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水滸綺伝  作者: 一條茈
第七回 花和尚、柳の大樹を引き抜き 豹子頭、謀られて白虎堂に入る
51/66

(五)

 豹子頭林冲にとって、武の道は生きる道だった。

 八十万禁軍の槍棒術教頭に任ぜられたとき舅に聞かされた話では、父の人徳と才を疎む者が、武挙に挑戦した父の、その結果を捏造したのだという。

 『強くなれ、冲児。誰もお前を傷つけることなどできぬくらいに。己の力を信じ、己の力で圧倒し、己の力で生き抜くのだ』

 生涯提轄という地位に甘んじ、それでもなお芯を折られることのなかった父の口癖だった。

 だが、力だけでは生きていけない現実を、林冲は知っていた。

 忌まわしき高太尉の私怨から地位と故郷を追われた師兄のことも、愛する家族との小さな幸せのためにひたすら耐える道を選んだ兄貴分のことも、はびこる理不尽に耐えかねて槍を肉切包丁に持ち替えた部下のことも、林冲はただ見つめることしかできなかった。

 そして己はと言えば、命と家族を守るために耐えるべきことと、武人としての誇りの間で燻る想いを持て余している。

 「そういえば林冲、お前は今日はいったいどうして、こんな何もない菜園なんぞにいたんだ?」

 たった今、己の義兄となった僧形の男は、豪放な手つきで酒を呷りながら、心底不思議そうに丸い目を瞬かせている。

 林冲とて、なにも元からこの菜園に用事があったわけではなかった。

 「実は、今日はたまたま、妻とともに隣の東嶽廟へ参拝に来たところだったんだが、ここを通りかかったときに兄貴が禅杖を振るう音が聞こえたので、つい気になって見ていたら……兄貴の勇壮で豪快な演武にすっかり目を奪われてしまってな」

 つい先日、顔が醜いというもっともらしい理由の裏に巡らされたおぞましい駆け引きのせいで、ともに切磋琢磨した弟分が、妻を喪ったうえ飼い殺し以外の何物でもない仕打ちを受けた。

 そのことに憤りを溜め込んでいた林冲を見かねた妻が、せっかくの休みなのだから気晴らしにと、嶽廟参りに己を誘ったのだ。

 そうして、まったく予期せぬ場所で、まったく偶然に、まったく予期せぬ好漢を見た。

 ともすれば凶悪な出で立ちと万鈞の重さを持つ禅杖の軌跡から、ただの無法な暴れ者と思われるのであろうが、林冲には、彼がただの荒法師などではないことがすぐにわかった。

 何に縛られることなく、想いのままに沸き上がる荒ぶりを叫び、そしてその内に誰にも譲らぬ芯を持っている――強く、太く、純粋で、荒々しいのに優しさを帯びた、ひとつの芯が見えたのだ。

 姿形もまとう空気もまったく違うのに、その一点が己の崇敬する父を思い起こさせ、たまらず声をかけた。この好漢中の好漢を、爆ぜるほどに熱い義を抱える男と語り合う機会を、逃がしたくなかった。

 「そこで、妻には小間使いとともに先に廟を参るよう伝え、俺はここで兄貴を待っていたところ、こうして快く迎えてもらえたというわけだ」

 「ハハ、そりゃあ俺にとっても思わぬ幸運だったな。俺はここには誰も知り合いがいなかったが、この子分どもがなんやかんやと毎日俺の世話を焼きにきてくれるし、そして今日はお前とこうして義兄弟の契りまで交わすことができた。つまらん菜園番などと思っていたが、こうしていいこともあったわけだ……さあ、せっかくの吉日だ、もっと飲め、弟」

 轟々と逆立つ眉毛の下のぎょろりとした目は、笑えば存外に幼い。

 その愛嬌のある笑顔に促され、林冲はもう二杯、三杯、と義兄弟の盃を呷り、上機嫌な智深の話し声にこちらまで気分が浮つき、

 「旦那さま……!」

 胸を切り裂かれるような悲痛な叫び声が、義兄弟のささやかで和やかな宴に終わりを告げた。

 「錦児(きんじ)? いったいどうしたのだ」

 叫び声の主は、幼い頃から妻に仕えてきた小間使いの娘である。

 振り返ってみれば、菜園の塀の崩れたところから身を乗り出して叫ぶ彼女の、常ならばきらきらと楽しそうに輝いている顔が蒼白になっている。息せき切って走ってきたのであろう、長い髪は乱れて額や頬に貼り付いていた。

 (あいつに、何かあったのか)

 彼女が姉のように母のように慕っている妻を伴わず、たった一人で駆けつけたところを見れば、妻の身に大事が起こっているのであろうことはすぐ知れた。

 慌てて駆けよれば、細い指が、あらん限りの力で林冲の着物を掴んだ。

 「旦那さま、大変です! 奥様が、嶽廟で男の人と言い争いになっているのです」

 「言い争い? 何があったのだ」

 「五嶽楼(ごがくろう)を降りたところで、おかしな男の人が、仲間と一緒になって奥様を囲んで離そうとしないの! 旦那さま、はやく来てください!」

 今度は林冲の顔が血の気を失う番だった。

 「林冲?」

 「兄貴、この続きはまたいずれ」

 盃を智深の子分に押しつけた林冲は、錦児が遅れをとるのもかまわず、一足飛びに東嶽廟を目指した。

 禁軍教頭の一人娘として育った妻、張真娘(ちょうしんじょう)は、並の男ならばまずは口で負かし、下手をすれば手さえ出るような気の強い女である。それなのに錦児が血相を変えて己を呼びに来たということは、よほど卑劣な男か、数にものを言わせる相手か――

 「真娘……!」

 あっという間に目前に迫った五嶽楼の大階段の下、遠巻きに人だかりができている。

 目の色を変えてその人混みをかき分ける大男に、野次馬たちもぎょっとして後ずさり、潮が引くように道ができる。

 そうして現れた光景に、林冲の脳天がかっと熱くなる。

 「ネ、お姉さん、少しくらい良いだろォ? 少しお茶を飲んで話をするだけだからさぁ、ネ?」

 はじき弓や吹き矢や鳥もち竿を手に手に下卑た笑い声をあげる太鼓持ちの男たちを従え、階段の上に、若い男が立っている。

 「ほら、お姉さん、二階に行こうよォ」

 目に痛いほどのけばけばしい着物をわざとらしく着崩し、てかてかと撫でつけた鬢に馬鹿げた大きさの花を咲かせた男が、気怠げな目を細め好色な笑顔を浮かべて伸ばした手を、妻が弱々しく振り払う。

 「まだこんな明るい内から人妻をつかまえてみっともない、なんて人なの!」

 気丈な声をあげてはいるが、常からは考えられないほどに控えめなその態度に、妻の恐怖を思い知る。

 「貴様……ッ」

 ぎり、と奥歯の擦れる音が己の頭の中に響き渡る。目尻が燃えるように熱い。

 「若造、貴様、よくも俺の妻に不埒な真似を……!」

 「ひ、ひいッ!」

 鋭い雷光のような声に大きく肩を震わせた太鼓持ちどもの、その手からこぼれ落ちた遊び道具を踏みつけ、大股に階段を駆け上り、妻と若い男の間に身体をねじ込み、爪痕が残るほど握りしめた拳を振り上げ、

 「あなた、だめ!」

 小さく叫んだ妻に着物の袖を引かれたのと、林冲が目の前の助平野郎が誰であるか気が付いたのは、ほぼ同時だった。

 (花花太歳(かかたいさい)の、高衙内(こうがない)――!)

 「り、り、林冲?! な、なんでお前がここに……ぼ、僕を殴る気か?」

 うっすらと白粉を塗った間抜け面を引き攣らせ、目に涙さえ浮かべて震えているくせに偉そうに顎を突き出して胸を反らせる男は、誰あろう、悪名高き殿帥府太尉、高俅の義理の息子であった。

 「あなた」

 己の袖を掴んだまま離さない妻が、何故いつもの調子で男をはねのけなかったのか、合点がいった林冲の、振り上げた拳から力が抜けていく。

 それひとつで何人もの農民を養えるような趣味の悪い扇子で冷や汗が流れる顔を仰いでいた高衙内は、林冲がゆっくりと拳を引っ込めるのを見るや、真っ赤な口をあけて高らかに笑った。

 「アハハハ、なぁんだ、殴らないのか、弱虫の、臆病者め。林冲、お前、僕が怖いのかァ? 八十万禁軍教頭のくせに? ふん、そもそも、お前が出しゃばるところじゃないぞ、お節介はやめて、引っ込んでろ!」

 刹那、殴るのをためらった林冲のほうが、殴られたような心地がした。

 頭が、ひどく痛い。

 「ぼ、坊ちゃん、おやめください! こちらの奥様は、林教頭の奥方様だったのですよ!」

 「え、え? 林冲の妻……?」

 どうやら林冲の妻と知らずに声をかけたらしい高衙内は、取り巻きたちの言葉に再び形相を変えて後ずさる。

 「言わせておけばッ……!」

 「林教頭、お、落ち着いてください!」

 「高衙内さまは、林教頭の奥方だとご存じなかったので、間違って失礼なことをされたのですよ」

 それまで素知らぬふりで、そのくせ固唾をのんで様子を見守っていた人々が、再び拳を振り上げようとした林冲を数人がかりで慌てて押し止める。

 (弱虫の、臆病者だと……?)

 目尻が裂けるほどに目を見開いて高衙内を睨み付け、犬歯をむき出して唸る。

 「お、お前たち、はやく馬を連れてこい! このままじゃ、僕ァ林冲に殺される!」

 髪を振り乱し、着物の裾を自分の足で踏んづけながら尻尾を巻いて逃げる高衙内の、あの間抜けな背中など、愛用の蛇矛(じゃぼう)がなくとも、この指一本で押し潰し、血を吐かせ、許しを乞う暇すら与えず殺すことができるのに――

 「あなた……あなた!」

 「……っ」

 血に塗れた高衙内の姿を夢想していた林冲を、太陽の下に引き戻したのは、透き通った妻の声だった。

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