完全に雪に埋もれて消えていることを確かめる。そして次に寝台のあった場所に潜り込み、湿った布団を引きずり出す。

 たったそれだけのことをするのに、雪の重みと小屋の屋根や壁の残骸のせいですこぶる手こずり、気が付けばあたりは宵闇に沈んでいた。

 「さて、一晩どうやり過ごすか……」

 また街へ行ってもよいが、こんな夜更けでは店も閉まっているだろう。はて、と首をひねった時、さきほど街道沿いに廟を見つけ、参ったことを思い出した。

 (そういえば、古い廟が近くにあったな。あそこに一晩、間借りさせてもらおう)

 幸い、肉と酒の用意はある。今宵一晩だけあの廟に身を寄せ、夜が明けて雪が弱まるのを待って牢城へと戻るのがよいだろう。

 とことん己が運に見放されていることにはとうに気付いていたが、まさかこれほどとは――

 (命があるだけ、よしとしよう)

 雪への不安以上に、己を殺しに来ているはずの陸謙たちへの苛立ちが募るが、それもこれも、すべては夜が明けてから考えればいい。

 布団を背負い、瓢箪をぶらさげた槍を担ぎなおすと、林冲は三度、東の街道を辿り始めた。

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