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水滸綺伝  作者: 一條茈
第三回 史進、夜半に華陰県を去り 魯提轄、拳三発で鎮関西を成敗す
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(六)

 「おい、若造。金と言う名の老人がここに泊まっているな? どの部屋だ」

 空の端に未だ暗灰色の夜が残る朝方、魯達は金父娘に教えられた宿屋にやってきた。

 店番に立っていた若い男は、いきなりのしのしと現れた大男の影に胡乱気な顔をあげ、大男があの魯提轄であるとわかるとあからさまに目を泳がせる。

 「き、金さん、魯提轄がお見えだよ……こ、こちらのお部屋です提轄、さあ」

 普段出したこともないであろう猫撫で声をあげる男を一瞥し、魯達は案内された部屋に半ば突進するように歩み入る。

 「おい、おやじ、翠蓮、準備はできているな?」

 「ああ、生き神様、もちろんでございます。我ら父娘、昨夜のうちに荷をまとめ、薪代と飯代は支払い済み、荷車もすでに用意しております。朝飯も終えておりますれば、いつでも……ささ、どうぞおかけに」

 「馬鹿者、悠長に座っていられるか! すぐに出立だ」

 どこか危機感の薄い金老人の肩をばしりと叩き、翠蓮が重そうに抱えていた荷物を肩に背負うと、魯達は二人を引き連れ堂々と部屋を出る。

 「え、あの、提轄様? そちらの二人をつれてどこへ?」

 当然のように宿を出ていこうとする一行に、先ほどから怯えたように魯達のほうを窺っていた若者が、目をむいて駆け寄ってくる。

 「なんだ、宿代なら払ったはずだぞ」

 「いや、あのですね、宿代だけじゃないんですよ、頂かなきゃいけないのは」

 丹田を震わせるような魯達の声に、それでも若者は食い下がる。

 「鄭の大旦那は、この娘に三千貫の身代金をかけてるんです。こいつら、まだそれを返してもいないのに、どこぞにやるわけにはいきませんよ。ね、提轄様、俺たちだってこれが仕事なんですから。なんとか言ってやってくださいよ」

 「どいつもこいつも金のことしか頭にないのか! 鄭に払う金なら俺が出す。それで文句はあるまい」

 「それじゃあ駄目ですよ提轄様、こいつら、つけあがっちまいます。何が何でも、この娘に払わせなきゃ」

 若者の下卑た糸目が、にたりと翠蓮を捕らえた瞬間、魯達の癇癪玉は爆発した。

 「こっちが穏便に済ませてやろうってのに、つけあがってるのはお前たちのほうじゃねえか! 恥を知れ!」

 「っが!」

 魯達の分厚い掌をまともに頬に喰らった若者の身体が、軽々と宙に舞う。

 その口から血が吐き出されるのを見るか見ないかのうちに踏み込んだ魯達は、さらに拳で思い切り若者の顎を突き上げる。嫌な音とともに、折れた歯の欠片が吹き飛んだ。

 「こ、こいつ、なんて力だ」

 「はは、自分とて弱いくせに、困っているものをいじめた罰だ!」

 這うように宿の中へと逃げていく若者の背に豪快な笑い声を浴びせながら、魯達は拳を収め、唖然とこちらを見つめる金父娘を振り向く。

 「さあ、今のうちに荷物を車に積むぞ。俺は少しの間ここで時間を稼ぐから、あんたらはできるだけ遠くに逃げるんだ」

 「ですが提轄様、やつらは」

 「ですがも糞もない、さっさと荷車を持ってくるんだ」

 魯達の剣幕に押され、何やら言いたげにしていた金老人がしぶしぶ門の外へ荷車を取りに行く。それを横目に、魯達は宿の中から床机を持ち出し門の前にどかりと置いた。

 「提轄様」

 ふと柔らかな気配が近付き、先から背負ったままだった荷物に白い手が触れる。

 「もう大丈夫です。一人で持てます」

 「大切なものなんだな」

 困ったような微笑は未だ弱々しかったが、昨日の、枯れ果てて塵となってしまいそうな悲壮な影はもう消えている。魯達の手から包みを受け取ると、翠蓮は愛おしげにそれを抱えた。

 「母の形見なんです。美しい着物で……金目のものはほぼ売り払ってしまいましたが、これだけは手元に置いていました」

 風呂敷の隙間からは、淡い橙色の布が見える。とても借金を払いきれるような代物ではなさそうだが、売れば返済の足しにはなったやもしれぬ。それでも手放さぬと決めたその決意に、儚げなこの娘の清廉で気丈な誇りを知った魯達は安堵した。翠蓮ならば、この先も大丈夫だ。

 「翠蓮よ」

 「はい」

 「俺のことなど気にせず、無事に逃げろよ。そして達者に暮らし、幸せになれ。今度べそべそ泣いているところを見つけたら、仕置きだぞ!」

 「……はい」

 その刹那、翠蓮は何か言いたげな顔をしたが、すぐに白い頬に淡い笑みを浮かべて荷物を抱えなおした。

 老父の引いてきた荷車に荷物を詰め込み、何度もこちらに礼をしながら去っていく翠蓮が最後まで笑顔であったことに満足し、床机にどかりと座りこむ。

 ここからは、泣く子も黙る魯提轄の出番だ――髭をかきむしっていた手を握りしめ、魯達は鋭く息を吐いた。


 状元橋のたもとにあるその肉屋は、渭州でも一、二を争う立派な店構えである。

 店先にはまるまるとした豚肉が四つも五つもぶらさがり、大きな二つの肉切台には十数人の下働きたちが集まって、へつらうような笑みを浮かべた人々のために絶え間なく肉を切り刻んでいる。

 その後ろでは、顎にも腹にもでっぷりと肉を纏い、いかにも成金といった風情の男が、にたにたと黄色い歯を覗かせながら店の繁盛ぶりを眺めている。

 そう、今日も鄭の肉屋は大繁盛の様相を呈していたのだ――先ほどまでは。

 「よう、肉屋の旦那」

 声音こそ明るいものではあったが、毛むくじゃらの巨体を不気味に揺らしながらやってきた男の目は、ぎょろりと鄭を見据えていた。いったい、己にぶしつけな視線を向けてくる不届き者は誰なのかと、こちらも凄みをきかせて鄭は男を睨みつけ、

 「こ、これは魯提轄! このようなむさくるしい店に、ようこそいらっしゃいました」

 その男が誰あろう魯達であることに気が付いた途端、へろりと愛嬌のある笑みを浮かべてどすどすと駆け寄った。

 「ご挨拶が遅れ、とんだ失礼を。おい誰か、床几を持ってこい!」

 下働きの小男が飛ぶように運んできた床几へ我が物顔で腰かけた魯達は、髭に覆われた顎を反らし、見下すように鄭を一瞥する。

 「小种公殿直々の御用だ。赤身の肉を十斤、細切れにしろ。絶対に脂身が混じってはならん」

 「へい、へい、承りました。やいお前ら、そっちは後にして、小种公殿の肉を準備してさしあげろ」

 「待て」

 魯達の黒目が、ぎろりと鄭を捕らえる。

 「あんな小汚い下っ端どもに切らせず、お前が切れ」

 「はは、そりゃあごもっともで。では、私がお切りします」

 さすがは自ら鎮関西と名乗るだけあって、鄭は、度胸だけは据わっていた。

 逆立った眉毛の下から隠そうともしない殺気を放つ魯達にへこへこと頭を下げ、重そうな腹を揺すりながら肉切台の前に立つ。

 人をも殺せそうな大きな包丁で荒々しく肉が刻まれていくのを、魯達は静かに眺める。少し離れたところで先ほどの宿屋の若造が右往左往している姿には、気付かないふりをした。

 「さあ、できましたよ。これはうちの若いのに届けさせましょう」

 半時ほどかけて十斤の肉の細切れを用意した鄭は、それを蓮の葉にくるみ、魯達の目の前で掲げて見せる。だが、まだ足りない。

 「まあ待て、届けるのはまだだ。今度は脂身だけを十斤、切り刻め。赤肉が少しでも混じってはいかん」

 「脂身だけの細切れなんて、小种公殿ともあろうお方がいったいどうやって食べるんです?」

 「俺が知るわけがないだろう! 小种公殿がそう仰せられたんだ、とっとと用意しろ」

 魯達が鷹揚に手を振れば、しぶしぶといったように鄭は脂身を十斤見繕い、細かい賽の目に刻み始めた。

 どんなに手慣れた肉屋とて、二十斤もの肉塊を切り刻むとなれば、さすがに腕がしびれてくるらしい。何度も丸太のような腕をこすりながら、それでも鄭は脂身を切り刻み続けた。

 太陽はすっかり真上に移動し、朝からひっきりなしに訪れていた客足も今ではすっかり遠のいている。

 通りがかる誰もが、ものすごい形相で座り込む魯提轄と、汗みどろになりながら大量の肉を切る鄭の異様な姿に怖気づき、我関せずを決め込んでいた。

 「提轄殿、ほら、脂身のほうも終わりましたよ。さっきの赤身と一緒に、届けさせますので」

 息を切らし、汗を拭いながら鄭が二つの包みを掲げたころには、昼餉の時刻はとうに過ぎていた。

 この半日、目を皿のようにしてひたすら太陽の下で座り続けた体はすっかり汗ばみ、着物が貼りついている。ここまで耐えればもう、金父娘も十分遠くに逃げただろう――確信した魯達は、汗のしたたる髭を震わせた。

 「ハッ、なんだ、肉屋のくせにこの程度でへばったか? だがまだ終わらんぞ。今度は軟骨を十斤、細切れにしろ。肉は絶対に混ぜぬようにな」

 汚らしく方々にはねる鄭の髭もまた、びりびりと震えている。垂れ下がった頬は引き攣り、目を細めるその顔は豚にも劣るほどに醜い。

 まるでその心根が、姿形をとったかのように。

 「提轄殿……あんたさては、役人のくせに、俺をなぶりに来たな?」

 その言葉を聞いた刹那、魯達は床几を蹴り倒して立ち上がっていた。弱い者を、困っている者を、翠蓮をなぶった男が、よくもそんな口をきけたものだ。

 「ああ、そうだ。畜生にも劣る貴様を、なぶりに来たのさ!」

 「んぐっ!」

 雷鳴のような怒鳴り声とともに魯達は鄭の手中から二つの包みをもぎ取り、思い切りの強さで鄭の顔面めがけて投げつけた。

 雨の如く降り注ぐ肉片を払い目を血走らせた鄭が、肉切台の上から巨大な包丁を取り上げ翳したときにはすでに、魯達は往来のほうへと身を引いている。

 まわりに軒を連ねる店にいた客も、遠まきに鄭たちの様子を眺めていた男たちも、誰一人として興奮した二人の大男を止めようとはしない。巻き込まれれば怪我だけでは済まないことを、彼らはよく知っている。

 「ふざけるな、腐れ役人! 人の商売を邪魔しやがって」

 「腐れ役人だと? 腐っているのは貴様の性根のほうだ!」

 その肥満体に似合わぬ素早さで詰め寄り、こちらの胸ぐらを掴もうと伸ばした鄭の左手をあっという間に捻りあげ、魯達は大音声で罵る。

 「以前経略使の老种公殿にも仕えていたが、そのときでこそ、関西五路の廉訪使(れんほうし)にでも出世すりゃ鎮関西とも名乗れようかと言っていたものだ。それをお前のような薄汚い豚殺しが、鎮関西と名乗って威張り散らすとは何事だ!」

 「は、離せ! 貴様、人を殴るしか能の無い糞役人の癖になに、をっ!」

 「殴るしか能がない? この脚もあるぞ!」

 「かはッ」

 でろりとだらしなく垂れさがった下っ腹を思い切り蹴り上げれば、さすがの鄭も掠れた悲鳴を道連れに倒れ込む。

 その勢いのまま巨体の上に踏み込み、大椀ほどもある肉厚の拳を振り上げ胸板を踏んづければ、捌かれる豚もかくやというような甲高い声をあげ、鄭が白目をむく。

 脳裏に、翠蓮と老父の泣き顔が過った。

 「糞野郎め、よくも翠蓮とおやじを騙しやがったな!」

 鄭の醜い顔のど真ん中に振り下ろした拳から、なんともいえぬ音が響いた。

 見る影もなく鼻が潰れ、まだらに黄色い鮮血が飛び散る。

 「……や、めろッ……この、やろっ……」

 「つべこべとうるさい畜生め、お前にいじめられた者の代わりに俺が成敗してやる!」

 再び振り下ろされた拳は鄭の目玉をぶち抜き、赤黒くぐずりとしたものが魯達の手を胸を顔を濡らす。

 「アッ……頼む……もう、ゆる……」

 包丁を握りしめた鄭の手から力が抜け、ごぼごぼと泡立った声が許しを請う。

 「畜生にも劣る外道め、たとえ天がお前を許そうと、俺がお前を許すものか! 翠蓮たちへの償いが、この程度で終わると思ったか!」

 三度振り下ろされた真っ赤な拳はついに、鄭のこめかみを砕いた。

 顔の孔という孔からびちゃりと血を垂れ流した鄭の、ひゅう、という喘鳴が、やけに大きく魯達の耳を打つ。

 吐息を荒げ肩を揺らす己の下で、もはや目鼻だちも分からぬほどに腫れあがった顔が、どんどんどす暗い紫色になっていく。

 (まずい)

 鄭の手から転がり落ちた包丁が地面にぶつかる音がしてようやく、魯達は、己のしでかしたことを悟った。

 ――人を、殺した。

 「……ふん、今更死んだ真似をするとは、往生際の悪いやつだ」

 恐怖のあまり声も出さぬ群衆の視線をどこか遠くに感じながら、魯達はゆらりと立ち上がり、顔を濡らした鄭の血を袖で拭う。

 「あとでまた来て、とことん相手をしてやるぞ!」

 体中に返り血を浴び、ぎょろりとあたりを睨みつける大男に、人殺しと罵声を浴びせる者など一人もいなかった。

 魯達が大股に歩めば、潮が引くかのように人ごみが割れる。

 (痛い目を見せて反省させようとしたのに、つい、殺してしまった)

 掌に残る感触を振り払うように腕をまわす。

 衙門に訴えられれば言い逃れはできず、牢に入れられても、己に銀子や食い物を差し入れし役人たちに気をまわしてくれる者などいない。たとえ悪人を成敗した己の気持ちは晴れていようと、法は容易にはそれを許さぬだろう。

 風を切って状元橋を渡る魯達の心はすでに、決まっていた。

 一刻もはやく、逃げるのだ。


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