第19章
気づけば、列車は静かに発車していた。
ほとんど揺れもなく、音も立てず、まるで空間そのものが動いているようだった。
窓の外には現実の風景ではない、淡い光の流れが続いている。
菜月は、ふと夢の中を歩いているような感覚を覚えた。
案内されたのは、食堂車。
中央に据えられた長テーブルには、白いクロスと金の装飾が施され、照明はシャンデリアのように柔らかい光をこぼしていた。
(すご……ホテルの披露宴会場みたい)
そう思う間もなく、テンゼがワゴンを押してやってきた。
並べられた前菜は、スモークサーモンのロールや季節の野菜のマリネ。
温かいパンと、香ばしいスープ。ひとつひとつが丁寧に仕立てられていた。
「菜月さんの口に合うといいのですが」
レーネは変わらぬ微笑を浮かべ、菜月の向かいに座っていた。
豪華で優雅なドレスを身にまといながらも、決して威圧感を与えず、どこまでも柔らかい。
「いただきます……」
菜月はそっとスプーンを取り、スープをひとくち含んだ。
思わず目を見開く。
(おいしい……!)
塩味も甘味も絶妙で、普段食べるものとはまるで別物だった。
気取らない会話が続いた。
レーネは菜月の学校や家族のことを、興味深そうに尋ねてきた。
部活のこと、最近読んだ本、友人関係の話など。
会話の節々から、レーネが“知ろうとしている”のが伝わってきたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、自分がどこか“丁寧に扱われている”感覚に、菜月は少し感動すら覚えていた。
(なんか……あたし、こんな風に大事にされたことあったっけ)
だが、ふと――
(そういえば)
そんな言葉が頭に浮かんだ。
「……あの、アリスと、エレーナは……?」
ナイフを使っていたレーネの指が、一瞬だけ止まった。
ほんのわずか。ほんの呼吸の間。
けれどそれに気づくほどには、菜月は彼女の所作を見ていなかった。
「アリスは、勉学に励んでおりますの。この列車には……いないのですよ」
微笑みながらそう答えるレーネの表情は変わらず穏やかだった。
「エレーナも元気にしていますわ。ふふ、あの子はお転婆すぎて、目が離せませんけれど」
「そう……なんですね」
菜月は、それ以上深くは聞かなかった。
けれど――なにか、小さな引っかかりが心の中に残った。
(……なんだろう、今の感じ)
疑うほどではない。
けれど、“何かを聞き逃したような”、そんな違和感だけが、胸の奥にほんのりと残る。
「菜月さん、デザートも召し上がりますか?」
「え、あ……はい、ぜひ」
思考を振り払うように答えると、テンゼが再び静かに現れ、今度は淡い金色のタルトと紅茶がテーブルに並べられた。
夢のような時間は、まだ終わらない。
けれど菜月の胸の奥には、ほのかにかすむ霧のような感覚が、静かに灯り始めていた。