(十三)
誰かが扉の向こうを滑るように歩く衣擦れの音など、常ならば気付かず眠りこけているのだが、何故か今宵ばかりはその微かな物音に起こされた。
「王四か?」
のそりと起き上がって部屋の扉を開けた史進は、そそくさと遠ざかろうとしていた猫背にひそめた声をかけた。
「ひっ……だ、旦那さまですか。驚かさないでくださいよ」
「なんだよ、驚かせたのはそっちだろ。こんな時間に帰ってきたのはどうしてだ? 泊まっていけとでも言われたか?」
大げさに肩を震わせて振り返った王四の顔色は薄暗がりでよく見えないが、どこか焦点の定まらない目をしている――おそらく浴びるほどに酒を飲まされたのだろう。
「ええ、その通りで。三頭領どころか、子分衆の皆さんまでも、旦那さまの中秋の誘いに大喜びで、私をどうしてもと引きとめたのです。ようやく帰って来られたと思ったらこんな時間で……旦那さまを起こしてしまいましたな」
「はは、そんなことだろうと思ったよ。そうだ、朱武たちから文の返事はもらったか?」
「いえ、その、文を書こうとおっしゃったところを私がお断りしたのです。三頭領がおいでになると決められたからには文など不要。私も相当酔っておりましたから、途中で万一間違いを起こしてはいけないですし」
「へえ、さすがは父さんが賽伯当と呼んでいただけはある。機転がきくじゃないか」
「め、滅相もない。私はただ、確かに三頭領の良い返事を旦那さまにお伝えしようとまっすぐ走って帰ってきただけでして」
「お前のおかげで、中秋の宴は愉快になりそうだ。そうと決まれば、さっそく宴席の準備をしないと」
「そちらも私にお任せを。万事ぬかりなく準備いたしましょう」
「まあ今日のところは早く休め。ずいぶん疲れた顔をしているぞ。俺もまだ眠たいから、もう一度寝るとするよ」
だらしなく大あくびをしてひらひらと手をふった史進は、細く震える吐息を漏らしてそっと汗を拭う王四の姿に、ついぞ気が付くことはなかった。
そうして、その夜はやってきた。
気の早い満月は、未だ暮れぬ黄昏の空に我が物顔で銀色の輪を描いていた。
その清かな輝きの中、ゆったりと葉を散らす木陰にしつらえられた宴席に大小さまざま赴きのある器が所狭しと並べられた様には、片田舎の庭先とは思えぬ品があった。
使用人たちが丹精込めて整えた料理や酒の芳香は、実り豊かな史家村の幸福を乗せて、人々の談笑の合間を漂っていた。
やがて黄昏の空が紫紺の宵闇に変わり始めた頃、史進の待ち人たちがようやく門前に姿を表した。
「旦那さま、三頭領がお着きになりましたよ」
使用人たちが告げるや否や、史進は子どものように目を輝かせ、村の主の威厳もそこそこに、友のもとへと駆け寄った。
「朱武、陳達、それに楊春も。皆、今日はよく来てくれたな!」
「はは、お前にまた会えるとなってからは、兄貴たちも仕事が手につかなくて、稼ぎはあがったりさ」
のっぺりとした顔いっぱいに嬉しそうな笑みを浮かべる楊春を、陳達のどんぐり眼がぎょろりと睨む。
「ばかを言え、稼ぎが減るどころか、今日のためにたんまり贈り物をあつらえたじゃねえか。やい、史大郎、楊春の言うことなんか、真に受けるなよ」
愉快げにまくし立てる陳達につられて、朱武もくつくつと肩を揺らす。
「史進、今日は中秋の宴に招いてもらい嬉しい限りだ。あまり目立ったことはできぬ故、馬にも乗らず、子分どもも五人しか連れて来られなかった。山に残った者たちも皆、お前によろしくと言っていたぞ」
「なぁに、あんたたち三人が来てくれただけで俺は嬉しいんだ。さあ、話したいことは山ほどある、さっそく席についてくれ」
史進は三人を宴席に案内し、再三辞退するのも聞き入れずに上座に座らせる。
表裏の門に閂をかけ、使用人たちに酒と料理を運ばせ、自ら三頭領の杯に上酒をなみなみ注ぐと、史進はようやく腰を下ろして白い歯を見せた。
「三頭領との再会を祝って」
掲げられた四つの盃が、軽やかな音を立ててぶつかりあう。
「かぁ、うめえ。さすが史家村の旦那が選ぶ酒は、格が違う」
豪快に髭を酒で濡らしながら、陳達は吠えるように笑う。
「達兄、今日は中秋だぜ。まったく、酒ばかりに目がいって、ほら、あんなにきれいなお月さまを見もしない」
「月じゃ腹は膨れないだろ。そう言うなら、お前こそ、月を眺めて詩のひとつでも詠んだらどうだ」
「そりゃあ俺じゃなくて朱武の兄貴の仕事だろう」
相も変わらぬ二人の掛け合いを聞きながら、史進は朱武の盃に酒を注ぎ足した。
「前に会ってから随分と時が経っちまったな。たまに通りすがる江湖の旅人から、あんたたちの名を何度も聞いたぜ。衙門の奴らも、そうそう手出しできないわけだ」
「史大郎よ、今や草莽の好漢は国中にいる。好きで落草した者もいるが、役人にいじめられて行き場をなくした者も多い」
盃を傾ける朱武の瞳に、憂いの色が走る。
「華陰の役人どもなどまだ可愛いほうだ。都の役人どもや朝廷の奴らの腐敗ぶりには目も当てられん。俺たちも、少華山で終わる気はない。元を断たねば、この国の民に平穏など訪れんよ」
「朱武、あんたはただの山賊の親分でいるにはもったいない男だな」
脳裏に、未だ尊敬してやまぬ男の姿が浮かぶ。
「一体いつから、世間はこんなにおかしくなっちまったんだ? かつてこの家に、禁軍でも名高い王進教頭がやってきたことがある。俺は王教頭に武術を教わったんだ」
「なんだって? 王進と言やあ、江湖の連中も一目置く好漢だ。どうりで俺の点鋼槍でも歯がたたねえわけだ」
「それで、王進は今どこに?」
少華山の山賊たちもその名に目を輝かせる男はすでに、この村を去り延安で新たな道を歩んでいる。師を都から追いやった男のことを思えば、史進はただ歯がゆさに苛まれるのだった。
「何が高太尉だ。成り上がりの道楽男のくせに」
「今や江湖に高俅の悪名を知らぬ好漢はいないだろう。王進のような男をも貶めるとは」
憤りもあらわに黙り込む三頭領の姿に、史進は慌てて手を叩く。
「すまん、暗い話になっちまったな。せっかくの中秋の宴なんだ、愉快にやろう」
「へへ、それもそうだ」
「兄貴は酒が飲みたいだけだろう?」
仕切り直しとばかりに使用人を呼び、羊肉を取り分けさせようと史進が腰をあげた刹那。
「屋敷を囲め!」
突然、屋敷の外から波のような怒号が押し寄せる。何事かと、月明かりしか浮かんでいなかった宵闇に視線を巡らせれば、一体いつの間に灯ったのか、数え切れないほどの松明の火が、ぐるりを取り囲んでいる。
「史進?」
「大丈夫、俺が様子を見てくるから、あんたたちは飲んでてくれよ」
白い顔をさらに青白くした楊春が立ち上がろうとするのを制し、史進は使用人を呼び寄せ囁いた。
「絶対に門を開けるなよ」
震えながら頷く使用人の背を叩き、急ぎ足で屋敷の裏手へ回る。梯子を引っ張り出し、外から見えぬよう頭を低くしながら塀の上によじ登り、
「くそっ、なんで……!」
噛みしめた奥歯の間から、喘鳴のような悪態が漏れる。
塀の外には、馬上で偉そうにふんぞりかえる華陰県の県尉がいた。だが、それだけではない。彼の隣には下卑た笑みを浮かべる兎捕りの李吉、その後ろには二人の都頭をはじめ、ざっと三百人ほどの兵士が顔を揃えているのだ。
月明かりすらかき消すほどの松明の火が刀や五股叉を煌々と照らす様に、史進の顔から血の気が引いていく。ぬかりはなかったはずなのに、なぜ李吉の野郎なんかが、今宵のことを知っていた?
「賊を逃がすな!」
都頭たちの勝ち誇ったような叫び声が、史進の肌に刻まれた龍の髭を、静かに震わせた。
<第二回 了>




