第8章
エレーナが大事そうにブローチを胸元で握りしめたまま、ふと菜月を見上げた。
「ねえ、お姉ちゃん。……学校、いいの?」
「……え?」
一拍遅れて、菜月は自分の状況を思い出す。
(……やばっ)
小さくつぶやいて、制服のポケットからスマホを取り出した。
画面に表示された時間は――9時28分。
(1限、始まってるじゃん……)
「うわ、マジで……」
「……遅刻、ですか?」
アリスが、ほんの少し申し訳なさそうに顔を傾ける。
「うん、まぁ……そろそろ覚悟決める時間かな」
菜月は困ったように頭をかきながら、顔をしかめた。
「朝一から幼女と草むらかき分けてたなんて、言えないしな……」
ぶつぶつと自嘲気味に呟いたその声に、アリスがそっと口を開いた。
「……ごめんなさい。私たちのせいで……本当に……」
アリスは真っ直ぐに、菜月を見つめる。
その目には、静かな誠実さと――まだどこか不慣れな、他人との距離感がにじんでいた。
菜月は少しだけ目を見開いて、それからふっと肩をすくめた。
「……だから、気にすんなって」
「でも……」
「いいって。お礼なんか、もう充分だよ。あたしは勝手にやっただけなんだからさ」
そう言いながら、菜月はひとつ深呼吸をして、軽く笑った。
「ほら、ちゃんとブローチも返せたし、アリスも元気そうだったし。今日はそれで満点ってことで」
アリスは、その言葉に少しだけ口を開いたまま、何かを言いかけたが――やがて静かにうなずいた。
アリスはそっとエレーナの背に手を添えたまま、ためらいがちに菜月に目を向けた。
「……あの。私、アリスって言います。Alice Whitford」
その名乗りに、菜月は一瞬だけまばたきした。
(……やっぱり、アリスって名前だったんだ)
昨夜、あの裏通りで助けたときは名乗らなかった彼女が、こうして自分から名前を教えてくれたことに、少しだけ特別な響きを感じた。
「福原菜月。高校一年。ま、ただの通りすがりってことで」
菜月は軽く肩をすくめて笑った。
「なんていうか……困ってる人見たら、足が勝手に動く体質なんだよね。迷惑だったら、ごめん」
「……迷惑なんかじゃ、ありません」
アリスは、まっすぐな声で言った。
その目に宿る感情が、初めて言葉に追いついた気がして、菜月の胸がほんの少しだけ熱くなる。
「ありがとう、菜月さん」
「……“さん”とかいらないんだけどな」
「ごめんなさい...どうしても癖が抜けなくて」
アリスはまた菜月に頭を下げる。
「だからいいって!気にしないで? ね?」
「わたしは、エレーナって呼んでね!」
元気に手を振るエレーナを見て、3人の空気がほんの一瞬、ゆるやかに和んだ。
だが次の瞬間、菜月のスマホがブルッと震える。
画面を見ると、母の名前が表示されていた。
「……あっ、やっばい」
菜月は背筋をぴんと伸ばすと、突然バタバタと動き出す。
「ごめん、マジでほんとにヤバい。これ、授業どころか次呼び出しくらうやつ!」
「菜月さん……」
「心配しなくていいって! あたし、こういうときだけは全力疾走できるから!」
そう言って菜月はスニーカーのかかとを踏み直し、校舎の方角へ全力で走り出す。
その背中に向かって、エレーナが大きく手を振る。
「がんばってねー!」
アリスは黙って、ただその姿をじっと見送っていた。
その胸の奥で、何かあたたかいものが、ゆっくりとほどけていくのを感じながら。
川沿いの春風が、彼女たちの間をふわりと吹き抜けていった。