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水滸綺伝  作者: 一條茈
第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る
54/64

(八)

 妻と高衙内の一件があってから、林冲は、仕事以外ではほとんど家の外に出ない日々が続いていた。

 あの件の翌日、義兄の智深が訪ねてきてくれた。

 再三、何かあれば俺に言え、と肩を叩いてくれる智深は頼もしかったが、己個人の問題に彼を巻き込む気にはなれなかった。

 高衙内を殴り飛ばさなかった己の拳を見つめては細くため息をつく夫の姿を見ても、妻は何も言わなかった。それが彼女の優しさであることはわかっていたが、己の不甲斐なさを突きつけられているようで、喉元が苦しかった。

 そんな日々が数日続いていたある日、門前からよく耳に馴染んだ声が聞こえてきた。

 「おぉい、林冲、林教頭はご在宅かい」

 「陸謙!」

 使用人たちや妻が声をかけるよりはやく、林冲は早足に部屋を出て、両開きの門を押し開けた。

 「なんだ、随分久しぶりじゃないか。今日はどうしたんだ?」

 「なんだよ、用事がなきゃ来ちゃいけないのか?」

 扉の前に立っていた幼なじみは、勢いよく開いた扉を驚いた顔でよけながらも、にやりと笑った。

 「まさか。このところ見かけなかったから、驚いただけだ」

 「それはこっちも同じさ。最近お前を見かけないもんだから、禁軍の連中にどうしたのか聞いたら、最近は調練が終わったらすぐに帰ってしまうとみんな口をそろえて言うんでね。今日ももう、家に帰っているのかと思ってこうして来たんだ。何かあったのか? いつもの頭痛がぶり返しでもしたか?」

 「いや、まあ、色々と腹の立つことがあってな。外に出る気分じゃないんだ」

 幼い頃から変わらぬ友の軽い調子に乗せられて、つい、気の緩んだ口調になってしまう。

 「お前は色々と気にしすぎる男だからな。そういうことなら、ちょっと一杯、俺の家にひっかけに来いよ。話ならいくらでも聞いてやるぞ」

 「そういうお前こそ、随分仕事が忙しかったんじゃないのか? 顔色悪いぞ。出かける前に、少し茶でも飲んでいけよ」

 己の屋敷は、陸謙にとっては勝手知ったる我が家も同じ。林冲に続いて歩み入り、なんの遠慮もなくどかりと卓に着いて、使用人の手も借りずさっさと自分で茶を入れる姿を見れば、なにやらささくれ立っていた気分が落ち着いてくる。

 「あら、謙兄さん、いらっしゃい。お久しぶりね」

 二人の話し声を聞いていたらしい妻までも、どこかほっとしたような明るい声で迎えたところを見れば、どうやらこの屋敷には、よほど鬱々とした気が漂っていたようだ。

 「よう、張氏。まさか、あんたが林冲をいじめてるんじゃないだろうな」

 「いやだわ、謙兄さん。誰がいじめるものですか」

 「恐れを知らない豹子頭が、唯一恐れているのがあんただからな。それより、しばらく来ないうちに、随分酒壺が増えたね」

 二人の話し声を聞きながら、手早く着物の支度をする。外で飲むのは久しぶりだ。

 「そうなの。実はあの人が、とある和尚さんと義兄弟の契りを結んでね。その義兄上がものすごくお酒を飲む人なので、こうして、いついらしてもいいように買いためておいたのよ。あの人ったら、私が眠る時間になってもずっと義兄上とお話に夢中で……どうやら、ものすごく強い和尚さまらしいわ」

 「へえ、そんな坊主がいるなんて話、聞いたことがなかったよ」

 「最近こちらにいらしたのですって。私、謙兄さん以外であの人があんなに楽しそうにお話しする方を初めて見たわ。ね、兄さんも一度、お話してみたらいかが? きっと仲良くなれるわ」

 「そりゃ楽しみだ……よし、支度は終わったか?」

 湯気をあげる茶をすすっていた陸謙は、林冲が着物を着替えて出てきたのを見ると、するりと立ち上がり、肩を組んだ。

 「豪傑がうじうじしてちゃあ、いけないな。張氏、ちょっとこいつを借りるよ。俺の家で飲んでいるから」

 「わかりました。でも、あまり遅くならないようにね」

 うっすらと橙色を帯びた西日が差し込む門のところまで出てきた妻に見送られ、二人は何気ない話をしながら歩いた。そうしてしばらくするうち、陸謙が、ふと尋ねてくる。

 「なあ、やっぱり俺の家より、外で飲んだ方が気分が晴れるよな。樊楼(はんろう)に繰り出さないか?」

 「……そうだな。あそこにも、しばらく行っていない」

 今日も大勢の客で賑わう樊楼に上がり込めば、給仕たちも林冲の顔を見知っているものだから、上の階の一番いい席に案内される。

 俺のおごりだ、と奮発する陸謙が頼んだ上酒と珍味もそろい、二人でしばらく会わなかった間の世間話などするうちに、つい癖のように細いため息が漏れる。それを聞きつけた陸謙が、細い眉の真ん中に深く皺を寄せた。

 「なあ、本当に大丈夫か? さっき言ってた、腹の立つことっていうのは、どんなことなんだ?」

 すでにほろ酔いもまわり、気の置けない友を前にして林冲は、この数日の鬱憤を一気に吐き出した。

 「男一匹、これほど武の腕を鍛え上げたのに、その腕を振るうべき主にも巡り会えず、どうしようもない馬鹿野郎を前に屈するとは……」

 「おいおい、禁軍には何人も教頭がいるが、お前の腕にかなう人なんか一人もいない。民だって、部下だって、お前のことを慕っているし、あの高俅でさえ、お前には一目置いて、何かと目をかけているじゃないか。それなのに、いったい誰がお前を侮辱しようっていうんだ?」

 己に向けられる陸謙の言葉には、いつだって、嘘がない。茶化しも、哀れみもせず、至極真面目な顔をして当然のように己を讃える陸謙に、いつも励まされていた。

 「実は先日、東嶽廟を参った時、俺が少し目を離した隙に、高衙内が妻にちょっかいをかけてきた。錦児に呼ばれて慌てて駆けつけ、殴りつけようとしたんだが……できなかった。高衙内だと、高俅の息子だと思えばこそ、殴ることができなかったんだ。まったく、情けない話だ。上官が怖くて、何が豪傑だ。何が好漢だ。高衙内のほうも、俺の心の内を見透かして、やれ臆病者だ、弱虫だと呼ばわってきやがった。だが、それにどうして反論できた? はっ、あいつの言うとおり、俺はまったくの腰抜けだったんだからな」

 ひたひたと満たされた盃を一気に呷り強く卓に叩きつければ、陸謙が、まあ落ち着け、と盃を握る手をさすり、再び酒を満たす。

 「衙内さまは、張氏がお前の嫁だとご存じないまま声をかけたんだろう。わかっていれば、あの人にこそ、そんな度胸はなかったはずだ。あの人がたとえお前を弱虫呼ばわりしたって、まわりの誰が真に受けるものか。さ、あんまり腹を立てると、身体に障るぞ。うまい酒を飲んで、そんなことはさっさと忘れちまえ」

 「……すまん、こんなくだらない愚痴に、付き合わせた」

 「今更だぜ、友よ」

 その弁舌や書き仕事の才を買われて高俅の近くに仕えている陸謙にも、思うところは様々あるだろう。己以上に、高一族を恐れて強く言えないこともあるに違いない。

 それでもこうして、己の苦々しい想いに寄り添い酒を酌み交わしてくれる得がたい友のおかげで、ほんの少し、心が軽くなる。

 「そうだな……今日はとことん、飲むぞ」

 「ハハ、その意気だ」

 己と同じく水のように盃を空けていく陸謙が、この種の酒の味を嫌っていたことなど、そのとき林冲はすっかり忘れていた。

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