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水滸綺伝  作者: 一條茈
第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る
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(十一)

  陸謙が富安とそろって高衙内を訪ねたのは、あの一件からかなり日が経った後のことであった。

 部屋に入れば、げっそりと顔色の悪い高衙内が、それでも尊大な態度は崩さず寝台にどかりと横たわっている。

 「衙内さま、どうされました。顔色が悪うございますよ」

 情のこもっていない声は、自分でも驚くほど冷たかった。だが、長年培った舌先三寸の才は、ご機嫌取りの色だけを冷たい声に乗せ、まるで自然な声色に塗り替えていた。

 「……どうしたもこうしたもない!」

 いらいらと、けれど覇気のない声で答えた高衙内は、絢爛な金糸銀糸の刺繍がほつれるのもかまわず、ごろりごろりと寝台の上を転がり回る。

 「林張氏……あの女、おとなしく僕のものになっていればいいものを、まるで罪人扱いでわめき立て、二度までも僕に恥をかかせやがって! おまけにあのでかぶつの林冲めに心の臓が止まるほどびっくりさせられ、僕の病は重くなる一方……もう、三月も持たないかもしれない……。ああ、死ぬ前に、あの女と夫婦になりたい! 今まで星の数ほど女に出会ってきたが、あの女にだけは、どうにも心奪われてしまうんだ……」

 顔色こそ悪いがどう見積もってもあと三十年は生きながらえそうなほど偉そうな口ぶりに、わき上がりそうになる冷笑を押し隠し、陸謙は横たわる高衙内の枕元に膝をついた。

 「衙内さま、そう落ち込まないでください。そこまであの女が欲しいというなら、私と富安が力を合わせ、必ずや林張氏を衙内さまの奥方にお迎えいたします」

 そうなる前にあの女ならば自死を選ぶだろうがな、と言う呟きは、胸の内に留めた。

 もはや林冲にも、張真娘にも、逃げ道などない。

 張真娘が死ねば、高衙内は気落ちするだろうが、そのうちすぐに忘れてまた別の女の尻を追いかけ回すだろう。その頃には、己と富安の首も胴と離ればなれになっているだろうから、また面倒な策略を持ちかけられることもない。

 だから、あんな女と結婚など、やめておけと言ったのだ――事実、林冲にそんな言葉をかけたことは一度もないのだが。

 「もし、坊ちゃんがご病気と聞いて、お見舞いに参りました」

 そうして、なおぐずぐずと恨み辛みを並べ立てる高衙内を富安と二人で慰めているところへ、高家でも最も信頼の篤い老執事が顔を出した。

 「なんと坊ちゃん、こんなにやつれられて……」

 「もはや飯も満足に食えないんだ。体は熱くなったり寒くなったり、あちこち痛んだり痒かったり、それが原因で眠ることもできず、起き上がるのさえおっくうで……。なあ、じいや。もう僕の命は長くない。ああ、いったいどうしたら……」

 「おい、陸虞候」

 大げさな身振り手振りで己の窮状を訴える高衙内を眺めていた陸謙の脇腹を、富安が小突く。

 「坊ちゃんは死ぬわけはないだろうが、でもいつまでもこんな調子じゃ、今度は俺たちが高太尉にお咎めを食らうぞ。いや、お咎めだけならよいが、坊ちゃんが癇癪を起こしてあることないこと高太尉にお告げになったら……この命さえなくなるかもしれん」

 ぶるり、と身を震わせた富安は、陸謙の耳元に口を寄せた。

 「俺はまだ、死にたくない。もはや高太尉にご相談し、邪魔な林冲を、葬り去るしかあるまい」

 「……そうだな、俺も、まだ死にたくない」

 まるで夕飯のために豚を屠ると聞かされたかのように特に感慨もなく、陸謙は答えた。

 「執事殿」

 富安が、見舞いを済ませて戻ろうとする老執事の腕をとり、物陰に連れ込む。

 「少し、ご相談が……」

 「どうされました」

 「実は、坊ちゃんのご病気を治してさしあげようと、陸虞候とともに色々と腐心したのですがうまくいかず……こうなったからには、やはり林張氏の夫、林冲を葬るしかないと言う考えに行き着いたのです。そうしなければ、もはや坊ちゃんの命は……」

 老執事は、なんとも物騒な話にも、眉一つ動かさなかった。さすが長年、高俅に仕えてきただけのことはある。

 「そういうことでしたら、私が高太尉にお話を通しておきますので、今晩、太尉のお部屋まで」

 その夜、陸謙と富安は、高太尉の私室の外で肩を並べ、老執事に呼ばれるのを待っていた。

 「太尉殿、坊ちゃんのご病気は、重くなる一方でございます」

 「つい先頃まで健康そのものだったのに、何があったというのだ」

 扉の向こうから聞こえる高俅の声は、常のとおり、機嫌の悪そうな低いしゃがれ声であった。

 「ほかでもない、恋煩いでございますよ。林冲の妻に、心底惚れてしまわれたのです」

 「……林冲の妻だと? というと、禁軍教頭の張元門の娘か」

 「ええ、まさにその女で」

 「いつからだ」

 「三月の二十八日のことでございます。東嶽廟でたまたまお会いになったそうで、もう一月ばかり、想いわずらっておられます」

 窓から漂ってくる香の煙を手で払いながら、陸謙は、老執事がこれまでのいきさつを語るのを聞いていた。

 「……そこで、もはや林冲を葬るしか策はないと」

 しばし、沈黙が降りた。

 「倅も、面倒な女に惚れたものよ。そんなことだから、いつまでたっても女遊びが下手くそなんだ」

 珍しく、高俅の声に、呆れたような色が滲んでいる。自分とて人妻に手を出したことなど数え切れないほどあるだろうに、そのことは棚にあげているようであった。

 「いくら林冲の妻が欲しいからといって、わけもなく林冲を殺すというのはどうだろうな。あれは俺の配下の中でも一番、能がある男だ。頭は固いが、めっぽう腕が立ち、忠心も篤く、人望もある。今、この優れた駒を失うには惜しい気もするが……」

 なにか不快なものが喉元まであがってくるのを感じ、陸謙は襟元をきつく握りしめた。

 見ろ、林冲。お前がいくら高俅を嫌い、憎み、罵ろうと、高俅はこうして、お前を欲しがっているのだ。

 己がすべての情を殺し、言葉を尽くして何年も傍に仕えようと決して得られぬものを、何故お前ばかり、こうも簡単に持って行く?

 「だが、林冲をどうにかしなければ、今度は倅の命が危ないというわけか。いったいどうしたら良い?」

 「なにやら、陸虞候と富安に、策があるとのこと。今宵、二人を呼びつけておりますので、お話を聞いてみてはいかがでしょう」

 「そうか……では呼べ」

 奥歯を噛み、ご機嫌をとるための笑顔を浮かべ、陸謙は富安とともに高俅の前へ進み出て平伏した。

 「倅を救う策があるそうだな。話せ。それで倅の命が助かれば、お前たちを重用してやる」

 高俅が自分たちのような側近を見るときの目は、犬を見るときの目と似ている。

 役に立てば番犬にするし、役に立たねば煮て食ってしまうぞと、蛇のようなその目が語っていた。

 (煮て食われようが、俺は、どうでもいい)

 富安に、死にたくないと言った。確かに、死にたくなかった。

 「申し上げます」

 林冲を己と同じ虚無の底に、引きずり下ろすまでは。

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