(五)
「何が起こっても、我々は知りませんぞ」
「無礼な口を叩いていないで、さっさと開けんか」
何重にも貼られた札をはがす乾いた音と、鉄槌が鎖を断ち切る耳障りな音が、無情な静けさの中に響き渡る。
「まったく、手間取らせてくれる」
幾代にも渡る封を解かれた鎖が重々しくも派手な音を立てて滑り落ち、血のように赤い格子戸が、生ぬるい風を受けて小さく軋む。
その隙間から現れたのは、耳に痛いほどの静寂を纏う闇――盲いたかと疑うほどに深いその闇を覗き見た人々の間を、得も言われぬ不穏な気配が漂いはじめた。
「なんだ、何も見えんではないか……」
先ほどまでの威勢も薄れた洪信の声が、空虚な闇に吸い込まれて消える。ためらいがちに闇を突いて伸ばした彼の腕もまた、冥府の帷の中に溶けこんでしまったかのように、視界から消える。
「誰か、灯りを持て」
はじかれたように駆けだした寺男たちが運んできた十数本の松明を掲げさせ、先陣を切って祠の中に踏み入った洪信の目の前に浮かんだ光景は、想像していたよりも殺伐としていた。
がらんと広い堂内には、祭壇のようなものも何一つとしてなく、ただ、五、六尺ほどの高さの石碑が無言で中央に鎮座している。碑を支える石亀の台座に至っては、泥ついた地面にその身のほとんどを沈み込ませていた。
「おい、何をしている。はやくここに来て、この石碑を照らせ」
自然と潜められた洪信の声すら、このがらんどうの中では異界からの囁きの如く不気味に響く。真っ青な顔をした道士たちが震えながら近寄り掲げた松明が、怪しげな陰影を刻みながら石碑を照らし出した、その刹那――
「ははっ! お前たち、これを見ろ」
洪信の声に力強さが舞い戻り、勝ち誇ったような笑い声が、取り巻く闇を劈いた。
「遇、洪、而、開……『洪に遇って開く』、と書いているぞ。これぞまさしく天命ではないか」
石碑にくっきりと刻まれた四つの楷書をいとおしむように指先でなぞりながら、洪信は道士たちを睨みつけた。
「お前たちは散々文句を垂れて私の邪魔をしようとしたが、ならばどうして、何百年も前から私の姓がここに刻まれている? 洪に遇って開くとは、まさしく私にこの碑を掘り起こして開けてみよ、ということではないか! お前らの言う魔王とやらは、この下にいて、私が来るのを待っていたに違いない。さあ、さっさと人を呼び集め、ここを掘り起こせ」
「洪太尉殿、どうかこれ以上は御許しを。この祠の扉を開けただけでも一大事と言うのに、その上石碑をこじ開け魔王の封印を解こうとは、必ずやこの大宋国に災いが降りかかりますぞ!」
「馬鹿者、何を恐れることがある。私の姓を刻み、私に開けよと伝えている石碑だぞ? これを開けぬは天意に背くも同じこと。さあ、かまわず掘れ」
「ああ、では、どうか何が起こっても我らの責になどなさらぬよう……」
あまりの恐れ多さに涙すら浮かべながら集まってきた道士や作事方たちが、まずは力を合わせて石碑を押し倒す。数百年分の土埃の下から台座の石亀が姿を現し、さらにその下まで土が掘り下げられてゆくのを、洪信は今か今かとそわそわしながら見つめる。数十本に増やされた松明の明かりを持ってしてもなお薄暗闇が支配する堂内に、道士たちの嘆きと吐息、地を掘り起こす単調な音が響き続ける。
「こ、これは」
だが、永遠に続くかと思われた単調な音は、突如、金属を突いたような甲高い音に収束した。
「洪太尉殿、この石板は……」
「なんだ、何があった」
三、四尺も掘り下げた地下深くを覗きこめば、そこには巨大な青い石の板が一枚、しんと横たわっている。
「おお、魔王はおそらくこの下だ。かまわん、この石板も掘り起こせ」
「ああ、お許しください、天師様」
「力を合わせて持ち上げるぞ、そっちを持って」
「松明で照らしてくれ、こっちだ」
「どけ、何が埋まって……」
男たちの呻き声とともに持ち上げられた石板の下は、虚無であった。
吐息すら殺して、誰もが、その永久とも思える闇に包まれた底知れぬ穴を見つめる。
そうして――眠り続けた魔の星々はついに、洪に遇いて目を開いた。
何事か言葉を紡ごうとした洪信の足元が、微かに揺れ始める。
幾世も封じられた闇が、鳴動を始める。
眩暈ともまごうほどの小さな揺れは、やがて立ちすくむ洪信や道士たちの足をさらい、どんどん激しさを増してゆく。
壁を塗り固めていた土が崩れ始め、臓物を突き上げるような低い轟きが足先から這い上がる。
「なっ……」
絶句する洪信の目の前で、果てなき虚無のようにぽっかりとあいた穴から花火のごとき勢いで黒煙が噴き出す。
音だけで体を吹き飛ばす雷鳴にも似た唸りをあげ、黒煙は伏魔殿の屋根の一角を吹き飛ばし、朝の快晴が嘘だったかのように厚く雲の垂れこめた空を劈き、そして、
「おお、おお……なんと……」
大宋国の空に咲いた災禍の花は、百八の星屑となり、そして、散った。
<第一回 了>




