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水滸綺伝  作者: 一條茈
第六回 九紋龍 赤松林にて追剥し 魯智深 火にて瓦罐寺を焼く
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(五)

 何とない話をしているうちに、夜が暮れ、そして朝が来た。

 腹ごしらえさえしてしまえば、己も史進も、一晩くらい歩き通すのは屁でもない。

 背中から追いかけてきた焦げ臭い風がようやく気にならなくなった頃、道の先に、人の営みらしきものが見えてきた。

 「しめた、村があるぞ。少し休むとしよう」

 穏やかな朝の青空の下で農作業に精を出す村人たちは、まるでこの長閑な村にそぐわぬ風体の大男が二人、のしのしと歩いてやってきたので、ぎょっとして二人を遠巻きに見守っているようであった。

 (ふん、どいつもこいつも、朝から気分の悪い)

 物心ついた時から、好意的で友好的であたたかな眼差しを向けられることは稀であったが、それでも提轄であったころ、渭州の民の目には恐れのほかに信頼と畏敬があった。

 それが今では、もはや善良な役人でも、まして徳のある真実の僧侶でもない、荒れ放題の髭と伸び放題の眉毛を蓄えた荒法師の姿なのだから、恐れられて当然と言えば当然なのだが。

 「おい小二、酒と肉、それに菜と飯だ! あるだけ持ってこい」

 とりあえず手近な店の扉をくぐれば、早朝から大声をあげて入ってきた客が、そのうえ僧形なのを見て何か言いたげにしていた店主も、あまりにも凄みのある視線にただただ、はい、と頷き、先に酒と菜を卓に並べると、そそくさと厨房のほうへ姿を消した。

 「そういえば、林では何も起こらなかったな」

 「林? あの赤松林のことかい?」

 菜をつまみながら、ぼつりと智深が零した言葉に、史進が首をかしげる。

 「林に遇いて起ち、山に遇いて富み、水に遇いて興り、江に遇いて止まる。長老から授かった文句だが、桃花村の近くの雑木林でも、先の赤松林でも、 これといって何か特別なことは起こらなかったと思ってな」

 「俺に再会したこととか」

 「それはそうだが、長老が偈とするくらいだぞ。もっとこう、派手なことが起こるのかと思ったんだが」

 胸元から皺だらけになった紙を取り出し、口尻をさげながら睨みつける。偈の文字だけは覚えたが、どうにもその真意まではわからない。

 「これから東京に近づいたら、あんな鬱蒼とした林なぞほとんどない。あそこは本当に開けているんだ」

 「前に行ったときは、旅だったのか?」

 「いや……親父と一緒に、ちょっと商売をしにな。俺がまだ十か十一かの大昔のことだが、さすがは皇帝のお膝元、品物も食い物も、人間も、なんでもあそこには揃っていた。俺によくしてくれた人の屋敷の近くには、大きくて洒落た樊楼があったな。あの時は縁などなかったが、きっと今でも残っているだろうから、一度立ち寄りたいものだ。その人も達者でいるかどうか、顔を見に行かねば」

 「へえ、そりゃいいや」

 まだ見ぬ都に思いを馳せる史進の顔はきらきらと輝いていたが、俺も、と言い出すような風はない。

 そして智深も、無理に誘うつもりはなかった。

 「史大郎、お前はこれからどうするんだ」

 湯気をあげる牛肉をほおばりながら、史進は迷わず答える。

 「俺は、少華山へ帰るよ。もうまったくの潔白の身とも言えなくなったことだし、朱武たちのもとに行って……それからのことは、それから、考える」

 「はは、それもいいだろう」

 智深はあっという間に残り少なくなった酒を史進と己の盃に満たすと、懐を探り、得たばかりの銀子を二、三取り出して、史進の手に握らせた。

 「兄貴、これは」

 「路銀にしろ。お前はどうせ、まっすぐ帰れそうにないからな。余分に持っていけ」

 「なんだよ、どういうことだ?」

 くりくりと不思議そうな色をのせた瞳は、それでも智深の好意を拒まなかった。

 「ありがとう、いつか恩返しをするよ」

 「そんなかたいことを言うな、兄弟。困ったときはお互い様だ。お前のおやきがなければ、今ごろ俺は飢え死にしていたところだ」

 最後の一杯を飲み干すと、二人は勘定を済ませ、身支度を整えて店を出た。

 妙な二人連れがやって来たことは、狭い村中に疾風の如く伝わったのだろう。穏やかな朝だというのにほとんど人影のない村の中を突っ切り、しばらくあれこれと話しながら歩き続けた智深たちは、気が付けば東京へと続く三叉路へと差し掛かっていた。

 「さて……名残惜しくはあるが、ここでお前とはお別れのようだ」

 「なあ、兄貴」

 ふと、史進が 范陽帽の下からこちらをじっと見上げてくる。

 「少華山に行くことを考えたことがあるかい?」

 「ふむ、お前の話を聞いた限りではなかなか愉快そうではあるが、長老との約束を破るわけにもいかん。俺は東京へ、お前は華州へ、いつかまた会える日もあるだろう」

 「……そうだな」

 史進は、それ以上何かを言うことはなかった。

「俺は東京へ、この道を、お前は華州へ行くんだから、この道をまっすぐ、まっすぐ行けばいいんだぞ。いいか、道なりにまっすぐだ。わからなくなったら、その辺のやつをつかまえて道を聞くといい」

 「ハハ、なんだ、兄貴はいつからそんな心配性になったんだ? もう子供でもないし、大丈夫だよ。じゃあ、元気でな」

 そして颯爽と、智深が指さしたのとは別の道を歩いていく史進の後姿を見送った智深もまた、それ以上何かを言うのは諦めたのであった。


 思い出を語り郷愁にひたることにそれほど熱心ではない智深だったが、東京開封府(とうけいかいほうふ)で過ごしたわずかな日々をふと思い出す時は、決まって懐かしさが胸にこみあげる。

 死んだ母を弔う金もなく、父とともにあてもなく訪れたこの都で出会った人と、過ごした時間は決して長くはなかったが、今でも智深の胸の底に彼の言葉は息づいている。

 「あの頃と変わらん……いや、変わらんどころかますます栄えているな」

 史進と別れてから八、九日、これといった出来事もなく歩き続けた道の先、ようやくたどり着いた大宋国の中心は、今日に至っても決して損なわれることない輝きをもって、智深の目の前に現れた。

 なるべく目立たぬよう、五台山から青州の山あいを経た大回りの旅路で、常にともにあった安穏とした静けさが嘘のように、翡翠や金に彩られた額も見事な朱塗りの柱がそびえる城門に近づくにつれ、人々の喧騒と熱気が嵐の如く体を包む。

 行き交う人も、物も、生き物でさえも、馴染みのものから見たこともない異国のものまでさまざま入り交じり、飛び交う声は罵声か怒声かはたまた歓声なのか、その中身さえ聞き取れないほどに渦を巻く。

 天を突く巨大な建物がいくつも立ち並ぶ大通の様子をきょろきょろと見まわしながら歩く荒法師の姿は、この開封東京ではさして珍しくもない光景なのだろう。誰一人智深を見て眉をひそめる者はなく、さらに言えば、智深に関心を示す者もない。

 妓女の甘やかな歌声や博徒たちの嬌声、商売人たちが張り上げる喧しい文句の隙間に、時折懐かしい光景を見つけるたびに足を止め、記憶の中の姿と照らし合わせたりしているうちに、いつの間にか智深は橋を渡って川を越え、巨大な朱雀門をくぐって内城に足を踏み入れていた。

 より一層賑わいを増した人ごみに巻き込まれぬよう太った体をあちらこちらへと傾けながら、はて目指す寺はどこだろうと視線をめぐらせていると、人の好さそうな顔をした物売りが、たまたま智深の様子を目に止め話しかけてくる。

 「お坊様、どちらのお寺をお探しですか?」

 「あいや、これはかたじけない。拙僧、五台山より大相国寺を目指して参ったのだが」

「ああ、それならほら、そこの州橋(しゅうきょう)を渡ってすぐ右側に見える、あの寺ですよ」

 「これは丁寧にどうも」

 物売りにぺこりと禿頭をさげ、禅杖を握りなおすと、智深はもうひとつ川を渡り、大通を外れて折れ曲がる道を進み、

 「……なんと、五台山の威容もものすごかったが、この寺も随分立派だ」

 五台山とも、瓦罐寺ともまた様相を異にする高い朱塗りの山門をくぐる。

 尊大に分厚い胸を張る巨大な対の金剛像も、龍の鱗の如き碧の瓦屋根を湛えた大殿も、華やかな象眼が施された四方の僧坊も、青い空に黒々とその威容を誇る宝塔も、何もかもが桁違いに、見るものを圧倒する。

 その無言の威圧とでも言うべき余所余所しさに自然と息を詰めてしまっていたことに気が付いた智深は、ぶるりと頭を振ると、東西それぞれに伸びる荘厳な柱廊を横目にまっすぐ知客寮(しかりょう)を目指した。


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