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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(四)

 「林冲、何を言うのだ、林冲……! 一人残すのが気がかりだというなら、何故」

 「だからこそです、義父上。俺には、すべてを投げ打ってでも高衙内に、高俅に刃向かうだけの気概がなかった。そんな男を……いつ戻るとも知れぬ男を待たず、今後誰と再縁しようと妻の好きにして欲しいのです。高衙内が縁組みを強いてくる前に、妻を守ってくれる男のもとへ……強く立派な男のもとへ嫁ぎ、幸せになってほしいのです」

 「たわけたことを言うな、林冲!」

 語気こそ激しかったが、義父の声は震えていた。

 「お前以上の好漢を、どうして見つけられるというのだッ……! あれがお前と親しく話すようになって、私と妻がどれほど喜んだか、お前は知るまい。まだ若かったが、御父上譲りのお前の人柄を、私も、王昇殿も、王進も、皆買っていたのだ。これは将来、きっと国を背負う男になると……だから娘がお前のところへ嫁ぐと決まったとき、私は誇らしかった。林冲、お前は高俅に刃向かえなかったのではない、刃向かわぬことで家族を、仲間を守ったのだ。お前が弱い男であったなら、今頃お前の命はなかっただろう。高俅も、お前に一目置いているからこそ、死罪を押し通すことができなかったのだ。お前ほどの男をいったい天がどうしてお見捨てになると思うのだ。今はつらい身かもしれんが、必ず災厄は通り過ぎる。滄州でしばし堪え忍び、そしていずれまた東京に帰ってきたら、もとの通りに娘と添い遂げればよいではないか。私にも幸い蓄えはあるから、娘と錦児は引き受けよう。娘には不自由かもしれんが、お前が帰ってくるまでは外にも出さぬし、屋敷に警護もつけよう。だから離縁状を書くなどと言わず、安心して行くがよい。滄州に着いたなら、私たちからも便りとともに着物や食うものを送ろう。いらぬ気苦労はするでない」

 時が時でなかったならば、師でもある人物の手放しの賞賛に、喜びのあまり涙を流し、盃を何杯も空けたことだろう。

 だが、どれほど言葉を尽くされようと、もはや己の心は決まっている。

 「義父上、そこまで俺を買っていただき、喜びに言葉もありません。ですが、俺はもう、決めているのです。どうかお許しください。待つ甲斐のないものを待たせて、妻に惨めな思いをさせたくないのです」

 「林冲よ、お前は何故そうも頑ななのだ。そんなことは、絶対に許さぬ!」

 頭を抱える張教頭を見かねた近所の人々も、口々に「林教頭、どうかお考え直しください」と懇願するが、林冲はゆっくりと首を振る。

 「どうか最後の願いと思い、お聞きください。もし……もし聞き入れていただけないというのなら、たとえいつか、この地に無事に帰ることができたとしても、二度と妻と会いません」

 噛みしめた唇に、小さな痛みが走る。

 もはや何を言っても無駄と悟ったらしい義父は、かわいそうなほどに、がくりとうなだれた。

 「……わかった。お前がそれほどまでに言うなら、離縁状を書くことを許そう。だが忘れるな、私は娘を高衙内はもちろん、お前以外の男になど絶対にやらん。だから、必ず無事に帰ってくるのだぞ」

 握りしめた林冲の拳を、微かに震える肩を、何度もなだめるように叩いた義父は、店の給仕に頼み、さっそく代書屋の男を呼び寄せた。

 代書屋の男もまた、もともと張家と付き合いのある人物だったため、何を己が書かされるのか聞いたとたん痛ましげに目を細め、「本当によろしいのですね」と林冲に確かめた。

 「ああ、よいのだ。何も聞かず、書いてくれ」

 代書屋が取り出した筆の先を見るともなしに眺めながら、林冲は声を絞り出した。

 「私、東京八十万禁軍教頭林冲は、重罪を犯し滄州へ配流の身となったが、刑を終えてのち生きて東京へ帰ることのできる保証はない。妻、張真娘は、まだ歳も若い故、ここに請い願いてこの離縁状をしたためて、再縁の自由を認め、決してこのことで争わぬことを誓うものである……」

 堪えきれぬ嗚咽が、あちこちから聞こえてくる。

 これほどまでに皆が己の境遇を想い、自分たち夫婦の行く末を案じて涙してくれるのは、ひとえに妻の人柄故なのだと林冲は知っていた。誰よりも、わかっていた。

 「このことは、強いられて誓うものではなく、私自らの意志であり、後日の証とするため、文書にてここに記す……以上」

 震える手で代書屋が差し出した離縁状を確かめ、花押を認め、拇印を押す。

 離縁状の隅に、己の指の形を残す赤は、婚礼の日を思い出させた。

 赤い着物を纏い、緊張した足取りで、二人手を取って歩いた日を――

 「……あなた?」

 その声が聞こえたのは、義父の手に離縁状を押しつけた刹那であった。

 「何を、なさったの?」

 高俅たちに捕らえられてからまだそう日は経っていないはずなのに、あんなにはつらつとしていた妻の顔は、痛々しいほどに青白く、僅かに頬が痩けている。

 大きく開かれた瞳には、いっぱいに、離縁状が映っているはずだ。

 己のために持ってきたのであろう着物の包みを抱えた錦児は、小さな悲鳴をあげると、妻の腕にしがみついた。

 「真娘よ……伝えるべきことは、義父上にすべて申し上げた」  

 立ち尽くす妻に歩み寄り、鎖の絡みつく腕を伸ばして妻の手を握る。

 「無実の罪でこのようなことになったのも、天命であろう。俺はこれから滄州へ行くが、生きて東京に帰ってこられる保証はない。だから……お前が無為に時を過ごし、お前の人生を無駄にすることがないよう、この書状を残しておいた。どうかお前には、俺の帰りを待たずとも、幸せになれる相手が見つかれば嫁いで欲しいのだ。お前はまだ若いのだから、俺のために人生を棒に振るな。それだけが、今の俺の願いなのだ」

 ――出会って以来、妻が、まるで寄る辺ない子どものように、こんなにも大声をあげて涙を流すのを、林冲は初めて見ていた。

 「なぜ、ねえ、なぜですか、私はあの男に穢されもしていないのに、ねえ、どうしてなの、どうして……!」

 顔を見る影もないほどにくしゃりと歪め、蒼白な頬を涙で濡らし、林冲の首にはめられた枷を掴んで何度も揺する妻の姿に、堪えていたものが迫り上がり、林冲の頬もまた一筋、涙に濡れる。

 どんなにつらい目にあっても決して弱音を吐いたことのない勝ち気な妻が今、身も世もないほどに泣き叫んでいる、そのことに胸が切り裂かれそうになる。

 「妻よ、どうか聞いてくれ。これはお前のためを想って俺が決めたことなのだ。いつでも俺は、お前の幸せを祈っている。だから」

 「あなた以外の人と一緒になることが、どうして私の幸せなのですか? ねえ、お願いよ、私を一人にしないで……あなた……」

 「真娘、落ち着きなさい。誰がお前をほかの男に嫁がせるものか」

 娘を林冲から引きはがして抱きしめながら、義父が言い聞かせる。

 「父はお前をどこへも嫁にやらぬ。こうすれば安心して旅立てると林冲が言うのだ、今はあれの言うことを聞いてやりなさい。それに、万に一つ、林冲が帰ってこられなくなったとしても、心配はいらん。お前のことは最後まで私が守る。お前の操は、必ず通させてやるぞ」

 とめどなく涙を流しながら、真娘は離縁状を見つめた。

 「……私は、決してあなたの妻になったことを、後悔しないわ」

 頬を伝った涙が、林冲の押した拇印の赤に混じり、小さな染みを作る。

 「あなたのためにこの人生を捧げることが、私の幸せなの……だから、待っています、ずっと」

 嗚咽を漏らし、ふらつく妻の体を、集まった女たちが支える。

 「旦那様、奥様が、二晩寝ないで繕った着物です。どうか道中……ご無事で……」

 目を真っ赤にした錦児から包みを受け取り、林冲は居住まいをただす。

 どこか気まずそうな顔をした董超と薛覇が、急かすように両隣にやってきて、その包みを代わりに背負った。

 「……行かねば」

 「林冲よ、どうか滅多なことは考えず、無事に東京へ帰ってくるのだぞ。娘はさっそく家に引き取り、お前の帰りを待たせよう。何も心配はするな。必ず便りをよこすのだぞ」

 「義父上、それにお集りの皆様……どうか、妻のことを頼みます」

 最後に、座り込む妻の、泣きはらした瞳を見つめる。

 手折られた花のようにぐったりとしたその姿が紛れもなく己のせいであるのだと思えば、叫びだしたくなる心を堪えるしかなかった。

 「真娘、どうか……体を大事にしてくれ」

 「……あなたも」

 それ以上言葉を交わしてもつらくなるだけだと、互いにわかっていた。

 背を向け、鎖を鳴らしながら歩き始める。

 刺青の傷よりも、棒打ちの痕よりも、何よりも、店が見えなくなるまでずっと己の背に注がれていた妻の眼差しが、痛かった。

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