第二話:フランシス・エルゴール
「アーッハッハッハッハッハッハ!」
そんな、爽やかでありながらもけたたましい笑い声が、高らかに響き渡っていた。
その声の主は、透き通るような可憐を備えながらも、生物としての圧倒を感じさせる美しさを持つ少女だった。スラリと伸びた長身に、一流の職人が彫刻したかのような女神の顔立ちをした彼女が、大口を開けて笑っているのだ。
「さすがはお姉さま、みっ、三日で婚約破棄って! 三日ッ!」
城の中庭ほども広いその部屋にでんと構える、規格外に大型なベッドの上を転げ回りながら、きめ細かな一本一本が美しく輝く金色の髪を振り乱して、姿に似合わないけたたましい笑い声を上げる少女へ、リプカは沈んだ顔で、暗い声を向けた。
「フランシス、お行儀が悪いですよ」
「ぶふぉ、お姉さまに言われたくねぇえーーーッ!!」
「…………」
リプカは重いため息を吐き出した。
「なーんでバレたんでしょう……?」
「バ、バレなくてもいつかは破綻してたって、そんなこと繰り返してたら」
「だって、ハーレヴァン様って本当に腹の立つお人だったんだもの……」
「――ま、私はお姉さまが帰ってきてくれたからいいんだけどねー」
と、フランシスは転げ回るのをやめてにっこりと微笑み、ベッドの上で正座しているリプカに抱き付き、愛情の頬ずりをした。
その親愛表現の中でも、リプカの表情は、今日ばかりは優れない。
「……妹の元から独り立ちする、いい機会だと思ったのに」
「無理無理。お姉さまは一生私の傍を離れられないよ。私もそれでいいしー。心配しなくても、一生私が養ってあげるって」
「それが心配事なのよ……」とリプカは呟きを漏らした。
「えー、なんでー」
フランシスはむくれながらも、リプカに執拗な頬ずりを続けた。
フランシス。
フランシス・エルゴール。
リプカ・エルゴールの妹であり、貴族としての教養を十の歳で全て習得したとされる、天才の娘。
天賦の聡慧のみならず、その容姿さえも及ぶ者のない、まさに神に選ばれた人間である。
欠点といえば――決定的な玉の瑕はといえば、姉のリプカを『偏愛的にまで溺愛し過ぎていること』。
姉のためなら大体のことをしてしまう妹。一度目をかけたら、その愛情の深さには底が無い。
――最初からこうではなかった。最初はむしろ、出来損ないと呼ばれる姉を見下していた。
「あらお姉様、お姉さまはまだこんなこともできないの? 私が習ったその日にできてしまったこんな些細が?」
「お姉様、あなたはまだそんな段階で足踏みしてるんですね。信じられません」
「出来損ないと呼ばれるだけのことはありますわね」
しかし年々リプカを見つめるうち、存在を一笑に付すようなそんな態度は、少しずつ様変わりを見せ始める。
「お姉様、あなた……まだそんなことをやっているの? それは去年もやっていたことでなくて……?」
「お姉様、よく見なさい、これはこう覚えるの。――そうじゃなくて! ああ、もういい! 貴方に時間を使った私が馬鹿でしたッ」
「お、お姉様、それ……。ま、前に私が教えた……。…………うぅ……。――いいえ、なんでもないわ。出来損ないにしてはよくやったのでなくて?」
「お姉さま、もういい、私がやるわ! なんで裁縫ごときで、そんな手が穴だらけになるの! お姉さまはもう何もしないでッ!」
「どうしたというの!? 世話係、これは!? ……お姉さまが叱られた腹いせに、お前の靴の底に、臭いの強い木の実を敷き詰めていた? ――それくらいで私の姉を叩いたっていうの? お前……覚悟の準備はよろしくて?」
「お姉さま」
「お姉さまッ」
「お姉さま!」
いつしか、フランシスは一つの答えを悟ったという。
「嗚呼、そうか。――私が神より承ったこの過ぎた才覚は、駄目駄目だが愛おしい私のお姉さまを、何者からも守るために与えられたものだったのね……」
この世の全てと比すべき才女と呼ばれる少女が、この世でたった一人の味方に回った瞬間である。
稽古事で失敗したときも。
父と母にグズだ鈍間だ出来損ないだと罵られ、一人涙を流したあの日の夜も。
家の証である父の冠に脱毛剤を塗りたくったあの日の修羅場でも。
フランシスだけは、ずっと味方でいてくれた。
「……あなたには本当に感謝しています。ずっと、ずっと。ですが……」
ぼそぼそと呟かれた言葉をまるっと無視して、フランシスはリプカに一層べったりとくっつき、見る者全てを魅了する微笑みを浮かべた。
「お姉さまといると飽きないもの。もうずっとお家にいなさいな。ていうかあんなことをしてしまった手前、もうそれしかないでしょうし。ずっと私の隣にいてくださいなー」
「…………」
リプカはフランシスに抱き付かれながら、言い難い表情を浮かべ、天を仰いだ。
きちんと対等な立場で、妹の隣に立ちたかった。
この胸にずっとずっと抱いていた、それが、リプカの、最たる願いだった――。
しかし奮迅を胸にいざ発起すれば、三日の神速で婚約破棄。そりゃあ天も仰ごうというものだったが……、今リプカが苛んでいる葛藤は、そんな世紀の大失態も尻を引っ込める、もっと大きな問題であった。
というのも、それには非常に険呑な理由があって――。
「ああ、そうそう――」
フランシスは、ハーレヴァンに叩かれほんの僅かに腫れあがったリプカの頬にそっと手を添えながら、瞳から光彩を消した。
暗い瞳のまま、フランシスは微笑んだ。
「お姉さまを傷ものにしたハーレヴァンとかいう馬鹿者には、きちんと礼をしておかなきゃね……」
(……私がフランシスに頼り切れない理由は)
(この子なら、いつか私を理由に、世界を滅ぼしてしまいそうだから……)
私がちゃんとしていれば。
そう思うのだが、それはどんなに頑張っても今のところ、どうしようもなく、リプカはただただ、言い難い表情で天を仰ぐのだった。
その三日後。
何があったのかは、誰にも分からない。
ただ事実として、エイルムメイティル家という家名はその日から、世間の認知から一切合財消え失せてしまったのだった。
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