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水滸綺伝  作者: 一條茈
第四回 趙員外、魯達を文珠院に出家させ 魯智深、五台山にておおいに暴れる
30/64

(四)

 五台山の威容は、宋に住む者ならば一度はそれを讃える言葉を聞いたことがあるだろう。

 着物や路銀を詰め込めるだけ詰め込んだ袋を背負い、魯達が見上げたその山は、なるほど数多の讃辞に違わぬ姿であった。

 淡い青味を湛えた山々は遥か霞を突き、天の川さえ従えているかのように凛と座っている。

 蒼松の影に潜む堂や蔓草に覆われた伽藍の数々は、深々と幾年月の風雨を耐えた重みに色を滲ませ、晩秋にあってなお咲く花々は風に舞い、月影のごとき銀の瀑布に楚々とした色を添えている。

 そこに何百もの僧侶たちの囁くような祈りがさざめき合う様は、これぞまさに三千世界の極致とも思われた。

 趙員外とともに籠に乗せられ山頂へと運ばれた魯達は、その太った体いっぱいに澄み渡った山の空気を吸い込んだ。賑やかな酒屋も、武を競い高揚する道場も好きだが、世俗に侵されぬ木々の合間を吹く清い風もまた心地良い。

 なにやら迂闊に言葉を発するのも憚られ、寺男たちに案内されるまま静かに東屋で休んでいると、しばらくして、これまた立派な山門が、ぎしりぎしりと年季を帯びた音をあげてゆっくりと開いた。

 「これは施主殿、こんな山奥まではるばる、ご苦労様でした」

 深い、静かな、この五台山を体現したような声だった。

 仏の道の心得など、塵一つほども持ち合わせていない魯達にすら、その声に悟りの境地を聞いた。

 「久方ぶりでございます、智真長老」

 歩み寄って深々と拝礼する趙員外にならい、魯達もまた、この寺院の筆頭である白鬚の老人に頭を下げた。

 「本日は、長老にお願いがあって参った次第でございます」

 「員外殿、それにお連れの方も、お疲れになったでしょう。まずはお茶でもいかがかな」

 しわ深い目じりを下げて浮かべた笑みは柔和だったが、窺うように視線をあげた魯達は、長老のその眼差しになにやら居心地の悪さを覚えた。まるで、まったく知らないはずの己のことを、何もかも見透かしているような瞳だ。

 「魯提轄、参りましょう」

 それでもここから逃げられるわけもなし、趙員外に連れられ、おそるおそる長老のあとをついていけば、文珠院とやら言う寺院はどこで見たこともないほどに立派である。

 秋晴れの空に映える鐘楼や宝塔のまわりには黄金斑の毛並みを持つ鹿たちが悠然と草花を食み、湧き出る清らな泉に厨や方丈が映り込む様は古より続く悠久を感じさせる。長老に案内された方丈もまた、方丈などと呼ぶにはもったいないほどに重々しく、威厳のある佇まいであった。

 「おかけくだされ」

 長老の声に頷いた趙員外が上座に腰を下ろしたのを見て、魯達はさっそくそのすぐ下手にまわり、禅椅子にどかりと腰かける。

 すると、驚いたように目を瞬かせた趙員外が、そっと魯達の耳元に囁いた。

 「提轄殿、貴方様はここに出家されるのですから、長老様の真正面に座ってはなりません」

 「おお、そうだったか。そりゃあ知らんこととは言え失礼したな」

 趙員外があまりにも申し訳なさそうにしているのを見て魯達は咄嗟に立ち上がり、彼の後ろに控えたが、内心いささかおもしろくない心地がして逆立った眉毛をぐ、と寄せた。客としてやってきたのに、何故座ることさえ許されぬのか、腑に落ちない。

 だが、魯達の向かいでは何人もの坊主たちが魯達と同じように長老の後ろに控え、何を考えているのか分からぬ無表情で立ち尽くしている。これが寺の礼儀というものなのだろう。

 「長老様、まずはつまらないものですが」

 「なんとまあ、またご進物をいただくとは。施主殿には常々世話になっておると言うのに」

 趙員外の下男たちが運び込んできた大小さまざまの箱を見て、長老が嬉しそうに頭を下げる。中身をのぞいたわけではないが、少なくともただの線香などでないのは確かだ。

 まさかこの坊主、趙員外から金をせびりとっているわけではあるまいな、と箱を睨みつけていると、その視線に気が付いたのか、長老の真後ろに立つ痩せた坊主が軽く咳ばらいをした。

 「いえいえ、どうかお気を遣わず、お納めください」

 趙員外が立ち上がり深々と頭を下げるのを見て、もう一度痩せた坊主が咳ばらいをする。あやうく癇癪玉を爆発させそうになった魯達だったが、長老の白い眉が優しく垂れ下がっているのを見て、ぐ、と思いとどまり、員外にならって頭を下げた。

 「智真長老様、私はかねてより、このお寺に誰か出家させて功徳を積まんと願っておりました。ですが、度牒など入用なものまで整えていたにも関わらず、長年宿願を果たせずにおりました。それがこの度、こちらにいます男、私の従弟で姓は魯と言いまして、関西で軍人として暮らしておりましたが、この世をはかなんで出家をしたいと私を頼ってきたのです。どうか長老様のお慈悲を持って、我が従弟を迎え入れてやってはくださいませんでしょうか。さすれば私も積年の想いを遂げることができ、この上なき幸せなのです」

 昨夜のうちにうまい言い分を考えていたのだろう、よどみなく長老への願いを口にした員外を横目に見れば、その端正な顔は、僧籍の者の前でごまかしを言うことへの緊張からか、やや青ざめている。それを知ってか知らずか、答えた長老の声は変わらず穏やかであった。

 「……なるほど、それはなんとも光栄な因縁でございます。従弟殿のこと、我ら喜んでお迎えいたしましょう。さあ、お二人ともお座りになられよ。誰か茶を」

 その声に弾かれたように駆け寄ってきた小坊主が、座りなおした趙員外と魯達の前に湯気のたつ茶を置く。

 「すまんな!」

 「ひっ……!」

 魯達としては限りなく愛想よく礼を言ったつもりだったのだが、小坊主はその音量に驚いたか、びくりと体を引き、魯達と目を合わせないようにして下がっていく。

 (なんだ、愛想のないやつめ)

 斎を待ちながら長老が偉そうな坊主二人と己の剃髪のことを話している間も、じろじろと寺や坊主たちの様子を見物する魯達の視線は、誰のものともかち合わない。

 (ふん、口では愛想のいいことを言いながら、内心は俺のような武人がいきなり坊主になりたいなんて言ってきたことを怪しんでいるに違いない。初対面の人間を疑うとは、坊主のくせに度量の狭いやつらだ)

 趙員外の申し出でなかったら、こんな糞坊主たちのひしめく辛気臭い寺などこちらから願い下げだ。

 怒りに任せて一気に茶を飲み干しても、誰も二杯目を注ぎには来なかった。


 この寺に流れる穏やかで静謐な気が、今日を境に完全に変わったことを、智真はすでに悟っていた。

 いや、今日に始まったことではなかったのだ。

 その日を、智真ははっきりと覚えている。三十と一年前のことだった。

 斎を済ませ、寺院の廊下を歩いていた智真は、何の気なしに窓から見えた南西の夕空の色を見て仰天した。

 まるで人を喰らう獣が大口を開けたかのような赤い空。その中にただ一つ、不思議な輝きを放つ星。

 慌てて外に走り出て見れば、その星の周りには、他の星も、月も、雲や鳥の影さえも見当たらなかった。

 なんと孤独な星なのだろうと思ってしばらく空を見上げていると、唐突に、一陣の突風が山全体を吹き荒れた。

 その風は五台山をひとめぐりすると都の方角へと抜けていき、行方を確かめるようにそちらを振り返れば、都の空にもまた孤独な星が一つ、瞬いていた。

 「あれは、お主であったか」

 ぽつり、と呟きを落とした刹那、寺院にはふさわしくない音をたてて厨の扉が開いた。

 「長老様!」

 駆け込んできたのは首座をはじめとした数名の僧侶たちだったが、ゆっくりと振り向いた智真の視線に己たちの慌ただしい振る舞いを恥じたか、俯きがちに話し出した。

 「長老様、先程の男……」

 「員外殿も、従弟殿も、きちんと客間にお通ししたかな」

 「は、はい、それはもちろん。ですが長老様、どうか聞いてください。員外殿が連れてきたあの太った男、あれは立ち居振る舞いがあまりにも粗暴。おまけに髭だらけでぎょろりと目をむいて、いかにも乱暴狼藉を働きそうな風貌でした。とても員外殿の親戚とは思えませんし、心から出家を望んでいるとも思えません」

 「私も、あんな偉そうな図体をした軍人が突然出家など、怪しいとしか思えません。本気であれを得度させようとお思いなのですか? あんな男を入山させれば、この山に災いが起こります!」

 息巻く僧侶たちをよそに、智真は六字の念仏を唱えると、静かに手を合わせて祭壇に歩み寄った。

 「趙員外ほどの方があの者を縁者だと仰せなのだ。不義理はできぬし、疑るのは罪というもの。そんなに心配をするのなら、今ここで、私がうかがってみよう」

 智真は皺深い指に香をつまみ、祭壇の前に焚くと、禅椅子にあがって膝を組み、座禅に入って目を閉じる。そして香が燃え尽きた頃合いに、ゆっくりと瞼を上げた――赤い空が焼き付いた瞼を。

 「お前たち、必ずあの人を得度させるように。あの人は赤き空に輝く天の星、心素直な男です。今はまだ未熟故にその気性荒く、良い巡り合わせにも逢うていないが、いつか必ず心清らかに悟りを開き、お前たちでは及びもしない人物になろう……私のこの言葉をよく心にとどめ、決してとやかく言ってはならぬ」

 ありありと不満を顔に表しながらも、分かりましたと去っていく弟子たちの姿に、智真は目を細めた。


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