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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(二)

 それから数日、愛する酒さえ満足に喉を通らぬ日々を悶々と送っていた滕府尹のもとに、息巻いた一人の孔目がやってきた。

 「府尹殿、先日の林冲の一件、大事ゆえ府尹殿のお裁きに従おうと思い口を閉ざして参りましたが、もはや辛抱がなりません」

 この孫定(そんてい)という男は、孔目たちの中でもひときわ実直で忠義を重んじ、正義と善のためならばその身を挺することもいとわぬ熱い人間であったため、民からは「仏の孫孔目」などと呼ばれ、ひどく慕われていた。

 「君が黙っていられるはずはないと思っていたよ」

 この数日のあいだ、孫孔目が太尉府の人間や林冲と親しかった者たちの話を聞いてまわっていたのを知っていた府尹は、こめかみをさすりながら彼の剛直な瞳を見上げた。

 「府尹殿、勝手ではありますが、色々と探りを入れて参りました。この件はまさしく、高俅が林冲を無実の罪に陥れ、林冲の細君を己の息子に与えんと画策したものです。我々は、なんとしても林冲を救ってやらねばなりません」

 「だがなあ、孫孔目……」

 湯気をあげる茶をすすり、府尹は、先日屋敷を訪れた男の――陸虞候の、冷たい目を思い出した。

 「林冲の罪状は、高太尉からのお達しで、すでに決められておるのだ。刀を携え許可なく節堂に立ち入り、高太尉を殺害しようとした、とな。私たちで助けてやるのは、難しかろう」

 「……滕府尹殿」

 「うわっ」

 己の手からもぎとった茶杯を思い切り卓に叩きつけた孫孔目が、髭を逆立て、腹の底から低い声を絞り出す。

 「この開封府は、いつから朝廷のものでなく、高太尉殿のものになったのです!」

 「そ、孫孔目、滅多なことを言うでない!」

 「いいえ、今日と言う今日は言わせていただきますぞ」

 冷や汗を流して目を泳がせる府尹の様子など毛ほども気にかけぬ様子で、孫孔目はまくし立てる。

 「高太尉殿、いや、高俅が、いやしくも皇帝陛下より賜った己の権威を笠に着て、やりたい放題の好き放題、威張り散らしては人の弱みにつけ込み陥れ、我が物顔で振る舞っているのはもはや五つに満たぬ子どもさえ知っていることではないですか。そして、少しでも自分の意にそぐわぬものがいれば、この開封府によこして、殺したければ死罪を、八つ裂きにしたければ八つ裂きの刑を与えろと命ずる……これではこの開封府は高俅のものと思われても当然です。府尹はあなた様なのに、ですよ。そのような恥辱を堪え忍び続けるのですか? それとも、あなた様も高俅の権威に惑わされて、甘い汁を吸うおつもりか!」

 「な、なにを言う! 私はそこまで落ちぶれてはおらん!」

 孫孔目とて、府尹の置かれた立場を知らぬはずはない。それでもできうる限り抗えと、彼はそう訴えているのだ。

 己とて、命も、それに地位だって惜しい。だが、惜しむべき地位も、この命さえも、高俅の意のままとあっては、いったい惜しんだところで残るものがあるだろうか。

 「……いや、すまぬ、孫孔目。君にそう言われても仕方がない。毎度高太尉がよこす付け届けは物乞いへのほどこしにしていたが、金は受け取らずとも心は売ったようなもの。今、この林冲の一件で太尉の意のままになれば、あやうく魂すべてを売り渡すところであった。だがな、相手はあの高太尉だ。どのようにここを切り抜ける?」

 声色の変わった己の様子にどこか安堵した顔を見せた孫孔目は、密談でもするかのように――実際密談であるのだが――声を潜め、囁いた。

 「林冲は、彼の語ったとおり、無実です。一つ口惜しいのは、彼の言っていた二人の遣いを証人に呼び出せないこと。いや、高俅のことだ、もはやその二人の命はこの世にはありますまい。ですが高俅とて、あそこまで事細かな林冲の証言があり、おまけに高衙内の一件も世に知られている以上、無理に死罪という大胆な裁きを押し通すこともできないでしょう。ここはどうにか林冲の命だけは助けるために、うっかり誤って節堂に入ったという供述を認めさせ、棒打ちは手加減のうえで二十回、その後刺青して流罪に処す、というのはいかがでしょう」

 「ふむ……君がそう言うのだ、万事そのようにしよう」

 高俅に抗い林冲の命を助ける決意をしたのは己にとっても小さな痛快事であったが、ひとつ気がかりは、このことを高俅のもとへ告げに行かねばならぬこと。あの狡猾な蛇のような目で睨まれて、果たしてこの裁きを押し通せるかどうか、自信はない。

 だが、あの男の言いなりのままに生を終えることこそ、惜しいのだ。

 「孫孔目、私はさっそく今宵、高太尉のもとへ出向くとしよう」

 「府尹殿、どうかご用心ください。高太尉は抜け目のない人物ですからな」

 その夜、滕府尹は一人、高俅のもとを尋ねた。

 あくまで態度はうやうやしく、高衙内の一件が広く知られていることや、このまま無理に死罪にすれば高俅自身だけでなく高衙内にまで民の不審が及ぶことなど慎重な口調で切々と訴えれば、存外にあっけなく高俅は林冲の死罪を諦め、流罪に同意した。

 いささか拍子抜けはしたが、やはり太尉自身、どこかであまりに無理なことであると考えていたのかもしれぬ。

 それでも万に一つのことがあってはならぬと、府尹は、金子のたんまり入った袋を差し出した。

 一片の情も読み取れぬ顔でそれを受け取った高俅が、ほっと胸を撫で下ろしながら帰路についた己の背後で陸虞候を呼び寄せたことを、府尹はついぞ知らなかった。


 あの忌まわしい計略に陥れられた日とは打って変わって、その日は、空が遥か遠くまで晴れ渡る、暖かな日であった。

 だが、これからお裁きが下ります、と静かな声で告げる遣いが牢に現れたとたん、林冲の体の内は、まるで氷を詰め込まれたように、一気に熱を失った。

 すると、己の紙のような顔色を見たのであろう遣いは、足音にさえかき消されそうな微かな声で、どうかご安心を、と囁いた。

「林教頭……林冲よ、そなたの罪状を言い渡す」

 そして今、書面を読み上げようとした滕府尹が、ほんの少し間を置いて、己の瞳をじっと見つめている。

 府尹の隣に黙したまま立っている孫孔目が、こちらに向かってかすかに頷いたのが見えたとき、林冲はようやく、彼らの義により己は死罪を免れたのだと悟った。

 「八十万禁軍教頭林冲は、帯刀のまま太尉府の白虎節堂に立ち入ったが、それは不慣れな場所ゆえ誤って足を踏み入れてしまったことによるもので、当人もその罪を認めている。だが禁軍教頭という身で不用意な過ちを犯した責任は重く、今後同じように法度を犯す者が現れぬよう、棒打ち二十の刑の後、刺青をして滄州(そうしゅう)への流罪に処すこととする」

 淀みなく言い渡された裁きは、「うっかり」犯した過ちにしては、重すぎるものだった。

 だが、高俅の気まぐれによって一瞬で吹き消されるところであったこの命だけは、助かったのだ。

 「林冲よ、何か申し立てることはあるか?」

 「……いいえ……府尹殿のご明察に、心より感謝申し上げます」

 深々と拝礼し、地に額をこすりつける己の腕を、歩み寄ってきた孫孔目が優しく引いて立ち上がらせる。

 その刹那、彼は確かに己の耳元で、申し訳ありません、と呟いた。

 音にならなかったその声を拾い上げた林冲の体に、じわりとした熱が舞い戻ってくる。

 「それではこれより、棒打ちの刑を執り行う。罪人を抑えよ!」

 いったい、己の死罪を取り下げ、この裁きの場に太尉府の者を入れないようにするために、どれだけ滕府尹や孫孔目が心を砕き袖の下を使ったのかと思い巡らせば、心醜い者に支配されたこの世にもまだ義を抱く人間がいるのだと、林冲は瞳を閉じてゆっくり息を吸った。

 だが、いかに彼らが力を尽くしてくれようと、己の人生はもはや、まったく別のものになってしまった。

 命以上のものを、永遠に失ってしまったのだ。

 (夢雪……お前のことだけが、悔やまれるのだ……)

 まるで戯れのように力の入っていない棒打ちが二十回続き、ひとつの恥ずべきこともない身に刺青の痛みを受けている間、林冲の瞼の裏ではずっと、妻が優しく微笑んでいた。

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