神様の出会い
プロローグ
愛知の中心地名古屋から車で2時間ほど走ると山中に小さな神社がある。奥三河神社という名前である。
人の往来が少ないこの地域で古くから信仰されてきた神様が祀られている神社である。大正時代頃までは科学の発展も少なかったため、信仰も厚く祭りも定期的に行われていたが、昭和に入り、科学も発展し人々が夢や希望を都会に見出して上京するようになると急速に信仰も弱まり、神社としての力も失われつつあった。平成を経て令和となった今では神社としての力はほとんどなく消えていくのをただ待つだけであった。
「科学が発展した世の中では目に見えるものだけしか信じられないのかもしれない。私が消えていくのもまた必然なのかもしれない」
神はそう覚悟して消える日を待ち続けた。ただただ待ち続けた。そうした代わり映えのない日々の中でその神はある一人の浮遊霊と出会った。この出会いが一柱の神と一人の浮遊霊、そしてある一人の人間の運命までも変えていくことになる。
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私はその浮遊霊を前にどうしたものかと頭を悩ませた。浮遊霊がいること自体はそれほど珍しいことではない。強い未練を持ったまま亡くなるとあの世への道が通じにくくなり、この世をさまようことになる。そのような場合はあの世の管理人ーいわゆる天使があの世まで案内することになる。しかし、目の前にいる浮遊霊には未練が見当たらないのだ。いや、正確には未練を忘れてしまったというほうが正しいだろう。未練を忘れてしまったのならこの世に執着する必要がないから早くあの世に連れていけばいいと思うことだろう。しかし、物事はそう単純ではないのだ。先程強い未練を持ったまま亡くなると浮遊霊になると言ったが、浮遊霊にならず成仏した人間も少なからず未練を持っている。成仏した人間は未練を教訓に次の人生へと、強い未練を持った浮遊霊は時間はかかるが未練との折り合いをつけながら成仏した人間と同じように次の人生を目指すことになる。
今の説明から判るように未練とは人間が次の人生へと進むためのエネルギーなのである。
なのに、目の前の浮遊霊はそのエネルギーである未練を持っていないのだ。私は、あの世での決定権を持っていないから断定はできないが、下手をするとこの浮遊霊の魂は2度と生まれ変わることができず、未練とも向き合うことができなくなり、自分が誰かもわからずあの世でさまよってしまうだろう。推測でしかないが、未練を忘れてしまった状態で浮遊霊になっているということはとてつもなく大きな未練を抱えて亡くなってしまったのかもしれない。そう考えると私はたまらなく悲しくなってしまった。目の前の浮遊霊は男子中学生の姿で佇んでいる。大人にならず亡くなってしまい、その身に抱えきれないほどの未練を発生させてしまった男の子。どうにか助ける方法はないだろうか。そう考えていると私はある危険な方法が頭に浮かんだ。上手くいけばこの子の未練を思い出させることができるかもしれない。この方法は私がいなくなることが必須になってくるが元々数年で消えてしまう運命だったのだ。最後に人助けができるのであれば悔いはない。しかし、問題はこの方法が他の神々に知られてしまったときである。下手をするとその場でこの子の魂を消滅させられるかもしれない。しかし、どのみち方法はないのだ。賭けにでるか
私は意を決してその子に話しかけた。
「この神社の神様にならないか?」