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水滸綺伝  作者: 一條茈
第九回 柴進、屋敷に天下の豪傑を招き 林冲、洪教頭を棒にて打ち倒す
75/86

(八)

 それからの数日の生活は、林冲が今までの人生で味わったことのないようなものであった。

 屋敷にいる間だけは、と柴進が董超たちに金を掴ませたので、洪秋との勝負以来、手枷足枷は外されたまま。

 汗と血と泥がこびりついた囚人着は洗濯され、繕われ、代わりに柴進の持つ衣の中でも一番質素な着物が貸し与えられた。柴進は、林冲でさえ一目見ただけで高級とわかる仕立てのよい着物を着せたかったようだが、そこまでされてはと丁重に断った。

 朝になれば使用人たちが瑞々しい果物や薫り高い茶を運び、夜になれば豪勢な食卓に最上の酒が並んだ。

 武一辺倒の己とまったく違う世界を生きてきた柴進との話は興味深く、時が許すならば、彼の機智に富んだ話をもっと聞いていたかった。

 だが、さすがにこれ以上長居をしては、柴進にも迷惑がかかる。

 「柴殿、俺は刑をまっとうせねばなりません。頂いたお心遣いには感謝してもしきれませんが、そろそろ出立しなくては」

 「なんと林教頭、明日にでもあなたを我が東の別荘にお招きし、先日お話した、清河県から来た男と引き合わせようと思っておりましたが……。だがこうして引き留めて、あなたにいらぬ迷惑がかかってしまっては一大事。ただ、最後に一晩、貴方をお送りするための宴を設けさせてください」

 その夜、 大周柴世宗の末裔が設けるにふさわしく、品の良い宴が催された後、柴進は林冲に二通の手紙を手渡した。

 「柴殿、これは?」

 「滄州の大尹殿は、私とは親しい仲。それに、あそこの牢獄の典獄たちの中には、私の屋敷に滞在していた者もいる。この手紙に貴方のことを詳しく書き、必ず丁重に扱うようにと添えておいたから、きっと皆、貴方によくしてくれることでしょう」

 さらに、二十五両の銀子が入った袋を有無を言わせず林冲の手に押し付けると、後ろに控えていた董超と薛覇にも五両ずつの銀子を渡し、柴進は穏やかに、だが確固とした口ぶりで言った。

 「この先、必ず林冲殿を無事に牢獄に送り届け、君たちに何やら詮索をしてくるものがあっても、告げ口などは一切しないことだ。わかったね」

 董超と薛覇は顔を見合わせ、がくがくと頷いた。

 「もちろんです。そのようなことは、きっといたしません」

 それを聞いて安堵したように頷いた柴進は、林冲の両肩に手を置き、名残を惜しむように微笑む。

 「例え牢の者に良くしてもらえたとて、無実の罪に耐え、この辺境の地で牢役を務めながら暮らすのは苦労も多かろう。どうか凛と、今の貴方のままで、この苦境を耐え抜かれよ。この柴進、僅かばかりではありますが、遣いの者をやって、着物や食べ物、入用なものはこまめに届けるようにいたします」

 「柴殿、あなたにいただいた御恩には、感謝してもしきれません。報いるすべもありませんが、この林冲、必ずや生きて東京に戻り、いつか恩返しをさせてください」

 そうして次の日の朝、再び枷をつけ囚人の姿となった林冲は、何度も別れを惜しみながら、董超と薛覇とともに残り僅かの旅路へと戻った。

 昼を過ぎるころにはすでに滄州の城門が眼前に迫り、質素ながらも趣のある街並みを見渡しながら、林冲はひたすら黙って歩き続ける。

 「林教頭、ここが衙門のようです」

 東京を出立し、智深に散々いじめられていた頃とは打って変わって、丁重に林冲に頭を下げる二人の様子に、林冲は思わず笑い声を零した。

 「なんだ、どうした、随分殊勝な様子ではないか」

 「林教頭、私たちは所詮しがない小役人。上から天の声があればそれに従い、命惜しさに醜いこともしながらどうにか生きてまいりました」

 董超に続き、薛覇もまた粛々とした声をあげる。

 「ですが、花和尚魯智深殿と義兄弟となり、あの柴進殿にさえ一目置かれ、また洪先生との手合わせでの堂々としたお姿を見て、私たちはようやく、あなた様のような好漢に、自分たちがどれほど無礼を働き、またもったいないことにその命を奪うところだったのかと思い知ったのです」

 「私たちのような心の狭い凡人は、そうそうこの生きざまを改めることはできません……だから、東京に戻りましたら、またうまいこと、のらりくらりと高太尉や陸虞候の御咎めをかわしてみせようと思います」

 「どうか一日もはやく刑を終え、東京に戻られる日が来ますよう」

 その言葉が本心なのか、この場だけのものなのか、林冲には図りかねた。だが、彼らの立場については、よくわかっていた。所詮、この世は高俅たち奸臣の手のうちだ。

 「ここまでよく連れてきてくれた。お前たちも、無事でいてくれ」

 それだけ言うと、林冲は衙門の入り口をくぐった。

 開封府からの書状を読んだ大尹は、何か腑に落ちないような顔で首をかしげていたが、ひとまず林冲を牢獄へ送るよう手配し、董超と薛覇には返書を渡して追い帰した。

 いよいよ、林冲は一人になった。


 「開封東京の林冲よ、ここが今日からお前の棲処だ。せいぜい死なぬよう、用心するんだな」

 気力のなさそうな獄卒に引き連れられ、林冲は生まれて初めて、牢獄の全貌を目の当たりにした。

 理不尽に牢に入れられた仲間の見舞いや、罪人の一時的な護送で牢を訪れたことはあったが、当然、囚人として正面から牢に入れられたことなどない。

 禍々しく構えられた巨大な門をくぐり、不気味に揺れる柳の大樹の影をまとった、獄神を祀る天王堂(てんおうどう)を通り過ぎ、罪人を取り調べる点視庁(てんしちょう)の方角へと向かえば、青黒い松の大木が薄気味悪くねじれ曲がり、その木陰では、手足に枷をつけられた囚人たちが僅かな休息をとっていた。

 どのような罪を犯したのか、ぎらつく目は落ちくぼみ、歯は黄ばみ、髭も髪も伸び放題のその姿からは、恨みや憎しみがあふれ出している。

 ひとまず点視庁での沙汰があるまで、と案内された独房はひどく暗く、灯りと言えば、見張りの獄卒たちが数刻おきに火を換えているのであろう二本の松明のみであった。

 外の蒸し暑さからは考えられないほど冷え切った石床に林冲が腰を下ろすと、今度の新入りはどんな野郎かと詮索したがる雑居房の囚人たちが、ぞろぞろと柵のまわりに集まりこちらを眺めまわした。

 「おい、おい、若いの」

 その中でも一番歳をとっているらしい痩せた男が、歯の抜けた口をにたりと開ける。

 「おめえ、知ってるかい。ここの典獄や獄卒どもはそりゃあひでえ男ばっかりさ。俺たち囚人をいじめ、金をふんだくれるだけふんだくって、あとは知らん顔さね。金をくれてやれるような者は優遇されるが、そうでない者は死なないぎりぎりまで痛めつけられ、そしてまた傷が治れば痛めつけ、の繰り返し。見張りもつけられ死ぬにも死ねないという生き地獄よ。付け届けさえありゃあ、おめえ、お沙汰のときの殺威棒だって許されて、病気だって言やあそれ以上は聞いてこねえ。けど付け届けができねえと、百も二百も背中を打たれて、死ぬよりひどい苦しみを味わうことになるってわけよ」

 男は、探るような目で林冲をじろじろと眺めた。

 「若いの、あんた、その小綺麗な様子じゃ、付け届けできる分くれえの金はあるんだろ」

 「……助言に感謝する。ところでその金とは、いくらほど渡せばよいのだ」

 「そうさなぁ、典獄には銀子五両ほど、いや、獄卒どもにも五両だ。それで十分よ」

 男の言葉をかき消すように獄卒の足音が鳴り響き、不機嫌そうな顔が林冲の房の前に現れる。

 「新入りは、お前か」

 「はい、私です」

 相手の出方を窺いじっと黙っている己の様子が腹立たしかったのだろう、獄卒は眉間に深い皺を刻むと、柵越しに林冲に指をつきつけた。

 「おい、貴様、なにが『私です』だ。拝礼もせず、挨拶もなしに済むと思うのか! 聞いたぞ、貴様、東京ではあの高太尉にたてつくなんて大それたことをしたらしいな。英雄気取りか知らないが、俺の前でその態度をとったこと、必ず後悔させてやる。けっ、餓鬼みてえな貧乏くさい面をしやがって、その様子じゃあたとえ刑を終えても一生うだつはあがるまいよ。どうやら護送役人どものいびりにも耐えてここまで来たようだが、今日からはお前の命など俺の思いのまま。二度と外に出られねえくらい、その体をぼろぼろにしてやることも訳はないんだからな」

 己の意志も信念も感じられない、うわべだけの男の脅し文句を聞き流し、林冲は細く息を吐いた。

 (これも、生きるためだ)

 獄卒の剣幕にすっかり恐れをなした囚人たちは、雑居房の奥に身を潜めている。

 「……獄卒殿、どうかお怒りを鎮めてください。僅かばかりではございますが」

 林冲は微かな作り笑いを浮かべ、獄卒の手に銀子五両を握らせた。

 「ほう……これは、典獄殿と俺の分というわけか」

 「とんでもない。これはひとまずあなた様の分。典獄殿には、別に十両をご用意しています。お手数ですが、この十両は、典獄殿にお届け願えますか」

 途端、獄卒の男は、おもしろいほどに相好を崩した。

 「はは、林教頭、あんたの勇名はかねがね聞き及んでおりましたが、これほどの人物とは……高太尉があんたを妬んで陥れられたのも当然ですな。少しの間お辛いでしょうが、刑が終われば必ずひと花咲かせられることでしょうよ。まったく、たいした人物だ」

 思わず冷たい笑いをこぼした己のことを気にも留めずまくしたてる獄卒に、林冲は続けざまに柴進の手紙を手渡した。


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