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水滸綺伝  作者: 一條茈
第二回 王教頭 密かに延安府に逃れ 九紋龍 大いに史家村を騒がす
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(六)

 たん、たん、と、ゆったりした調子で響く麦打ちの音が響く。

 その合間に、女たちの笑い声が波のように押し寄せては遠ざかる。

 松葉の香を乗せた風はどこまでも平らかで、六月の熱気を絡めとりながら、刺すような日差しを散らす柳の枝を揺らしていく。

 「いい風だなあ」

 その葉陰に据えた床机の上で、汗ばんだ長躯を駆ける九匹の龍を惜しげもなく晒す半裸の青年が気だるげに横たわる姿は、一幅の画のようであった――たとえ彼の品の良い顔立ちが、寝惚けて緩みきっていたとしても。

 十九歳になった史進は、二つの大きな別れを越え、この史家村を束ねる立場に立っていた。

 一度目の別れは、半年と少し前。己に武芸のすべてを授けてくれた王進の旅立ちだった。

 武芸の師であり、人生の師とも仰いだ王進に、一から叩き込まれた武芸十八般の武器――矛・槌・弓・(いしゆみ)・銃・鞭・(かん)・剣・(くさりがま)(なげぼこ)・斧・(まさかり)(かぎほこ)(えだぼこ)(たて)・棒・槍・(くまで)――は今も、毎日磨き上げ、屋敷の中庭に並べている。

 そのひとつひとつを見れば、王進に与えられた言葉の数々が鮮明に思い出され、史進の心を奮立たせるのだった。

 『武芸を修めることは、人の道を知ることだ。史進よ、いつかお前が大事を成す時が来たなら、きっとこの半年の鍛錬がお前の骨肉となり、どんな厳しい道のりをも踏破する支えとなろう』

 決して口数の多い方ではなかった王進の言葉には、どれも黄金に勝る重みがあった。

 もはや教えることは何もない、これ以上ここに留まっては迷惑がかかる、と頑なに出立を願った師を止めることもできずに迎えた別れの日、王進が最後に残したその言葉を信じ、史進は今日も鍛錬に励んでいた。

 今頃は王進も、延安府の种老公に仕え、己の腕を思う存分発揮しているだろうか。自分にも、そんな機会があったなら――

 『大郎、お前の務めは、この村を守ること。忘れるでないぞ』

 戒められたのは、二度目の別れの時だった。

 史進が王進に鍛え上げられた姿を見届け、まるで役目を終えたといわんばかりに、王進の出立後半年が経ったあるとき父は病に倒れた。

 方々の医師を呼び寄せ、薬を買い集め、あらゆる手を尽くしても助からぬと知ったとき、父はいつにない厳しい顔で史進に釘を刺した。先祖から受け継いだこの村を、守るのはお前だけだ、と。

 父が亡くなり数か月が経つが、いまだに一つの村を預っているという自覚はない。

 朝起きれば武芸の鍛錬に励み、田畑を見守りがてら、気の合う村の若者たちと話に花を咲かせる。気骨のある者には、王進直伝の武芸を見せてやる。そして夜は宴を開いて村人たちをもてなし、困っていることはないかと聞いてやる。

 父に甘えきりで村の仕事のことなど殆ど分からぬ史進にできることと言えば、それくらいだった。細かいことは、父が生前から信頼を置いていた使用人頭の王四(おうし)に任せておけば間違いはない。ここ数か月で稼ぎが一気に減ったと彼に小言を言われようと、ひとまず史家村には大きな困り事もなく、作物は実っているのだ。何を案ずることがあるだろう。

 「あっ」

 唐突に声をあげたのは、仕事を思い出したからではなかった。

 柳の裏手で男が一人、塀の向こうから屋敷の中を窺っていることに気が付いた史進は、それまでの怠惰な姿から一変、体を張詰めさせながら飛び起きて男を一喝した。

 「こら! 人の家をこそこそ覗き見しやがって、どこのどいつだ!」

 「ひっ!」

 思わぬ大音声に驚いたらしい男は一瞬身を縮こまらせたが、すぐにばつの悪そうな顔を塀の上に突き出した。

 「史の若旦那、俺です、李吉(りきつ)ですよぅ」

 「なんだ、兎捕りの李吉か。いったい何の魂胆だ? 盗みの下見にでも来たんじゃないだろうな」

 「滅相もない!」

 大股に近寄れば、小柄な体を一層小さくした李吉が、目を細め、猫撫で声で弁明する。

 「いったいこの村の誰が、若旦那のお宅から泥棒なんてしましょうか。お宅のお使いの丘乙郎(きゅういつろう)と一杯やろうと思いましてね、探しに来たら、若旦那がちょうどこちらで涼んでいらっしゃったものですから、お邪魔をしてはと立ち往生してたんですよぅ」

 「それならそうと、堂々と入ってくればいいのに。俺はそんなことじゃ怒らないよ」

 へらへらと笑う李吉の肩を小突いたとき、ふと、彼が腰に下げた兎の毛皮が目に入った。

 「李吉、それはそうと、一つ教えろ。お前、この間までは、猟で捕った獲物をよく売りに来ていたが、最近めっきり来なくなったのは何故なんだ? 俺は値切ったこともないのに、まさか金がなくなったと見て馬鹿にしているんじゃないだろうな」

 「若旦那、意地悪なことを言わんでくださいよぅ。売りに来ないんじゃなくて、来れないんです。そもそも獲物がまったく獲れないんですから!」

 「はあ?」

 いささか素っ頓狂な声になってしまったのも仕方のないことだった。

 史家村の背後にたたずむ少華山(しょうかざん)は青々と豊かで広大な山だ。史進も子どもの頃は、小さな獣の後を追って山に入っては迷子になり、よく母に泣きついていたものだった。あの山で一匹も獣が取れないなど、この村に住む者なら誰もが信じないだろう。

 「お前、嘘ならもっと上手につけよ。少華山の広さなんて、子どもですら知っているじゃないか。どうして獲物が獲れないなんてことがある? ちゃんと隅々まで探しているのか?」

 「……さては若旦那、ご存知ないんですねぇ」

 小馬鹿にしたような声を潜めた李吉が、むっとする史進の耳元で蚊の鳴くように囁く。

 「ここ最近、少華山にはこわぁい山賊が住みついているんです。しかも、これがただの追剥じゃなくってね。ご立派な山寨をつくって、手下の数は五、六百、馬の数だって百頭は下らないってな勢いなんですよぅ。で、この山賊どもには三人の頭領がいて、一番目の大王は『神機軍師(しんきぐんし)』の朱武(しゅぶ)、二番目は『跳潤虎(ちょうかんこ)』の陳達(ちんたつ)、三番目は『白花蛇(はくかだ)』の楊春(ようしゅん)って言って、どれもめっぽう強いやつらです。こいつらが山賊どもの指揮をとれば、華陰(かいん)県のお役人様たちなんかひとたまりもないさね。そんなふうに目立ってきたもんで、最近じゃあ、やつらに三千貫の賞金がかけられましたがね。おっかなくって、だぁれも捕まえに行こうとしませんよ。ね、これでわかったでしょ。獲物がいないから獲れないんじゃなくて、山に入れないから獲物を獲れないんですよぅ」

 「はっ、山賊か」

 史進とて、知らぬわけではなかった。

 王進と出会う数年前から、山奥に追剥がいるらしいという話は村中に聞こえていたし、幾度かそれらしい人影を見たこともある。

 だが、よほど頭領たちが慎重なのか、史家村の者が泥棒や乱暴をされたという話は一度も聞いたことがない。それに、李吉の話が本当ならば、それだけの一大勢力となっているにも関わらず、村をめちゃくちゃにするような騒動だって起こしたことはない――今までは。

 「わかった、わかった。だけど、次に獲物を見つけたら、勇気を出して獲ってきて、俺に売りに来るんだぞ」

 「それはできるかどうかわかりませんよぅ」

 軽薄な笑い声をあげ慇懃に拝礼した李吉が去っていく。

 その背を見つめる史進を包んでいたのはすでに、夏の昼下がりのそよ風ではなかった。

 日に焼けた肌の上を我が物顔に舞う龍が、待ち焦がれたように熱い息を吐いていた。

 この村を守ることが己の務めと父は言った。いつか大事を成すときが来ると師は言った。何のために己の武芸を磨いてきたか、今なら母にも胸を張って言えそうだ。

 「……王四!」

 「はい、はい、どうされましたか、旦那さま」

 主の気まぐれには慣れたものか、使用人頭の王四が帳簿を小脇に抱えてのんびりと現れたのを引き寄せ、史進は目を爛々と光らせた。

 「今すぐ水牛を一頭捌き、家で一番良い酒を用意しろ。それから、紙銭を百枚と、線香もな」

 「いったい今度は、何が始まるのです?」

 さも面倒臭そうに眉を寄せる様に、常ならば反抗もしてみせるのだが、いまや史進は使命に燃えさかるひとつの炎だった。目の前の小事など呑み込んでしまうかのように、真面目な使用人頭の両肩を揺さぶる。

 「戦いに備えるんだ」

 「旦那さまは、いったい何と戦われるので?」

 「決まっている!」

 宙にぶん、と振りあげた手が、王四の帳簿を弾き飛ばした。

 「あの、少華山の、賊どもとだ!」

 その夜、史家の屋敷の周りには、緊張気味に顔をてらてらと光らせた働き盛りの男たちが、百人近く集まっていた。

 彼ら一人一人が持つ盃に、使用人たちがなみなみと上酒を注いで回る。

 その様子を一段高くしつらえた壇上から見ていた史進は、ひとつ頷くと、生温かい夜風に蓬髪を散らしながら声を張り上げた。

 「皆、今夜集まってもらったのは他でもない。これからこの村で……戦いが起こる」

 若き村の主の突拍子もない言動はいつものことだったが、此度ばかりは常と様子が違う、と男たちは悟った。

 彼らが手のかかる息子のように、愛すべき弟分のように、優しい兄貴分のように想い、ともに過ごしてきた陽気な若旦那は、今夜ばかりは歴戦の英雄にでもなったかのように精悍な顔をしていた。

 「知っている者も多いだろうが、少華山には今、賊が住みついている。しかもただの追剥風情じゃない。聞けば手下を五、六百人も集め、根城をつくって強盗をしているらしい」

 一人一人の闘志を見極めるかのごとく、史進は村人たちを見回した。

 「この頃ではなおさら勢いを増して、お上もついに三千貫の賞金をかけたそうだ。少華山は史家村のすぐ背後。それだけの勢力となれば、近いうちに必ず兵糧を奪いにこの村になだれ込んでくる。そこでだ、もしその時が来たなら、今日集まってくれた皆には各自、村を守るために戦ってもらいたい」

 史進の手が指し示す先では、松明の灯を弾いて大小様々の武器が暗闇に煌めいている。

 「山賊どもが村にやってきたのが分かったら、俺の屋敷中で拍子木を鳴らして合図する。皆にはこの武器を貸しておくから、合図が聞こえたらこれを手に応援に来てほしい。皆の家に賊が来たときにも同じようにして、互いに助け合って危機を乗り越えるんだ。三人の大王どもが直に乗りこんで来たなら、そいつらは俺に任せてくれ」

 村人たちに酒を注ぎ終えた使用人が最後に史進の盃に酒を注ぐ。なみなみと注がれたその水面には、三日月を背負う己の姿が映り込んだ。

 「腕に自信のない者は、明日から俺のところへ来るといい。王進師匠直伝の槍棒術を、俺が教えよう。さあ……」

 ぐびり、一息に飲み干した盃を高く掲げる。村人たちの不安を一気に戦いへの高揚へと変えた若き龍は、男たちの何百の視線を一身に受けて叫んだ。

 「俺たちの村を、俺たちの手で、守って見せるぞ!」

 男たちが勢いよく地に叩きつけた盃は、花火の如く艶やかに砕け散った。


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