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水滸綺伝  作者: 一條茈
第八回 林教頭、刺青の後滄州に流され 魯智深、おおいに野猪林を騒がす
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(一)

 滕府尹(とうふいん)は、その日、早めに帰宅するつもりでいた。

 ここしばらく昼夜を問わず携わっていた大きな案件を、昨日ようやく、ひとつ終わらせたばかりであった。

 なので、簡単な書き仕事は部下に任せ、少し体を休ませようと思っていたのだ。

 だが、まるで己を休ませるものかとでも言うかの如く、まだ夜も明けぬうちに、その使者は屋敷の扉を叩いた。

 ――高太尉の遣いだと言ったその男を、どうして無礼と追い返すことができただろう。

 「滕府尹、滕府尹、罪人でございます、どうかお裁きを!」

 どこか嬉々とした叫び声が徐々に近づいてくるのを聞きながら、府尹は深々とため息をついた。

 あの高俅の指示でなくば、こんな悪事の片棒を、誰が担ごうとするだろうか。

 だが、命は惜しいのだ。

 「……ここへ通せ」

 机かけから下がる紫の(ひも)を神経質に(いら)いながら、唸るように部下に命じた府尹は、己の目の前に引っ立てられた男のあまりに変わり果てた姿に、しばし声を失った。

 彼と直接言葉を交わす機会はそうそうなかったが、誰もが好漢と称えるその人柄を、己とて知らぬわけがなかった。

 (出すぎた杭は、こうも簡単に打たれるものか)

 咳払いを一つ漏らし、府尹は、八十万禁軍教頭の痛々しい姿を、つとめて無感動な目で見つめた。

 「これは誰かと思えば、林教頭ではないか。いったい、何の咎でここへやられた」

 「申し上げます。林冲は、先日から太尉府のまわりを刃物を持ってうろついておりましたが、今日になって、あろうことか白虎節堂の中に刀を携え勝手に入り込んだ次第。高太尉に刃を向けんとするこの所業が、謀反でなくて何でありましょう。おまけに自分は太尉殿の使者に案内されたのだと嘘を並べ立てる始末。軍人の風上にも置けぬ大罪です。どうか厳しく拷問にかけ、もっとも重い罰をお与えください」

 品の欠片もない声で、作り上げられた林冲の罪状をすらすらと訴えた男は確か、高俅の権威を笠に着て、好き放題女たちを痛めつけていると誰もが知る下郎であった。

 「林冲、そなたは禁軍教頭、法度は誰よりわきまえているはずであろう。なぜ刀を携え節堂に立ち入るなど大それたことをした。ことによっては死罪となる行いと知っての狼藉か」

 いかにめかし込んで役人の着物を着込んでいようと、その哀れなまでの卑しさが顔から滲み出る使いの男に対し、ゆっくりとあげられた林冲の、雨に濡れたざんばら髪が貼り付き血と泥にまみれたその顔は、侵しがたいほどにどこまでも高潔であった。

 「滕府尹殿……ここは謹厳にして公正なる裁きの場。どうか私の弁を最後までお聞きください」

 怒りを含んでなおしっかりとしたその口跡には、周りの者を押し黙らせるだけの力があった。

 「私は今日、身に覚えのない罪を着せられました。確かに私は武の道しか知らぬがさつ者ですが、法度くらいはわきまえております。どうしてわけもなく節堂に立ち入ることがあるでしょう。

 ことの始まりは先月の二十八日、妻とともに東嶽廟を参った折、高太尉のご子息が妻をからかったので、私が彼を怒鳴りつけたのです。ですがご子息は諦めきれず、今度は私と親しくしていた陸虞候を巻き込み私を騙して樊楼で酒を飲ませ、その間に冨安を使い、私が陸謙の家で倒れたと妻に嘘を吹き込みおびきだしました。そうして妻を陸謙の家に誘い込み、戯れようとなさったところを私がすんでのところで追い払い……確かにそのとき、私は怒りにまかせて陸謙の家を叩き壊し、やつが逃げ込んだ太尉府まで短剣を持って追いかけました。ですが、それは陸謙を問い詰めようとしてのこと。また未遂に終わったとはいえ、ご子息のこの暴挙……二度にわたるこの件には、証人も多くございます。

 その後しばらくして、私がたまたま通りすがりの物売りから名刀を買ったところ、それを聞き及んだ高太尉が私の家に二人の若い遣いをよこし、刀比べをしたいからその名刀を持ってくるようにとおっしゃったのです。私は二人に連れられるがまま太尉府の奥まで通されましたが、二人はさらに奥の部屋に入ったままいっこうに姿を見せず、どうなったものかと覗き込んだ先は節堂、そこに高太尉が突然お姿を見せられ、そうして私は計略に陥れられたと悟ったのです。

 滕府尹殿、私はこんな話をうまく作りあげられるほどの才知は持ち合わせておりません。すべて真実なのです。なにとぞご明察をくださいますよう……」

 深々と頭を下げる林冲の姿に、府尹の腹がぎりぎりと痛んだ。

 高衙内が林冲の妻につきまとっていたことも、陸虞候の家で起こったいざこざのことも、この東京で知らない者はいなかった。

 そして府尹は、林冲の言葉がすべて真実であることも知っていた。

 誰あろう高太尉自身が使者を遣わして、そのように林冲を陥れるのだと、だから彼を死罪にせよと、己に告げたのだから。

 「……林冲、そなたの弁、しかと聞いたぞ。だが、衙内様の件はともかく、節堂の件は証人となるその二人の遣いもおらぬようだし、詳しく詮議が必要だ。無実の罪とは言い切れぬ……」

 「府尹殿!」

 「そうはやるな、林冲。なにも今すぐ刑を言い渡すわけではない、詮議をすると申したのだ。だが、こうして訴えられた以上、そなたには枷をはめ、牢に入れる。私は高太尉への返書を書かねばならぬ故、この場はひとまずこれにて……誰か、林冲に枷をはめ、牢へ連れて行け」

 がっくりとうなだれた長躯を抱えるようにして、数名の若い部下が林冲を牢へと引き連れていく。彼らがこちらに向けた物言いたげな瞳は、ますます府尹の臓腑をぎりぎりと締め上げた。

 だがそれでも、今すぐここで死罪を言い渡すような、義理も人情もないことだけはせずに済んだ。詮議をすると申し渡すのは何も不審なことではない、ごく当たり前のことだ。

 こうして時を稼いでおけば、義父の張教頭が彼のために差し入れも賄賂も惜しみなく使うであろうし、あれほどの好漢をわざわざ痛めつける牢番も、少なくとも己の配下にはいるはずがない。

 「まったく、何故私までも巻き込まれねばならぬのだ……」

 白の混じった髭を撫でつけながら、滕府尹は何度も何度も嘆息した。

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