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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(八)

 「……や、しまった」

 横になろうとしていた董超が、突然、焦ったような声をあげて飛び起きる。

 「董殿、いかがした」

 「いや、何、ここで一眠りしたいのは山々なのだが、あいにくここには鍵もなければ錠もない。俺たちが寝ている間に、お前が逃げ出してしまうのではないかと思うと、不安で眠っていられないのだ」

 思わず林冲は、眉間に深い皺を刻みながら董超を睨み付けた。

 よりにもよって、己がそのような汚い真似をするとでも言うのか。

 今や置かれた立場は役人どもと違わぬと言えど、そして例え身に覚えのない罪であろうと、与えられた罰から逃げ出すほどまで落ちぶれてはいない。

 「董殿、見くびらないでいただきたい。俺とて一人前の男子、罪を負った身で逃げ出すことなどいたしません」

 だが、こちらもそわそわと起き出してきた薛覇が、いぶかしげに目を細めて林冲を見下ろす。

 「お前はそう言うが、罪人の言うことをそう易々と信用はできないんでね。どうだろう、俺たちが寝ている間、お前を縄で木にくくりつけておくというのは」

 まったく彼らがまっとうな心の持ち主で、己が真の罪人であったならば、彼らのその熱心で周到な仕事ぶりに賞賛すら送ったことだろう。

 「……それでお二人が安心するというのなら、好きにすればいい」

 短く答えると、林冲は木の幹に深くもたれかかり、体の力を抜いた。

 この男たちとて、高俅が下した刑罰を最後まで滞りなく執行しなければ罪に問われる。囚人をいたぶることでしか己の虚栄心を満たせない彼らも、ただ黙って耐えるしかない己も、目的は滄州に到着することただ一つなのだ。

 「これはこれは、さすが豪傑、肝が据わっている。だがなあ……」

 腰から外した縄で執拗なまでに林冲の身体を、腕を、脚を縛り、木の幹に括り付けていた薛覇の淡々とした声が、唐突に冷たい色を帯びる。

 「林教頭、豹子頭林冲よ。誰もに慕われ、恨みを買うことなどなかったあんたには縁がなかったろうが、この野猪林という場所はな、これまで数々の豪傑がその命を落としてきた場所なんだよ……金でやとわれた護送役人に襲われてね」

 陽の光すら差し込まぬ木陰に、二人の護送役人が、なおいっそう暗い影を作り出す。

 「……何が、言いたい」

 どこか憐れむような二人の視線を真正面から投げつけられ、弄ぶように水火棍の先端に身をつつかれながら、それでも林冲は毅然と顔をあげた。

 「まったく、あんたって男はお人よしだな。まだわからんようなら、教えてやろう」

 董超の握り締めた水火棍が、喉元に食い込む。

 「東京を発つ前、とある方にこう頼まれた。『どこでもいい、遠くなくてもいいから、どこか護送の途中で、林冲を始末してほしい』とな」

 林冲とて、この男たちが思うほどお人よしではない。日が経つにつれ、心のどこかで、こうなることを感じるようになっていた。

 暑い中わざと己を追い立てたのも、足を焼いたのも、こうして己を弱らせ始末するためだったに違いない。

 「この林冲、亡き両親や師、同胞、部下、そして妻……誰にも恥じぬ生き方をしてきたつもりであった。だが、こうして無実の罪を着せられ、重罪を課されただけでなく、ついに天にも見放され、この命を奪われるのか」

 林冲は、己が笑っていることに気が付いた。

 心のどこかでこの天命を予見しながら、それでも己を縛ると言う男たちに抗いもせず、こうしてまるで無防備な姿を晒しているとは。

 「これ以上お前を連れ回したとて、どうせそのうち殺さねばならん。それならさっさとここで片を付けてしまいたいのだ。わかってくれ、林教頭、俺たちだって、こんなことはしたくない。だが、上司の命には逆らえぬのだ。はやくお前の面の皮を剥いで持って帰らねば、今度は俺たちの命がないんだよ」

 喉元の水火棍が、小刻みに震えている。林冲の低く、果てしなく乾いた笑い声が、震わせたのだ。

 (妻よ、許せ)

 永訣のつもりで、離縁状を書いた。

 高衙内に渡すくらいならば、彼女が認めた男に彼女を託したいと願った。

 せめてその報を聞いて安心するまでは、生き延びたかった。

 (その願いさえ、もはや叶わぬ……だからもう、俺のことは、忘れてくれ)

 己を、妻を、慕ってくれた人々が大勢いる。孫孔目や滕府尹のような人もいる。そして、義父は誰よりも信頼のおける人だ。きっと妻にとって一番いい道を選んでくれるだろう。

 これ以上、己のせいで妻の人生を狂わせたくはないし、生き恥をさらしたくもない。

 「おかしな奴だ、何を笑っている。さあ、こうとなれば、はやいところ済ませるぞ」

 「董殿、薛殿……最期に聞かせてほしい。お前たちに俺の始末を頼んだのは、高俅なのだな」

 それぞれに水火棍を掲げた二人は、顔を見合わせた。

 「俺たちごときが高太尉殿と直々に話をできるわけがないだろう。俺たちは、陸虞候に頼まれたのだ」

 その名が耳を打った刹那、体よりも先に死にかけていた心に、どす黒い炎が、確かに灯った。

 「……陸虞候が……陸謙が、お前たちに金を渡し、俺の始末をしろと言ったのか」

 「そうだ。俺たちとて、開封府よりの命は絶対だから、こんなことはできんと言ったんだぞ? だが、確かに高太尉よりの命だと陸虞候が言ったので、こうやってしかたなく、お前を殺すのだ」

 林冲の中にあった小さな違和感の源が、ようやく姿を現した。

 絶大な権力を持つ高俅が己を始末したいのならば、どんな手を使ってでも己を死罪にすればよかっただけの話だ。

 それでも流罪への減刑を承諾したのは、己如きのためにそこまで横暴をするほどの危険は冒せなかったからであろう。政に疎い林冲とて、高俅の足を引くことができる人物が存在することくらいはわかっている。

 だから、こんな乱暴な形で己の命に方を付けようとするとは、あまりにも高俅らしくないと思っていた。

 あの男だ。

 舌先三寸で、おべっか使いの才ならば高俅にさえひけをとらぬあの陸謙が、高俅をけしかけたのだ。

 あの男をのさばらせておけば、妻の身が危ないのは明らかだった。

 「陸謙ッ……貴様だけは……貴様だけは……!」

 笑い声は、咆哮へと変わった。

 頭の奥が、千も万も鐘を鳴らしたように痛む。

 手放しかけていた命の灯は、今や黒々と燃え盛っている。

 「董殿、薛殿、このまま陸謙の意のままに死んでは、俺も死に切れぬ。あなたたちは俺に何の恨みもなかろう。どうかこの命、永らえさせてはくれないか」

 荒縄が、薄い囚人着ごと、体に食い込む。

 「なんだ、さっきまではすでに死んだような目をしていたくせに、今さら何を。言っただろう、俺たちだって、命が惜しいのだ」

 普段ならば引きちぎっているような縄も、足には力が入らず、背中は痛み、思うように体を動かせない。

 「そうだ、もう、すべては手遅れなんだよ!」

 「夢雪――ッ!」

 見開いた目から一筋の涙が溢れ、董超と薛覇の怯えた顔が歪み、振り下ろされる水火棍の影が己の影に吸い込まれ、そして、

 「林冲!」

 轟、という音が、冷たく澱んだ野猪林の靄を切り裂いた。


〈第八回 了〉

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