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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(三)

 「おお、林冲よ、何という……」

 封印が施された七斤半の丸い首枷をぶら下げ、粗末な囚人の着物を纏い、憮然とした二人の護送役人に連れられて開封府の門を出た林冲を迎えたのは、悔しさと怒りと悲しみのないまぜになった顔をした義父だった。

 「義父上、ご面倒をおかけしました」

 おおらかで誰にでも親しみを持たれる張教頭の、今にもここにいない誰かを射殺しそうなほどに研ぎ澄まされた瞳の光は、禁軍でしごかれた時でさえ見たことのないものだった。

 「お前ほどの好漢に、高太尉から言われるがまま無実の罪を着せるとは、開封府もここまで堕ちたか」

 「義父上、滅多なことを……誰が聞いているかわかりませぬぞ」

 汚れた背をさすり、乱れた髪を整えてくれる、もう一人の父の手の温かさを感じながら、林冲は弱々しく笑んだ。

 「それに孫孔目や滕府尹のおかげで、棒打ちなどあってないようなもの、まったく傷も痛みません。これで滄州までの長い道のりも、なんとか歩むことができそうです」

 「そうか……そうか、それは何よりだ。さあ、来なさい。旅立つ前に、精のつくものを食わなくては。ささ、董超(とうちょう)殿、薛覇(せっぱ)殿もご一緒に」

 林冲の護送役を任された二人の男は、一刻も早くこの任務を終えたいのであろう、わずかの刹那、煩わしげな顔を浮かべたが、それでも禁軍で名の知れた張教頭の言葉に従わぬわけにはいかぬと思ったらしく、しぶしぶ招きに応じた。 

 義父に連れられ、囚人姿で歩く己の姿を、東京の人々はどこか遠巻きに眺めている。

 高俅の影を恐れる彼らがきっと、声をかけたくてもかけられないのであろうことは、林冲にも容易に知れた。

 (もはや、ここに戻ってくることはないかもしれぬ)

 開封府の門前に広がる商人たちの賑わいも、数多の船が行き交う汴河(べんが)の活気も、幼い頃に世話になった薬屋も、かつて幼馴染みとこっそり覗き込んだ小さな妓楼も、妻の好きだった果物屋も――愛し、信じ、守ろうとしてきたものをすべて奪われたような果てしない虚しさが、心の内を少しずつ蝕んでいく。

 「……林冲、そんな顔をするな。命だけは助かったのだから」

 州橋のたもとにある義父の馴染みの店は、妻と婚約した夜に、義父や義母と揃って夕飯を食べた店でもあった。

 気が付けば、義父が呼んだのであろう、林家や張家の近所の人々や世話になった人たちまでも、店に集まっている。

 虚ろな顔をした己を椅子に座らせる義父の頭にも、これまでの日々の思い出がよぎったか、先程より鋭さの和らいだ瞳に、かすかに光るものが見えた。

 「さ、董殿、薛殿、こちらへ」

 まわりの人々に勧められるまま、まったく味気のない酒を喉に流し込んでいる間、義父は二人の護送役人をこれでもかともてなしていた。

 ちらりと見れば、董超の手にも、薛覇の手にも、いくらかの銀子が握られている。

 「……義父上」

 「なんだ林冲、ほら、肉を食いなさい。滄州までの道のりは長いぞ」

 湯気をあげる牛肉を見ても、食欲さえわき上がってこない。

 林冲は、世話になり続けた義父の手を取った。

 「俺はきっと、星の宿命が悪く、運に見放されたのでしょう。あのとき、高衙内に出くわさなければ……妻と出かけたりしなければ……」

 あの日出かけようとしたのは、己に気晴らしをさせようとした妻の計らいだった。こんな日が来るとわかっていれば、たとえ妻と口げんかになろうとも、あの日家を出たりはしなかった。だが、今となって嘆いたところで何が変わるだろう。

 それでも、必ず妻を守るのだと言う胸の誓いだけは、己の矜持にかけて、なんとしても果たさねばならなかった。

 「義父上、まだ至らない若い身であったころから俺に目をかけていただき、たった一人の大切な御息女を嫁にいただいてから、もう三年も経ったのですね。この三年……子どもこそまだおりませんが、一度も大げんかをしたこともなく、妻のおかげで俺は毎日、幸せでした」

 務めがうまくいかなかった日も、悲しいことがあった日も、疲れ果てて夜中に帰ったときも、いつも妻は笑顔で己を迎え、励まし、時に叱咤してくれた。己の喜びを我がことのように喜び、己の怒りを我がことのように怒り、勝ち気ではあったが常に夫を立てる、得がたい人であった。

 「このような形で家族と離ればなれになろうとは、これも天命というものなのでしょうか。命こそ助かりましたが、無事に滄州に着けるかも、そしてこの東京に帰ってくることができるのかも、今となってはわからぬ身。妻をここへ一人、残していくことが気がかりです」

 『なんて女だ! 俺たち男のことを馬鹿にしているんじゃないか?』

 『張教頭の娘御だぞ。御父上が軍人ゆえ、はっきりとした気性の持ち主なんだろう』

 『俺はいくら顔が可愛くても、怖い女は嫌だなあ』

 『はは、安心しろ、俺たちのことなんか相手にしないさ』

 初めて出会った日のことを、鮮明に覚えている。

 花壇と気付かずに歩いていた己と幼馴染みの足下で折れ曲がった花を見て、烈火の如く激昂した美しい娘は、相手が父の部下であろうが軍人であろうが文官であろうが容赦はなかった。

 だが、小娘に尻を叩かれ散々文句を言いながら若者二人が植えなおした花々を見たときの、その嬉しそうな笑顔はとても優しく、愛らしかった。

 あの日腰を押さえながら情けない声をあげていた友も、満足そうに頷いて花の香りを楽しんでいた妻も、あまりにも突然に、そして理不尽に、奪われてしまった。

 もはや無力な己にできることは、ただ一つしかない。

 「邪魔者がいなくなったのをいいことに、高衙内は必ず妻に縁組みを強いてくるでしょう。妻はまだ若く、賢く、貞淑で美しい。俺と高衙内のために、妻の人生を台無しにしてほしくはありません。幸い、義父上のお計らいで、今日はお世話になった皆さんもここにおられる。なので、皆さんに証人になっていただきたいのです……決してこれは誰かに言えと言われたことではなく、私という男の考えだということを」

 「林冲、お前、何を」

 牢に入れられ裁きを待っている間も、流罪を言い渡されたときも、林冲の頭に浮かんだのは、ただこの一言だけであった。

 「離縁状を、書かせてください」

 義父が目を見開き、集まった人々が息をのむ。

 それでもこれは、林冲の心の中で、決して譲れぬ決断であった。

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