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水滸綺伝  作者: 一條茈
第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る
58/64

(十二)

 三日間に渡る賓客の警護の任を終え、丸一日の休日を拝した林冲は、さっそく智深を誘い、連れだって街へと出かけた。

 このところますます陽気は強さを増し、汗ばむ日も増えてきた。こんな日は、あっさりとした魚料理にかぎる。

 「兄貴、魚のうまい店を知っているんだ。今日はそちらに行ってみよう」

 「それは名案だ」

 毎日のように――いや、実際、毎日智深と酒を酌み交わしているが、どれだけ過ごす時を重ねようと、互いに飽きることがない。そう感じているのは己だけではないようで、智深も常々「お前とはもうずっと昔からの知り合いのようだ」と笑うのであった。

 そしてこの日も、いつものように他愛ない話などしながら二人で閲武坊(えつぶぼう)の路地を歩いていると、路地の出口に唐突に、ゆらりと人影が現れた。頭には薄汚れた頭巾をかぶり、あちこちほつれて破れた戦袍を纏った大男である。

 この開封には、武官としての任を果たせぬまま物乞いになる人間も数多い。目の前に現れた男もまた、売り物の札をつけた刀を両腕に抱えていた。

 大男はそのまま四つ辻のど真ん中に立ち、刀を掲げて声をあげたが、その声は往来の人々の喧噪にかき消され、こちらまでは届かない。

 林冲も、特にそのことを気に留めぬまま智深と話しながら歩いていたが、しばらくすると、なにやら背後に気配を感じた。

 ちらりと振り返れば、先ほどの大男が、売れなかったのであろう刀を両腕に抱えてぶつぶつと呟いている。

 「ふん、皇帝陛下のお膝元というのに、目のある者はいないのか。これほどの宝刀をむざむざ道端の鉄屑にしてしまうとは……」

 常ならば、強引な客引きをする物乞いの戯言など聞き流すところであったが、なぜかそのとき林冲は、男が腕に抱える刀を見てしまった。刀と聞いてつい目がいってしまうのは、もはや武人の性であった。

 「これほどの業物を目に留める男は、おらんのか……!」

 男が、ずるりと剣を引き抜く。

 鋼の鞘走る清らかな音が、雑踏の中に矢を射られたかのごとく林冲の耳を打つ。

 五月の日差しに、抜き身の刃が涼やかに煌めく。

 (これは……)

 もはや、その刀から目を離すことはできなかった。

 縫い止められたかのように立ち尽くす林冲に気が付いた智深も、己の眼差しの先を追って目を丸くする。

 「こりゃあ、たいそうな刀だ」

 「ああ……おい、刀売り、その刀を見せてくれ」

 男が無言で差し出した刀を、林冲は智深とともにじっくり眺め、そして驚嘆した。

 みすぼらしい物売りの男の持ち物とは思えぬほど、それは、極上の刀であった。

 「清光目を奪い、冷気人を侵す……遠く看れば玉沼(ぎょくしょう)春冰(しゅんぴょう)の如く、近く見れば瓊台(けいだい)瑞雪(ずいせつ)に似たり……いにしえの名刀にも負けぬ、美しき刀だ」

 惚れ惚れと刀を指先で撫でながら、林冲はつい、「いくらだ」と男に尋ねてしまった。

 「本来ならば三千貫だが、あんたのように気に入ってくれるなら、まけて二千貫で売ろう」

 「確かに、二千貫の値打ちはある。だが、鞘は汚れ、刃も少々手入れが必要な様子。それだけ出す客はほかにいなかろう。一千貫と言ってくれるなら、俺が買う」

 林冲とて、本来ならば二千でも三千でも出すから売ってくれと頼みたいところではあったが、ついうっかり言い出してしまった商売話をよくよく考えてみれば、脳裏に妻のむくれた顔がちらついたのだ。

 「こちらも金が入り用でなければ手放したくない先祖伝来の宝刀だ。あんたが本気で買ってくれるというなら、五百まではまけてやるが、どうだ」

 「……いや、千貫だ。千貫ならば、必ず買う」

 しばし、刀売りと林冲は睨み合ったが、先に折れたのは刀売りのほうであった。

 「わかった、わかったよ兄さん、あんたみたいな男にそんな目で見られちゃ根負けだ。黄金を鉄の値で売るようなものだが仕方ない、千貫で売ろう。これ以上は絶対にまけないからな」

 「ありがたい。実のところ、お前のその刀が欲しくて仕方なかったのだが、こちらの懐を握っている者が別に家で待っているのでな」

 「なるほどな、そりゃあ、どこの家でも同じというもの」

 こんな名刀に出会える機会は、短い人生、そう多くない。今日という日の幸運に心底舞い上がった林冲は、「家についてきてくれれば千貫払おう」と男を手招いた。

 「弟、随分と嬉しそうだな」

 「槍棒を生業にしてはいるが、刀に興味がないわけではない。恥ずかしながら、今の愛刀はこの刀には遠く及ばぬ代物なので、いつか買い換えたいと考えていたのだ」

 「そりゃあいい巡り合わせだったな」

 太鼓腹を揺らして笑った智深は、しかし、ふと空の端を見て、禿頭を一つ叩いた。

 「あいや、そういえば今夜は、雨が降るかもしれんと子分どもが言っていたのをすっかり忘れていたわ。畑の始末をしてこなきゃあならん。林冲、今日は俺は帰るとしよう。魚の店は、明日また。その刀も、明日もう一度見せてくれるだろうな」

 「わかった、明日、必ず」

 その実、林冲も、今日はこの刀のことしか考えられぬと思っていたところであったので、智深と別れるとさっそく刀売りと連れだって帰宅し、千貫を袱紗に包んで男に渡した。

 「ところで、この刀は先祖伝来と言ったか」

 「ああ、家が落ちぶれて立ち行かなくなったので、しかたなく持ち出して売り歩いていた」

 「こんな素晴らしい刀をお持ちのご先祖とあらば、さぞ名のある御方だろう。名を伺っても?」

 しかし、男は、眉をしかめて目をそらした。

 「名乗れば先祖の恥になる。勘弁してくれ」

 「そうか……ならば聞かぬ」

 男はそれきり何も言わずに、また人混みの中へと消えていった。

 そして林冲はといえば、再び鞘から刀を抜き放ち、手元に遊ばせてはため息をついた。

 「本当に素晴らしい刀だ……」

 持てば重さも誂えたように丁度良く、さっそく庭に出て振り回してみれば、手に馴染んで吸い付くようなその握り心地にうっとりする。

 「あら、あなた、義兄上とお出かけしたのでは? あなた……あなたってば」

 刀を振る音を聞きつけた妻に声をかけられたことさえ、しばし気が付かないほど、林冲はすっかりこの宝刀の虜になっていた。

 「あ、ああ、すまん……実は兄貴と歩いていたとき、ついこの名刀を売っているのを見て、つい、買ってしまった」

 妻の細い眉の片方が、ぴくりと跳ね上がる。

 「まあ、それで、この素晴らしい刀は、おいくらだったのかしら」

 気が付けば、あっという間に宝刀は妻の手に渡り、刃先がぴたりと己の左胸に当てられている。張教頭仕込みの素早い身のこなしを披露した妻の顔には、得意げな笑顔が浮かんでいた。

 「まあまあ、見てくれ、真娘。この刃の輝き、手に馴染む感触、お前もお父上の教えを受けたのならば、わかるだろう? これは、またとない名刀だ」

 妻の手を握り、ゆっくりと刀を下げさせながら、指先で刃をなぞってみせる。

 「高太尉のところにも、素晴らしい宝刀があるそうだ。だが滅多に人にはお見せにならず、俺も何度か頼んだことがあるのだが、どうしても見せてはくれなかった。いつかこの宝刀と高太尉の宝刀で、刀比べをしてみたいものだ」

 「……あなたったら、武器のことになると、高太尉だろうが誰であろうが、どうでもよくなるのね。まるで子どものよう」

 林冲の手に宝刀を返しながら、妻は肩をすくめた。

 「確かに、とても美しい刀だわ。ねえ、豹子頭と謳われるあなたの雄々しい姿にぴったりの刀だと思うわよ。だから……教えてくださらない、おいくらでそれを買ったのか?」

 「妻よ、今宵はお前の好きな甘味をいくらでも買いつけてやろう」

 話をはぐらかそうとする夫の髪を細い指で引っ張り、妻の唇が夫の頬に触れた。

 「次は、きちんと相談してくださいな」

 「……善処しよう」

 「錦児、お買い物を頼まれてくれる? 劉さんの甘味屋まで」

 再び己の手に戻ってきた宝刀を振りかざし、林冲は飽きるまで舞った。

 夕食を終え、妻が先に休み、使用人たちもついに呆れて各々の部屋に引っ込むまで、星のような軌跡を描く刀を、ただひたすらに振り続けた。

 刀でも、あるいは槍でも、それを握り、無心に鍛錬にあけくれる時間は、林冲にとってかけがえのないひとときであった。

 心を鎮めて刀を振るたびに、林冲は亡き父に、敬愛する師に、信頼する部下に、そして気の置けぬ義兄に出会っていた。

 彼らと無言の言葉を交わしながら舞ううち、雲の向こうから姿を現すのは、己自身であった。

 『強くなれ、林冲』

 己自身が、己に語って聞かせる言葉は、常に同じであった。

 『強くなれ……』

 ――ふと気が付けば、空の端が白み、あたりは霧をふいたような雨に濡れていた。

 (この刀のように、ありたいものだ)

 清く鋭い輝きを放つ刀を壁に掛け、すっかり冷えた寝台に潜り込んだ林冲は、ゆっくりと瞼を閉じ、

 (……やはり、素晴らしい刀だ)

 結局、夜明けを告げる鶏が鳴きはじめるまでずっと、林冲は寝台から宝刀を見つめていた。


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