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水滸綺伝  作者: 一條茈
第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る
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(九)

 「……随分と、日が長くなった。夏が近いな」

 まだ明るい外の様子を見ながら、もう何杯目かもわからぬ盃を傾ければ、「風流だな」と陸謙が笑う。

 窓から吹き込む心地よい風に髪を遊ばせていれば、ここ数日張り詰めていた気が緩んでいく心地があった。

 「少し、用を足してくる」

 「おう」

 階段を降り、酔客の中の見知った顔から投げかけられる挨拶に会釈を返して樊楼を出る。

 東側の路地の裏手で用を足してふと空を見上げれば、西のほうの空は、どこか薄暗く不思議な紫色をしていた。

 「妙な空だな」

 ぼそりとつぶやき、樊楼に戻るため路地の入り口まで引き返したところで、あやうくものすごい勢いで走る小柄な女とぶつかりそうになり、あわてて「危ない」と身を引き、

 「だ、旦那様! どうしてこんなところにいらっしゃるのです? 先ほどからずっと探していたのですよ! どうして!」

 「錦児?」

 殴りかからんばかりの剣幕で縋りついてくる小間使いの、その青ざめた顔に既視感を覚え、心地よく暖まったはずの身体から一気に熱が引いていく。

 「何があった」

 「旦那様と陸虞候様が出かけられてから少しして、虞候様のお宅の使用人だと言う男が奥様を訪ねてやってきて、虞候様とお酒を飲んでいらっしゃるうちに旦那様が突然倒れられた、医者を呼んでいるが間に合うかどうか、だからはやく来てくれ、とおっしゃったんです。奥様はそれを聞いて血相を変えて、お留守はお隣の王婆さんに頼んで、私を連れて高太尉の御殿のお隣にある陸虞候様のお屋敷に向かったのです。でも二階に案内されても、そこにはお料理は用意されていたのに旦那様も陸虞候様もいなくて、それで奥様は上を、私は下の階を探そうとしたところに、この間のあの高衙内がやってきたのです! そして奥様に、旦那様はちゃんとおいでになっていますから、とかなんとかうまいことを言って、閉じ込めようと……! 私が慌てて旦那様を探しに駆けだしたとき、奥様が『人殺し!』と叫ぶ声がして、もう、私、どうしたらいいかわからなくて、夢中で走り回って……そうしたら、たまたま薬屋の張おじさんに会って、そしたら旦那様はお友達と樊楼に入っていったと教えてくれて……!」

 息を切らす錦児の言葉が、どこか遠くに聞こえる。

 頭の中が、百万の銅鑼を打ち鳴らされたように痛む。

 「糞……ッ!」

 血の気を失った身体の中で唯一煮えくりかえるはらわたの熱に突き動かされ、林冲は駆けた。

 高頭街(こうとうがい)の人並みを押しのけ、御街(ぎょがい)を駆け、朱雀門を抜け、まっすぐに高俅の屋敷を目指す。

 両親が亡くなった後、陸謙は林家の隣の家を引き払い、仕事に都合がいいからと高家の屋敷の近くに越したのだ。

 「真娘!」

 門も扉も立て続けに蹴破って家の中に転がり込み、階段を二段飛ばしで駆け上がる。だが、二階への入り口には鍵がかかっているようで、叩いてもびくともしない。

 「いい加減にして! まだ明るいうちに人妻をこんなところに閉じ込めるなんて、どうかしているわ!」

 「ねえ、奥さん、僕ァ奥さんに惚れてしまったんだ。ねえ、僕を助けると思って、少しくらい、許してくださいよォ。大の男がここまで頼んでいるんだよ?」

 扉の向こうから聞こえる声にカッと血を上らせ、林冲は鬼の形相で扉を叩き、叫んだ。

 「真娘! 俺だ! ここの鍵を開けられるか?」

 「あなた……!」

 すぐそばに妻の足音が近づき、必死に鍵をこじ開ける音が響く。

 「り、り、林冲! またお前なのか?」

 一方、高衙内の間抜けな声は遠ざかり、大慌てで瓦を踏み付ける足音がそれに続いた――屋根を伝って逃げたのだ。

 「どいていろ!」

 ようやく鍵の外れた扉を両手で殴りつけ、林冲が部屋に踏み込んだときには、すでに高衙内の姿は部屋になく、ただ青ざめた顔の妻が、悔しげに唇を噛んでいた。

 「夢雪(むせつ)……ッ」

 思わず、妻の(いみな)を呼んだ。

 ほかに誰もいない場所で、先日のように恥ずかしがってつっぱねることもなく、妻は静かに林冲の腕に抱かれた。

 「夢雪、俺は、間に合ったか」

 「ええ……大丈夫、何も、されていないわ」

 己の着物の背を握り込む妻の手は、震えていた。それが恐怖によるものではないのが、余計に林冲の心を抉った。

 妻も、悔しいのだ。己が高俅の権威を恐れて手を出せないのと同じように、妻もまた、夫の身を思って高衙内を糾弾できぬのが、悔しいのだ。

 「すまない……」

 抱き込んだ妻の頬が、己の胸元を擦る。いいえ、と首を振る妻が愛おしいほど、己の愚かさが憎らしくなり、吐き気がこみ上げる。

 高衙内に刃向かえないだけでなく、無二の友と信じた男にさえこうも簡単に裏切られるなど、愚かとしか言い様がない。

 「俺は、信じていたのだ……あいつだけは、何があっても、俺の友だと……それを、あいつは……!」

 つい先ほどまで、陸謙は己の幼なじみだったのだ。

 盃を交わしながら二人にしかわからぬ無言のうちの会話を楽しみ、鬱々とする己の心を救うような言葉をかけ、何の含みもなく笑い合っていたのだ。

 この世に生を受け三十年。生まれたときから常に隣にいた男が、なぜ一夜にして裏切り者になることがあるだろう――一夜の気の迷いではなかったのを、己はこれまで、気が付いてやれなかったのだ。

 「いつからだ、謙児……いつから、お前は……!」

 言葉にならぬ咆哮をあげ、林冲は卓を、椅子を、棚を、調度を、およそ陸謙の家に存在するすべてのものを完膚なきまでに投げつけ、ひっくり返し、蹴り飛ばし、叩き壊した。

 二階をすべて破壊してもなお収まらぬ衝動のまま階段を降り、一階の家具もすべて、壊して回る。

 陸謙の部屋に踏み入れば、常から几帳面に掃除をしていた姿からは考えられぬほど、書簡や文具が散乱していた。

 それらを蹴散らして執務机を投げ飛ばし、背後の棚の引き出しをひとつひとつ引っこ抜き、

 (……いつから、お前は……!)

 その中のひとつに納められていたのは、王昇のもとでともに修行にあけくれていた頃、王進が二人の努力を讃えて与えてくれた、揃いの玉牌(ぎょくはい)の一つだった。

 「畜生!」

 懐にしまい込んだ首紐を、引きちぎる。

 二つの玉牌が、あっけなく足下に砕け散った。

 妻は、止めなかった。ただ、一筋涙を流して、己の蛮行を見つめていた。

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