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水滸綺伝  作者: 一條茈
第十回 林教頭、風雪の山神廟に身を寄せ 陸虞候、馬草場を焼き尽くす
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(二)

 灰色の空から、粉のような雪が降り落ちる。

 今年は、まだ開封では雪を目にしていない。滄州の雪は、開封のそれよりも、ずいぶん乾いていた。

 『式は、雪が降る前にと思ってな』

 張真娘と林冲の婚礼が行われたのは、晩秋のことだった。

 『それにしても、色恋にまったく興味のなかったお前がついに妻帯か。ご両親も、天から見守って喜んでるさ』

 儀式の日、両親が亡くなっていた林冲の、親の役を務めたのは王進だった。

 『正直、俺が先かと思ってた』

 『それは俺もだ。謙児は口がうまいから、いつ真娘がお前になびくかと気が気じゃなかった』

 『冗談はよせよ。それに俺は、もっとおとなしい女が好みだからな』

 婚礼の前の晩、慌ただしく支度が進む林家の屋敷を離れ、陸謙は自宅の庭で林冲と二人、酒を飲んだ。

 ただ妻を持ち、家庭を持つ。それだけのことで何が変わるわけではなかったのに、互いになぜか、もう今までの日々には戻れないのだと感じていた。

 寂しさなのか、悲しみなのか、あるいは不安だったのか、今となってはわからない。

 『なあ謙児、手合わせしないか』

 誘ったのは林冲だった。林冲はかなり酒を飲んでいたが、彼の手並みが乱れるほどの量ではなかったはずだ。

 その時、断ればよかったのだ。

 『おいおい、明日痣だらけの顔で婚礼に出ろって?』

 軽口を叩きながらも、久しぶりの手合わせと聞いて、乗り気になった己が恥ずかしい。

 『痣だらけになるのは俺かもしれないぞ。なぁ謙児、頼む、真剣にだ』

 彼と出会い、ともに武の道を志し、そして一人、己は諦めたつもりだった。

 およそ武術において、彼を越す、いや、彼と並び立つものが己にないのだとわかってしまった。

 ひとり、置いていかれたのだ。

 『わかった、じゃあ、手加減はなしだ』

 庭に槍棒を置いていたのは、諦めの悪い証。

 それを二人、手に取り、向かい合った。諦めたはずの心が、舞い上がる心地がした。

 『来い!』

 何合打ち合ったか、今となっては覚えていない。

 だが、舞い上がった己の心はあの日、地に落ち、粉々に砕け散った。

 (何でだよ)

 勝ったのは、陸謙だった。

 生まれて初めて、陸謙の前で、林冲は棒を取り落とし、膝をついた。

 (何で、だよ)

 陸謙を見上げた林冲は、笑っていた。

 『謙児、明日からは……お前が俺を、俺たち家族を守ってくれ』

 その言葉を聞いたとたん、身体中の臓腑が裏返るような心地がした。

 (手を、抜きやがった――!)

 もう二度と訪れない、ただの男一匹同士の最後の時に、林冲は、陸謙を勝たせたのだ。

 そうでなければ、いくら酒を飲んでいようと、この男が自分に負けるはずがない。

 その比類なき強さで余人を圧倒し惹き付ける稀代の男が、友の才の前に屈し舌先三寸で世渡りしている己ごとき男に、守ってくれなどと戯れ言を言ったのだ。

 これが、己を馬鹿にした言葉でないとしたら、何だと言うのだ。

 禁軍教頭の名声も、人望も、恵まれた体格も、文武にわたる才も、何もかもを持っている男が、ついに妻を、そしていずれ産まれる子をも手にしたのだ。

 (お前のせいだ、お前にはわかるまい、俺の……!)

 そのあと何を話したのかは、覚えていない。何か林冲が言っていたのだとしても、怒りと屈辱に侵された耳には、何も聞こえなかった。

 その日から、陸謙は、林冲を憎んだ。

 「……様、お客様」

 ふと、酒店の店主の明るい声が、陸謙の心を今へと引き戻す。

 「お酒は召し上がりますか?」

 人の良さそうな顔で笑う店主に、陸謙は、懐から銀子を一両取り出して握らせた。

 「店主、これで良い酒を三、四瓶、見つくろってくれ。それと、呼んでほしい者がいる」

 「はあ、どなたでしょう」

 「悪いが、牢城から典獄と獄卒頭を連れてきてくれないか。何か聞かれたら、ただ話をしたいという客があるとだけ答えればいい。そして彼らが来たら、どんどん肴や料理を運ぶように」

 「はあ、わかりました」

 物分かりのいい店主が、深いことは何も聞かずに酒瓶を運び、己の頼みのまま店を出て行ったのを眺めながら、陸謙は酒を盃に注いだ。

 「いやあ、いい酒だ。こんな田舎町にも、いい酒というのはあるもんだ」

 連れ立って滄州へとやってきた冨安が湯水のように盃をあけていくのに倣い、陸謙もまた酒を呷る。

 やはり味はしなかったが、そうだな、と答える。

 ほどなくして、店主が典獄と獄卒頭を連れて戻ってきた。

 「あの……失礼ですが、どちらさまでいらっしゃいますか?」

 いぶかしげな顔をする二人に、陸謙は一枚の書状を差し出した。

 「読めばわかる」

 そしていそいそと燗や肴、料理を整えた店主にさらに小粒を握らせ、あとは好きにやる、とだけ告げた。

 「さて、お二方に頼みがある」

 想像よりもはるかに、己の声は静かだった。


 「なぁ、やつら、怪しいと思わねぇか」

 李小二は決して賢い男ではなかったが、あらゆる類いの者が来ては去っていく酒店で長いこと勤めていれば、いやでも人を定める目は鍛えられた。

 「さっきのお客さんのこと? ずいぶん羽振りがいいじゃないか」

 女房はさして気にしていないようであったが、小二はさらに声を潜めて囁いた。

 「やつら、喋り方を聞いていれば、あれは東京の言葉。おまけに、去り際に小耳に挟んだのは高太尉の名前……なぁお前、まさかやつら、林教頭にとって悪いやつらじゃあなかろうかと思ったのさ」

 女房の顔が、さっと青ざめる。

 「あんた、すぐに牢城から恩人様を呼び寄せて、確かめてもらったらどうだい」

 「ばか言え! お前、あの方のご気性を知らんからそんなことが言えるんだ。一度あの方の怒りに触れれば、死んでもなお殺され、燃えてもなお燃やされる。万が一さっきの客が、あの方の言っていた陸謙という男だったなら……考えるだけでおそろしい。巻き添え食わぬためにも、お前、ちょっと裏にまわって、やつらの話を盗み聞きしてみるがいいよ。先のことはそれから考えよう」

 ぶるりと身震いした李小二は、女房がおそるおそる店の外に回るのを見届けると、どうか林冲がふらりと現れ、やつらと鉢合わせしませんようにと祈りながら、夜の分の肴の支度を始めるのだった。

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