(四)
昨日まで鬱々として見えた景色が嘘のように鮮やかに色めきだすのを、洪信はすっかり憂いの晴れた心で見渡していた。
この地に逗留するのも今日が最後だからと道士たちに案内され、仄白いかんばせも麗しい二人の稚児の後に続いて境内を歩む。三清殿へと続く二本の回廊に沿って立ち並ぶ豪奢な社殿の数々は、朝焼けの余韻に包まれ、この世ならざる神々しさを湛えていた。
「そしてこちらの奥が、駆邪殿と申しまして……」
貧乏くさい白衣から権勢を知らしめる華麗な装いに戻った洪信の後ろを、ぞろぞろとついて歩く道士や寺男たちの話し声すら、今朝はまったく気に障らない。威厳を取り戻した足取りで、銀の混じる髭を撫でつけ微笑を浮かべながら道士を従えるその姿は、なるほどこの大宋国の中枢を担う将軍の名に恥じぬものであったろう。
「おい、道士」
満ち足りた気持ちで明媚な景色を眺めていた洪信の視線は、ふと、ある一点――右手の回廊の奥に縫い留められた。
回廊沿いの社殿と離れてただ一つ、ぽつりと佇むその社殿は、周囲を目に痛いような緋色の土塀で囲まれ、朱塗りの格子戸が入口を守っている。
それだけならば何ということもなかったが、異様なことに、その扉は人の腕ほども太い鎖で何重にも封じられ、さらにその結び目の上にはおびただしい数の御札が貼られていた。執念的なまでに貼り重ねられた御札の上を、これまた狂気的な数の朱印が埋め尽くしている様は、壮麗で神聖な社殿の風景の中で、ひときわ異質であった。
「どうされました、洪太尉殿」
「あそこにひとつ離れている社殿は、一体何の祠だ?」
洪信の指さす先、朱の漆塗りに金色の筆で『伏魔殿』と書かれた額を掲げる社殿に皺深い顔を向けた老道士が、わずかに表情を強張らせたのを洪信は見逃さなかった。
「あれは……先代の天師様が、魔王を封じた祠でございます」
「魔王? それであんなにべたべたと札を貼りこめているのか」
「ええ、唐の時代、洞玄国師様がここに魔王を閉じ込めて以来、天師様が代替わりするたびに御札を加えていったのでございます。洞玄国師様は、もしも魔王が逃げ出せば、この国を揺るがす由々しき事態になるゆえ、子子孫孫この祠を封じ続けよと仰せられました。今の天師様でもう八代目、いや、九代目になりますか、ですがどの天師様も決して開けようとはなさいませんし、当然、中の様子を知る者もございません。私もここの住持となって三十数年になりますが、ただ言い伝えを聞くばかりでして」
「ほう……」
常ならば、いくら皇帝の覚えもめでたい高官として思いのままに生きる洪信とて、この聖なる社に代々伝わる禁忌を犯すような、大それた真似はしでかさなかったであろう。
だが、この時の洪信は、勅命を無事に終えたことで、常ならざる解放感に支配されていた。
――それが偶然の出来心であったのか、宿命であったのか、今となっては誰一人知る者はない。
「おい道士、魔王を封じたとはおもしろい話を考えたものだ。唐の時代より何者も見たことがないという魔王の姿、この私が暴いてやる。さあ、あの扉を開けよ」
「は……?」
「どうせお前たち道士が、奇怪な作り話と妖しい道術で民を惑わそうと、わざわざあんな祠を造ったんだろう。私も古今の書物に通じているが、魔物を封ずる術など聞いたこともない。魔物だ化け物だと妄言を吐きおって、さあ、はやく扉を開けて、魔王の姿を拝ませろ」
からからと愉快気に笑う洪信を見やる道士たちの顔から、目に見えて血の気が引いていく。
「な、何をおっしゃいますか太尉殿、我々は妄言を語っているわけではございません。あの祠を開ければ、取り返しのつかぬことが起こり、民の間に災いが拡がりましょう。どうか、お考え直しを」
口を揃えて懇願する道士たちを鬱陶しげに振り払いながら、洪信は顎をあげて一喝する。
「ふん、うるさい奴らめ。だいたい、皇帝陛下の勅命を帯び、三月三日に都を発ってから十数日、ようやくたどりついたと思えば張天師様は山頂の庵から下りてこないと言われ、この私がわざわざ山登りなぞをさせられただけでも腹立たしいというのにだ。途上では大蛇やら虎やらに脅かされ、おまけに突然現れた怪しげな牛飼い童こそが張天師様だったとお前たちは言う。これも妄言ではなかろうな?」
「滅相もない! たしかに洪太尉殿がお会いした童は張天師様でございます。昨日も申し上げましたとおり、すでに開封東京に向かわれ、疫病を退けるためのご祈祷を捧げていらっしゃるでしょう」
昨日の徒労を思い出して深まる洪信の眉間の皺には、老道士の痩せた体を折らんばかりにいっそう低頭させるほどの威圧があった。
「陛下の信頼も篤い張天師様の弟子が妄言を吐いているなどとは、私も思いたくない。だが、どうしてもこの扉を開けぬというなら、都に帰ったあかつきには、お前たちが私の務めを邪魔立てして天師様に会わせようとしなかったと奏上し、おまけに怪しげな祠を建てて民草を惑わせていると申し上げ、お前たちを流罪にするぞ!」
「な、なんと御無体な」
「いいから開けよと言っている。誰か、槌を持ってこい!」
青筋をたてて怒号をあげる洪信の剣幕と、彼の言葉が現実になるやもしれぬという恐れにかられた道士たちは、ついに懇願をやめ、鉄槌を持ち出して伏魔殿の扉の前に立った。




