(五)
「端公さん、薛端公さん。なんだかお役人みたいな人が、あんたをお呼びだよ」
「お役人? いったい、どなただ」
「いや、あっしも知らないんでさあ……ただ端公さんを呼んでこいって、言われただけで」
滄州へ赴く前の最後の支度を調えていたであろう薛覇の、怪訝な声が店の入り口から聞こえてくる。
微かに濁った酒で満たされた盃を静かに傾けながら、陸謙は、店の中を見渡した。
少し寂れてはいるが、この店は、魚がめっぽう旨い。見つけたのは、陸謙だった。なかなか魚でこれぞという店を見つけられないとぼやいていた男を、得意げに連れて来たのはいつのことだったか。
黒い紗の羽織に滴がこぼれ落ちるのもかまわず、ぐい、と盃を一杯飲み干したちょうどそのとき、どこか不穏な顔をした薛覇が、陸謙の前に姿を現した。
彼は、陸謙の向かいの席に座り恐々と様子を窺っていた董超の姿を見つけて、驚いたように眉をあげる。
「なんだ、董超もこちらの旦那にご用が?」
董超は、ようやく仲間がやってきたので安心したのであろう、「そうだ、お前と同じで、こちらの旦那に呼ばれたんだ」と何度も頷いた。
「あの、失礼ですが、旦那さまはどなたさまで?」
「……まあ、詳しい話の前に、まずは一杯」
「は、はあ」
何故見知らぬ男に気前よく酒を奢られているのかわからない、といった様子で、護送役人どもがちびりちびりと何杯かの酒を飲み干したのを見計らい、陸謙は、するりと袖に手を入れた。
指先に触れた銀子は、夏にさしかかった季節というのに、ひどく冷たい。
十両の銀子が、乾いた音を立てて、卓の上に転がった。
「……あ、あの、旦那?」
「これは」
男たちの目が、あからさまに輝く。
なんと汚く、醜い。
本当はこんな虫けらのような男たちに任せたくはなかったが、己が動けば怪しまれる。
それに己もまた、主の気分次第でいつこの身を潰されてもおかしくない虫けらであることは、この男たちと何ら変わりない。
「お二人に、五両ずつお受け取りいただきたい。頼みがあるのだ」
「そ、その、初めてお会いしたのに、いきなりこのような大金を……いったい、どのような頼み事で?」
「お二人は、これから滄州まで行かれるとか」
「ええ、開封府からの命で、罪人の林冲という男を護送いたします」
董超の口をついたその名に、体の奥が微かに軋んだ。
「……実は、頼みたいのはそのことでな。俺の名は陸謙。高太尉の腹心の者だ」
「な、なんと、陸虞候でいらっしゃったとは!」
胡乱げな顔を一転させた二人が、慌てて立ち上がって拝礼しようとするのを留め、陸謙は続けた。
「ご存じのこととは思うが……林冲は、今やすっかり高太尉に仇なす重罪人。太尉殿は死罪を望んだが、開封府の石頭どもは、それをはねつけた。そこで俺は、太尉殿直々の命で、こうしてあなたたちに銀子を渡し、ある命を引き受けて頂きたくて参ったのだ」
「こ、高太尉の……」
顔を見合わせる二人に、陸謙は、一言一句切り刻むような声で「太尉の命」を告げた。
「どこでもいい、遠くなくてもいいから、どこか護送の途中で、林冲を始末してほしい」
息をのむ音が二人分、聞こえる。
今さら、何を驚くというのだ。これまでも、抜け目ない瞳にずるがしこい笑顔を浮かべて賄賂を受け取り、散々悪事を働いてきたであろうに。
「そして近場の衙門で公文書をもらい、帰ってきてほしい。なに、簡単なことだ。もし開封府が何かぐだぐだと言いつのってきたら、そのときは太尉殿がご自身で処理をなさるゆえ、あなたたちは心配する必要もない」
「し、しかしですよ、陸虞候」
うろたえながらも、己の保身への想いが勝ったか、董超が言いつのる。
「我々はただの護送役人。開封府の公文書では、生きたまま滄州まで護送せよとあるのに、その命を違えれば、たとえ高太尉の依頼であろうと、この先どんな目にあわされるか……それに、林冲は手枷足枷をはめられたとはいえ、天下に名を轟かせる禁軍教頭。私たちにそんな男を殺すことができるでしょうか? 万一、しくじりでもしたら……」
「だ、だが、董くん」
陸謙が苛立たしげに黒い長靴で床を蹴ったのが目に入ったのだろう、なおも御託を並べ立てようとする董超の肩を、薛覇がなだめるように叩いた。
「我々は、高太尉が死ねとおっしゃれば、はい死にますと言わねばならぬ身分。それを、陸虞候殿を通して、こうやって金までくださったのだぞ。細かいことは言わずに二人でこの金を山分けし、高太尉たってのご依頼を受けようではないか。それにもしも成功すれば、太尉殿の覚えもよくなるというもの。この先に、鬱蒼とした松林があったろう。あそこでどうにか知恵をしぼって、殺す方法を考えよう」
「だが」
「陸虞候、どうぞご安心ください」
まだしぶしぶと言った様子の董超の胸元に五両の銀子を押しつけながら、薛覇が愛想笑いを浮かべる。
「はやければ宿を二つほど行ったあたりで、遅くとも五つ行くまでの間に、林冲を片付けてみせます」
わざとらしく腕まくりをする薛覇と、ようやく観念して銀子を懐にしまった董超に、陸謙は鷹揚に頷いて見せた。
「物わかりが良いのはいいことだ。これで太尉も一安心というもの」
掲げた盃に映り込んだ己の顔は、ひどく目が落ちくぼんでいた。
あの日から、ものの味がわからない。何かを食べるということが、ひどく億劫だった。
「そうだ、もう一つ。うまく片付けることができたら、その証拠に、あの男の額の金印をはがして持ち帰って欲しい。それを受け取ったら、また礼を十両ずつお渡ししよう」
「……必ず、持ち帰ってご覧に入れましょう」
再び盃を打ち合った哀れな護送役人たちの、浮き足だったような顔を眺めながら、陸謙は味のない酒をただひたすら臓腑の奥へと流し込んだ。




