第一話:神速の婚約破棄
『何事にも理由はあるもの。
とりあえず、ファンファーレ。』
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古今東西、婚約破棄の成り行きに様々なものがあるとはいえ、まさか三日天下ならぬ三日夫婦なんてものがあろうとは。 縁を司る神々でさえ、これは予期しなかったことであろう。
(婚約破棄とは、通常、複雑な事情の末に起こる悲劇ではなかったの?)
エルゴール家の令嬢リプカは、その唐突な宣告に茫然としてしまった。
「な、なぜですか……!?」
心中では何故もなにもないと予感を抱きつつ、リプカは掠れた声を上げた。
リプカ・エルゴール。
背は低く、幼子のようで、髪は色気のない漆黒色。身体の起伏もほとんどない……。程々に整った顔の造りが、せめてもの生まれ持った慰めのような女――それが、鏡の前で自覚する姿見である、己に自信というものがない少女であった。
「どうして、こんなに突然に……」
小さな叫びに、リプカが嫁いだ夫、ハーレヴァンは冷たい目を向けた。
ハーレヴァン・エイルムメイティル。
彼はリプカが嫁いできたその日から、新しい妻に冷たい態度を示していた。
「お前の妹、フランシスが来てくれれば文句はなかったのだがな」
嫁ぎ先で初めて交わされた言葉がそれであった。
その後も、才女で美しいリプカの妹、フランシスと比べるようなことをハーレヴァンは事あるごとに口漏らした。――むしろ、リプカに対して、そのことでしか口を開かなかったというのが正しいか。
あの美しいフランシスが我が元に来てくれればどれだけよかったか。リプカが何かに失敗するたびに、フランシスならば、フランシスであればそんなことは、と滔々と口にする。
二人の関係は、最初から冷え切っていた。
リプカはハーレヴァンに、人間とすら見られていなかった。であるから、婚約破棄の宣告は当然といえば当然の成り行きではあったのだが――。
しかし、三日という早さでそれを宣告されるとは。
どう考えても、それは不自然であった。
「なぜです、ハーレヴァン様! 至らぬ事の多い私ですが、これはあんまりでございます……!」
三日で嫁ぎ先を追い出された女という噂が広まれば、どうなるか――。
ハーレヴァンのそれは、虐げるという言葉でも足りない、リプカを追害するようなものとしか思えなかった。
――すると。
ハーレヴァンは途端に……額のみならず表情のあちこちに青筋を浮き立たせた、気でも違えたのではないかと疑う《鬼の形相》に変貌し、恐ろしく飛び出した血走り目でリプカを睨み据えた。
「リプカ。私は女中から、ある密告を聞いたのだ」
「み、密告? それはなんでございましょう……?」
「リプカ……リプカお前……」
ハーレヴァンは怒りに震えながら、言った。
「お前……下女が清掃のため床を拭いた布から絞り取った汚水を……私が口にする紅茶に混ぜて……素知らぬ顔で私と同じテーブルについてそれを見つめていたらしいな……」
「――――なッ!」
その荒唐無稽な告発に、言葉を失うリプカ。
ハーレヴァンの馬鹿舌は有名な話であった。
肉を食っても、それが何肉であるのかも当てられない。どころか彼の舌にかかれば、紅茶の種類すら一緒くたであるようだ――という、もの笑いのタネに陰口する類いの噂は確かにあった。密告を受けたというその内容は、まるでそれを皮肉るようなものである。
そんな噂が真実として広まれば、リプカの社交地位は底辺に落ちる。
しかし……。
嫁が夫の紅茶に汚水を混ぜたなど、いったい誰が信じるだろうか? もしそんな理由で婚約をふいにした、などという話が広まれば、むしろ信用が失墜するのはハーレヴァンのほうであったはずだ。
であったのだから。
否定さえすれば、その場は収まりがついたかもしれなかったのだが――。
「え」
もののはずみというやつだろう。
驚きのあまりの動揺を突いて出た声が、その突飛を現実に映す最悪の返答が、茫然と開かれたリプカの口から滑り出てきた。
「なんでバレたの……?」
――それを聞いたハーレヴァンの表情たるや、仁王も身を引くが如しである。
大広間にいた全員が身を凍らせる中、リプカは自分の失態を認めると、すんと真顔になり、続いて苦渋の表情で「ぐぐ、ぐ……」と詰まった声を漏らしながら、これから起こる様々を考え――。
やがて、全てを諦めた表情を浮かべると。
リプカは最後に、どうしても気になったことをハーレヴァンへ尋ねた。
「ハーレヴァン様、あのあと、お腹はちゃんと下されましたか……?」
――ハーレヴァンの平手が一閃し、それを頬に受けたリプカはオペラのワンシーンみたいに、後方の壁まで勢い良く吹っ飛んでいった。
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