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水滸綺伝  作者: 一條茈
第九回 柴進、屋敷に天下の豪傑を招き 林冲、洪教頭を棒にて打ち倒す
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(七)

 棒の先で地を擦り、拍子を刻むように足を躍らせ、水底の鯨が潮を噴きながら浮かび上がるが如く棒を突き上げる。

 慌てて反撃しようとした洪秋が打ち返した棒は空を切り、身をかがめた林冲の頭の上を虚しく泳ぐ。

 「お、っと」

 地を走る根の如く足元を狙えば、それを振り払うのに精いっぱいの洪秋であったが、林冲の歩幅が枷で限られているのを見て取り横跳びに跳ねると、わき腹めがけて棒を振り下ろす。

 「ヤッ!」

 片足を軸に半身をひねった林冲の棒が、軽やかな音とともに四合、五合と洪秋の棒を打ち払う。

 このまま彼の脳天に一撃を打ち込むのは造作もないことであったが、いかんせん、手枷足枷に動きを限られていては、実力をすべて出し切った正面勝負はできなかった。

 「……待った!」

 息を乱し始めた洪秋の棒からふわりと後ろに身を引き、飛び上がって彼から離れた林冲は、右手をあげて叫んだ。

 「林教頭、いかが致しました。まるで子どもと戯れておられるようではありませんか。本気の術を見せてはいただけぬのか」

 まるで洪秋のことなど念頭にない柴進の物言いに面食らいながらも、林冲は棒を地に置き、小さく頭を下げた。

 「この勝負、林冲の負けにございます」

 「まだ勝負らしい勝負もしていないというのに、なぜそのようなことを」

 「俺には、手にも足にも枷がある。これでは洪先生と真正面から戦えぬゆえ、負けでございます」

 「……ふ……はは、おもしろい御方だ!」

 膝を打って大笑いした柴進は、下男に銀子のたんまり入った袋を運ばせると、先から石にでもなったように成り行きを見守っていた董超と薛覇に歩み寄り、彼らの手にその袋を握らせた。

 「君たち、この勝負の間だけでよい、どうか林教頭の枷すべて、外してはくださらんか。もしも今日、あるいはこの先の牢で面倒が起これば、一切の責任はこの柴進が負いましょう。その心の証に、ここに銀子十両をご用意した」

 「こ、これは……」

 うろたえながら顔を見合わせていた董超と薛覇だったが、ここまで来て林冲も逃げはしないであろうという確信と、柴進の風格に何か感じるものがあったのだろう、素直に銀子を受け取ると、いそいそと林冲の枷を外し始めた。

 おまけにどういう風の吹き回しか、「林教頭、まだお体が万全でないのですから、お気をつけて」などと小さな声で言うものだから、いったい彼らも大人しくなったものだと林冲も首をかしげるのであった。

 「さあ、これで何もこの勝負を妨げるものはなくなった。どうぞ存分に続きを打ち合いなされ」

 「ふん、枷をつけたままでは俺に完膚なきまで打ちのめされるとでも思ったか。はは、そのままでいれば手加減してやったものを。まあいい、さあ、来い!」

 あれほど軽くあしらってやったのも、林冲の真意のほども、この男には通じていないらしい。偉そうな口ぶりで棒を手にした洪秋の姿を呆れたように眺めていた柴進が、再び下男を呼び寄せ、さらに銀子を持ってこさせる。

 「お二人の打ち合いは、めったに見られぬものになりましょう。ここに二十五両の銀子をご用意しました。この勝負、勝った者に、この銀子を捧げよう」

 常ならば金になど心動かされぬ林冲であったが、この先、牢にあってはいろいろと金が入用になることもあるだろう。柴進が己を勝たせ、この金を己に与えたい心づもりなのは明らかであった。

 「罪人に金などいらんだろう。その銀子、俺がいただく」

 棒を高く天に突きあげた把火焼天(はかしょうてん)の構えは、しかし、体の芯がしっかりしていなければ、あっという間に打ち払われる諸刃の剣である。

 (わかっているのか、いないのか……その立ち方では、甘い)

 意気揚々とする洪秋の姿に、若者たちを教えてきた禁軍教頭の性がむずむずとする。だが、実力はどうあれ、相手が本気であるならば、こちらも本気を出すまでだ。

 「さあ、来い! 来ないならこちらから行くぞ!」

 棒を横に構え、一歩足を引き、得意の撥草尋蛇(はっそうじんじゃ)の型を取る。

 静かに立ち尽くす林冲のその型は、ともすれば防戦一方に見える。洪秋も、己が怯えていると思ったのだろう、隙だらけの型のまま踏み込み、勢いのままに棒を振り下ろす。

 (……足が上体に追いついていない)

 わずかに体を傾けただけで洪秋の棒を続けざまに躱し、微かに洪秋の足の踏み込みが弱まった瞬間を見極め、蛇のように撓らせた棒を鋭く跳ね上げる。

 「ガッ!」

 林冲の一撃を受け止めきれなかった洪秋の顎に彼自身の棒が食い込み、その勢いで彼の体がぐるりと回る。その隙を逃さず一気に身をかがめ、脛めがけて棒を払えば、洪秋の足は簡単にもつれ、どう、と無様に尻もちをついた。

 「くぅッ……」

 棒が転がる乾いた音に続き、野次馬たちの歓声が沸き上がる。

 「はは、先生、さっきの威勢はどこへ行った」

 笑いながら近づいてきた下男たちに助け起こされた洪秋の顔は、憤怒で赤く染まっている。

 「……なかなか筋の良い使い手のようだが、惜しいことに隙がある。罪人となり腕のなまった俺にさえ、こうも簡単に打倒されるようでは、真の使い手には敵うまい。男と男が真正面から打ち合う時は、決して相手を侮らぬことだ、洪秋殿。まっすぐな心さえ学べば、いつか真の洪教頭となろう」

 林冲の言葉を聞いたか聞いていないかは定かでないが、洪秋は一言も述べることなく、腰をさすりながら去っていく。

 「いやあ、林教頭、御見事、御見事。この柴進、感服いたしましたぞ!」

 優雅に手を叩いた柴進に導かれ、再び彼の部屋へと連れ戻された林冲は、先程以上の酒と料理で勝利を労われた。

 「しかし、柴殿の師匠に恥をかかせてしまいました」

 「心配めされるな、林教頭。まだ若いのに、我々が洪先生などとおだてたのが悪かったのでしょう。根は悪くない男なのです。それに、行く当てもない。きっとすぐに、ばつの悪そうな顔でここに戻ってきます……さ、それより林教頭、お約束の銀子をお受け取り下さい」

 「いえ、しかし、俺は金のために戦ったわけでは……」

 「林教頭、これはあなたの今後のため。牢では金がなくて困ることはあっても、金があって困ることはないと言うではないですか。いろいろと入用になることでしょうから、どうぞお納めください。この柴進、貴方が受け取ってくれるまで、ここを動きませぬぞ」

 きらりと輝く柴進の瞳に気圧された林冲は、そこまでおっしゃるのであれば、とありがたく銀子を受け取った。

 背後で董超と薛覇が惚けたように立ち尽くし、己を眺めていたことに気が付いたのは、柴進が「何をぼんやりしているのかね、君たち」と彼らに声をかけ、座らせたあとであった。


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