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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(七)

 董超たちが飯の支度をする音にも、やがて出来上がった飯の匂いにも、林冲の腹はまったく興味を示さない。

 ただひたすらに、じくじくと足を蝕む痛みを堪えるのに精一杯で、ひどい眩暈に寝台から起き上がることもままならない。

 「林教頭、そら、飯だぞ」

 目の前に皿を突き出されても、ただ微かに唸りながら首を横に振るだけの己の様子に、薛覇がいらいらと舌打ちを響かせながら水火棍で床を叩く。

 「せっかくの董殿の親切を断るとは、何様のつもりだ」

 「まあまあ、薛殿、朝からそう、かっかとするな」

 口ぶりだけは優しげなふうを装いながらも卑しく瞳を細めた董超が、起きあがるのに苦労している己の背をひっぱりあげ、ちらりと足元に目をやった。

 「ところで林教頭、あんたの履いていた草鞋はあまりにもぼろだったから、新しいのを調達してきたよ。これで少しはあんたの牛のような歩みがはやまるといいが」

 董超が腰元から取り出したのは、あろうことか、真新しい麻の草鞋だった。

 「……董殿、ご好意には感謝するが、見ての通りの足だ。その真新しい草鞋では、ただの一歩も歩けまい。どうか古い草鞋を返してくれ」

 ようやく絞り出した言葉に、再び薛覇が棍を打ちならした。

 「貴様、いい加減にしろ。俺たちだって、好きで貴様のような罪人の世話をしているわけじゃないんだ。それを偉そうにあれこれ文句をつけるとは。いいから黙って履け、履くんだ」

 薛覇の怒声に神妙に頷きながら、董超が林冲の焼け爛れた足をがばりと掴み、真新しい草鞋にねじ込む。

 麻の鼻緒が甲に擦れ、水疱が破れる。

 「あんなぼろの草鞋、とっくに捨てた。さあ、飯も食わんなら、さっさと出発するぞ」

 声さえ出せずに打ち震える体を両側から引っ立てられ宿を出発すれば、あたりの景色は未だ薄青い靄に覆われ、何のことはない山道も、ひどく不気味な様相を呈している。

 「おい、林冲、いったい禁軍教頭などとは名ばかりなのか? こんな山道さえすいすい歩けないとは」

 「まったく、名ばかりのくそやろうめ」

 ぶつぶつと投げかけられる罵詈雑言が、なおさら足の痛みを強めているようにさえ感じ、林冲は必死に楽しかった日々を思い出そうと歯を食いしばる。

 王昇に初めて槍を褒められた日。陸謙と大きな魚を釣り上げて帰り両親が笑っていた日。王進の任務にこっそり同行させてもらった日。妻と二人で遠乗りをした日。心震わす義兄弟に出会った日。禁軍教頭に就任した日。喜んでいた師兄、親友、妻――

 (こんなことで、倒れる俺ではなかったはずだ)

 鍛錬に明け暮れ、得難い師や友を得、温かい家族に恵まれ、そして憧れていた職さえも手に入れた。

 これからさらに高みを目指し祖国のために尽くそうと、意気揚々、胸を張って歩んできた人生だった。

 それが今や、手加減されたはずの棒打ちの傷に苛まれ、無残に破れ血を噴き出す水疱に歩みを妨げられ、心卑しい男たちに好き勝手な侮蔑の言葉を投げかけられ、髪を振り乱し惨めな姿を晒している。

 痛みなど物ともしないはずだった。どんな言葉を投げかけられようと、己の信じるものは揺らがないはずだった。すべてを己で決め、己で選び、己で勝ち取り、己で責を負ってきたはずだった。

 この世の誰も、豹子頭林冲を飼いならすことなどできぬはずだった。

 「っ……」

 噛みしめすぎた奥歯が鈍い音を立て、膝が折れる。

 「おい、うすのろ、何をしている。歩かないなら、この棍棒で尻を叩くぞ!」

 「……お二方、俺も好きで立ち止まっているわけではない……この通り、足が痛んで歩けぬのだ」

 「まったく、手のかかる男だ」

 埒があかぬと見た董超と薛覇がしぶしぶ手を貸し、両側から支えられながらさらに五里ほど歩くうち、やがて太陽が空に姿を現し、六月の暑気が舞い戻ってくる。俯きながら歩いていた林冲が、流れ出る汗を払うために顔をあげたとき、目の前にはすでに、異様なほど鬱蒼とした林が迫っていた。

 「……野猪林(やちょりん)だ」

 誰にともなく薛覇が呟いたその名には、聞き覚えがあった。

 朝露を含み鬱々と垂れ下がった木々の葉が雲海のごとく立ち込め、滴り落ちる雫はこの晴れた空の中でその林だけ異界のものであるかのような水煙を撒き散らしている。

 時折自重に耐えかねて大きく幹を揺らす木々の様は、何か恨みを抱いた人間が身悶える姿に似て、日も当たらぬ一本道に不穏な影を投げ掛けていた。

 「ふん、日が昇る前に宿を発ったというのに、まだ十里も歩いていないではないか。こんな調子じゃ、滄州にたどり着くまで何年かかることやら」

 恐怖を振り払うためか、わざとらしく大きな声をあげた董超に引きずられるようにして林に踏み込めば、臓腑の底まで冷え込むような湿った微風が体にまとわりついた。

 「まったくだ。少し歩いては休むのを繰り返していては、こちらまで疲れてくるというもの。ここらでちょいと一眠りしようではないか」

 なかば投げ捨てるように林冲の体を突き放した二人が、めいめい、唸り声をあげながら体を伸ばしたり曲げたりするのを、木の幹にずるりと体をもたれさせた林冲は横目に眺めていた。

 (俺と同じだ、この男たちは)

 己で生き様を決められず、薄汚れた権力の前に這いつくばるしかない、哀れな人間――今や、林冲と護送役人たちの間には、何の違いもなかった。

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