第11章
夕暮れの校庭は、オレンジ色に包まれていた。
傾いた陽が校舎の窓に映え、風がグラウンドの土を柔らかく撫でていく。
トラックの端でストレッチを終えた菜月は、並んでいる吉田先輩の横顔をちらりと見る。
「よし、じゃあ今日は軽めに5本走るか」
「“軽めに”って言える本数じゃないと思うんですけど……」
「へへ、そう言うわりに嬉しそうじゃん」
吉田は冗談めかして笑う。
その笑顔は、爽やかというより、陽だまりの中で自然に咲くような感じだった。
スタートの合図もなく、2人は並んで走り出した。
足音が重なる。風が髪をなびかせる。
菜月は走るときだけ、自分の呼吸と鼓動の音だけを聞いていられるこの時間が好きだった。
3本目のインターバルを終えた頃、吉田がふっと言った。
「なあ、福原。俺、今年のインターハイ狙ってるんだ」
菜月は息を整えながら、彼の横顔を見た。
「……先輩、去年も予選ギリギリで落ちたんですよね?」
「うん。でも、今年は違う。マジで本気で狙ってる。あと一歩、なんとか届かせたいんだ」
そう言う彼の瞳は、夕陽に照らされて真っ直ぐだった。
嘘も、無理もない。
ただ“行きたい”という一心で、どこまでもまっすぐなその熱に――菜月は心から、こう思った。
「……いけますよ。先輩なら、絶対いける」
吉田は、わずかに目を見開いてから、ふっと照れたように笑った。
「そっか。そう言ってもらえると、なんか……頑張れる気がするな」
菜月は無言でうなずきながら、胸の奥に少しだけ温かいものが灯るのを感じた。
(……これが、現実ってやつだ)
校庭の風、汗ばむ空気、確かにある地面の感触。
ここには“理屈の通る世界”があって、目指すゴールも、努力の意味もある。
けれど。
ふと、浮かんだのは、銀の髪の少女。
朝の光のなか、草をかき分けてブローチを探していたエレーナ。
そのとき交わした、たった数分のやりとり。
そして――そのあとに現れた、透き通るような声でお礼を言ったアリス。
(あの子たちは……)
言葉にならない問いだけが、風の中に消えていった。
「どうした、福原?」
「あ、いや……なんでもないっす。そろそろ次、行きましょ」
「よっしゃ、ラスト一本だ!」
再び走り出す2人。
西の空は、もう赤から藍へと移り変わろうとしていた。
菜月の背中に吹いた風が、ふと――どこか異国の夜の匂いを含んでいたような、そんな気がした。