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池袋~新世界

 楽しいことが何も思い浮かばないまま三年が経ってみると、考えていたような辛いことなどなく、そしてやはり楽しいこともない実に空虚な生活が続いていた。僕は人里離れた小屋に住んでいた。小屋の近くには古い桟橋の伸びた池があるのみで、あとは周りを森に覆われていた。

 池までは僕の散歩道であり、池のあたりでは僕以外に2人の人物をよくみかけるというか、彼らはほとんど住み着いているようにみえた。

 一人目はボロボロのスーツを着込んだ男だった。背は高く細身で、何かの呪文を唱えながら魚釣りをし続け、何度か声をかけてみたものの反応はなかった。そのときに聞いた呪文はこうだ。

「お魚よ、かわいいお魚ちゃん。エリクティーノのところにおいで……シルヴィニーノのところにおいで……ハムサミーノのところにおいで……お魚よ、かわいいお魚ちゃん。」

 こんな風に、名前の部分を毎回替えながら魚に語り掛けているのだった。あの人が魚を釣った瞬間を、少なくとも僕は目撃したことがない。いつまでも池に釣り糸を垂れるだけで、彼は立ち尽くしていた。

 二人目にいたっては、人であるかも怪しい。池の中から半分だけ顔をだし、ずっと一点を見つめ続けているのだ。池へと繋がる道を通るときに、僕は彼とよく目が合ってしまい、いまだにぎょっとしてしまう。鼻より上だけの情報では男か女かの判別もつかない。不気味極まりない。だが悪さをはたらく様子もない。一度、あの人がいるせいでスーツの男が魚を釣れないのではないかと考えたこともあったが、池に近づいて覗いてみれば、何匹もの魚が群れて泳いでいる影を見つけることができた。あの池に浸かる人は魚たちに受け入れられているのだろう。池の底から生えた水草みたいなものだと思えば、釣りをしつづけるスーツの男の方がさらに不気味なくらいだった。


 夜になると、僕はいつも散歩を終えて小屋に帰った。僕の小屋には世界模型があった。正真正銘、実際に生き物の住まう地球がインテリアとして飾ってあった。

 地球とはいうものの、球の形ではなく階段状になっていた。別に上の階にいる方が偉いということはなく、単に階段状になっているに過ぎなかった。

 世界模型には虹色の反転色が使われている。入道雲のくびれ部分に乗った陰の色、埃をかぶった葉巻型UFOの色、ハイビスカスの花びらを百枚集めた煮え湯の色、ヒヨコを向日葵の群れに食わせたあとの畑の色、白むほどの星空を投影し震えだした網膜の色、メルカトル図法によって記されなかった海域の色、数週間に渡って毒に侵された人間の肌の色。七色で構成されていた。

 僕は世界模型を持ってはいるが、とくだん何かをするでもなくいつも眺めているだけだった。たとえば酒を飲んで眺めている。買いだめしておいたブラックラムを一本開けた。僕は酒を飲むと頭に音楽が鳴り出すたちだった。小躍りしながら電子ピアノを取り出し、電源スイッチを押した。頭には映像を伴う音色と、それらの織り成すリズムが鳴っていて、それに合わせ僕も鍵盤をたたいた。こういうとき、かなりの確率で僕はチャルメラを弾く。チャルメラはなんだか繰り返したくなるもので、ソラシーラソ、ソラシラソラシラソラシラソラー、シーラソ……。頭の中で鳴りつづける伴奏は清潔でありながら生々しい映像に満ち溢れ、時には現実で弾く僕が伴奏に回ったりした。この音楽はずっと、僕の中でだけ完結する至高の思考だった。

 1時間ほど電子ピアノに向かったときだった。これくらいになるともはや、音が鳴っていればなんでもよくなり、ポケットから鼠の鳴く声がした。それは都会のゴミ箱からやってきたデブ鼠だった。こいつはいつも、僕が音楽に浸りだすと突然ポケットに現われ、とくに何かを食うでも逃げるでもなく、ただポケットの中でチューチューと、音楽に加わるのだった。ポケットには温かく、プニプニした感触が留まって、たまに動いた。

 音楽の際中、小屋の扉の開く音が強く響いた。この突然の襲撃は、僕にとってまったくの意識外の出来事だったが、僕はすでにアドレナリンが出すぎていて特に驚くこともなく、ゆっくりかっこつけながらそっちの方を見た。人が立っていた。全裸だった。びしょ濡れだった。僕は一目で池に浸かっていたアイツだと見抜いた。初めて目の当たりにした体は筋肉質で男らしかったが、股間には何もついていなかった。かといって穴が空いていることもなく、そこには痕跡さえもなく、ただ何もなかった。

 なるほど。アルコールに振り回されながら、僕はソイツのことを一瞬で新人類なのだと見抜いた。挨拶がてら僕は彼に微笑もうと、軽く目を薄め、重たい口角をあげた。すると新人類は怯えた様子で、扉も閉めずに池の方へ走りだしてしまった。いったいなんだっていうんだ。僕が電子ピアノから手を放してから、音楽は止まってしまっていた。ブラックラムも瓶を一本飲み干していた。興ざめした僕に残されていた選択肢は、あの新人類の後を追ってみることだけだった。


 池の近くまで来ると、夜の冷たさで一気にアルコールが覚めてしまった。夜でもスーツの男は釣りをしていた。心なしか呪文の声が大きくなっていて、離れていても新しい名前がここまで届いた。そして池の中からは、さっき逃げていった新人類が、追いかけてきた僕のことを見つめていた。夜の森でこれだけ周囲の見通しがいいのは、開けた空から伸びる月光を、池が反射し照らしているためだった。

 しばらく見つめ合うあいだ、新人類は徐々に水面をせり上がってきて、最後には池から身を乗り出し地上に上がっていた。そのあいだも僕とは目線を外さなかった。僕は新人類と視線がこすれ合っていることを、磁石のN極同士のように感じていた。不快でありながら妙な中毒性があった。全裸の新人類がこちらへゆっくりと歩いてくる。アルコールの抜けてしまった僕は臆病で、今にも逃げ出したかったが体が言うことをきかなかった。目は合い続ける。逸らしたら殺される予感がしていた。向こうは恐れることなく一歩、また一歩と近寄ってきていた。そもそも池まで距離の狭い道すがらで、僕は立ち尽くしていた。すでに新人類は約三歩のところまで来ていた。どうやら僕は遠近感のせいで勘違いしていたらしく、新人類の背は僕よりも遥かに大きい。新人類が一歩進むごとに、新人類の背丈が30センチ膨らんでみえた。恐れから僕はどうしようもなかった。男か女か区別のつかない中性的な顔立ちの裏に、明るい月が隠れて僕の視界は一瞬暗く、新人類の顔が月から外れたときにまた元の明るさに戻った。するともはやお互いに額の触れあいそうな距離まで迫っていた。ここまでになって逃げることも尻もちも着けない僕自身を僕は生物であるのか怪しんでいた。危機感が徹底的に麻痺しているか敏感すぎる。だが新人類はそのまま静かに、僕を無視して背後の方へ去って行った。そこで僕はやっと、安堵で足の力が抜け、地面に座り込んでしまった。ちょうど月の光が眩しく、滲むような光が点々と映った。池にはまだスーツの男が釣りをして呪文が聞こえていた。僕は落ち着きを取り戻してから小屋へ帰った。階段状の世界模型は相変わらず逆七色を放って、電子ピアノの側に空の酒瓶が置いてあった。あの池の新人類がどこへ行ったのか、僕にはよく分からないが、次の日から彼を池で見かけることはなくなった。

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