番外2 悪人の話
第三者視点のイルたちの日常話のようななにかです(高校時点)
家の一番奥には、広い離れ部屋がある。
玄関を先頭に、ダイニングキッチンつきのリビングと寝室へ上がる階段が手前側、中間にトイレ・浴室・ランドリーがあり、離れ部屋へと続く。不動産屋いわく、以前に住んでいたご家族が、同居することになった祖母のために部屋を増設したそうだ。離れ部屋の手前に個室トイレと小さなキッチンがついているのはその名残だろう。同居になった後も、互いの自由が保てるようにテリトリーを分けたのだ。
現在、我が家の離れで暮らしているのは夫の甥であるカナメくんだ。
「お帰りなさい、カナメくん」
「……ただいま、アカネさん」
無愛想に頭を下げる、制服姿の男子高校生。
カナメくんは、4歳の時、夫に連れられ我が家へやってきた。
母親は現在、カナメくんを認識できない精神状態らしい。
カナメくんの母親は、あの子はどこにいるの、何してるの、と我が子を気にかけるが、いざ目の前にすると「生まれなければよかったのに」「おまえなんかいらない」と彼の存在を否定する。なのに、彼がいなくなると、自分のやったことに怯え、受け入れられずに取り乱す。結果、母親は息子を育児放棄した。
父親が主となってカナメくんを育てたが、母親が息子の存在を思い出す度、ヒヤリとする事件が続いたそうだ。そしてついに、3歳の誕生日、母親に有害物質を食べさせられたカナメくんは救急搬送されてしまう。これが決定打となり、彼は母親と離れて暮らすことになった。医者の通告で関係機関が動いたらしい。長い話し合いの末、叔父夫婦が保護することに決まった。つまり、私たちのことである。
私にカナメくんの話をする夫も辛そうだった。どうしてそんなひどいことをするのだろう。想像するだけで胸が痛くなる。
カナメくんはかわいい甥っ子だ。やたら背が高いところや、真顔だと目つきが鋭いところなど夫にそっくりだ。周囲にも彼の父母と間違われることが多い。本当の母親にはなれないが、家族と同じ親しみを感じてほしいので否定しないようにしている。
とはいえ、本人はどう思っているのだろう。一緒に暮らして10年以上たつのに、私には一線引いた態度を崩さない。夫とはくだけて話しているから、母親と同じ年頃の女性に心を許せないのだろうか。悲しいことだが、彼の保護者として受け止めたい。それはきっと、彼の母親がしてあげられないことだから。
さて。
複雑な背景をもったカナメくんだが、ちゃっかり彼女がいる。
「こんにちは、アカネさん。お邪魔します」
「いらっしゃい、ヒイロちゃん。おやつがあるから手を洗ってきてね」
「いつもありがとうございます」
カナメくんの彼女が折り目正しく挨拶する。小さいころから育ちの良さがわかる美しい所作だった。ヒイロちゃんは液晶画面にしか登場しないレベルの美少女なので、さらに見栄えがする。
そして、当然のようにカナメくんの腕をつかんだまま手洗い場の方へ消える。幼馴染の二人だが、主導権はヒイロちゃんにあるようだ。カナメくんの渋面がなんともいえない。私はお似合いだと思うのだけれど。
オーブンからこんがり焼きあがったクッキーを取り出し、お皿に盛りつける。部屋はすでにいい匂いが充満している。温めておいたティーポットからお湯を捨てる。今日は、コーヒーよりも紅茶の気分なのだ。
茶葉を蒸らしていると、戻ってきた二人がダイニングテーブルの席に着く音がした。
「……で? お前、今日は何しに来たんだ」
カナメくんに会いに来たに決まってるじゃない! と、いいたいがこらえる。
ヒイロちゃんはなんて答えるのだろう。じれったい。砂時計よ早く落ちて。
「遊びにきたほうがいいと思ったから?」
「疑問形になるくらいなら来んな! ハウス!」
「こらこら、喧嘩しないの。ほら、仲良く食べてちょうだいね」
カナメくんはツンデレというやつなので、適度に橋渡しがいる。
とりあえず、甘いものとかね。
「いただきます…もぐもぐ…このクッキーおいしいですね。香りが違います」
「私の手作りなの、たくさん食べてね」
「アカネさん、こいつにホイホイ食い物を与えないでください…」
「ふふ。カナメくんも遠慮しなくていいのよ?」
「……やめときます。俺、甘いもん苦手なんで」
カナメくんは軽く咳払いすると、目の前のクッキーを避けるようにゆっくり紅茶を飲んだ。
「そういうと思って甘さ控えめに作ったのよ、だから」
――カナメくんも一枚だけ食べてみない?
そう口にする直前、たまたまヒイロちゃんと目があった。ヒイロちゃんは私をまっすぐ見て、酷く美しく、微笑んだ。
「私は大好きですよ、このクッキー」
「ヒイロちゃん、全部食べていいわよ~」
操られるようにクッキーの皿をヒイロちゃんの前に動かしていた。体が勝手に動いたとしかいいようがない。クッキーだっておいしく食べられたいだろうし、いいか。
「いただきます」
「遠慮することも覚えろよ…」
心底忌々しげな顔をするカナメくん。照れ屋さんなんだから。
カナメくんのとげとげしい態度を見るたびに思う。子どもの思春期って甘酸っぱいなあって。
「違いますから」
「何もいってないわよ、カナメくん。それはそうとね、私と夫も高校生の時につきあいだしたのよ」
「ヘーソーデスカ。ちなみに俺とこいつはつきあってませんから」
「そう。まだ皆にはつきあってないことにしてるのね? 大丈夫わかったわ。高校生なりに色々あるのよね。若いって楽しいわね」
「……くそっ、今日も話が通じねえ……」
カナメくんたら恥ずかしがっちゃって。
「若い時は山あり谷ありよね。私と夫だって一度は別れたのよ、信じられないでしょう? 今じゃ離れて暮らすなんて考えられないくらいなのに。だから、カナメくんのツン期も今だけよヒイロちゃん!」
「はい、わかりました。彼のクッキーもいただきます」
「何もわかってないのにうなずくな。つーか、いくらなんでも食いすぎだろ!」
「私はいくら食べても大丈夫」
家人の分まで食べるなんて客としては眉を顰められる行為だ。――でもわたしには、それが彼女の愛情なのだとわかった。
私がほほ笑ましく二人を見守っているせいで、カナメくん一人が物言いたげである。
「あとで腹こわしても知らねぇからな…」
「うん。好きにする」
優雅に紅茶を飲んで、勝者は微笑む。
うんうん。カナメくんが悪態ついても一切動じないのが、ヒイロちゃんの強いところよね。我が甥っ子はこの先もヒイロちゃんの尻に敷かれるもよう。
アオハルだわあ、とにやにやしていたら、玄関でガチャリと鍵が回った。
規則正しい足音とともに、耳なれた声が足早に近づいてくる。
「ただいまアカネー! 君に会えなくて死にそうだったよー!」
「おかえりなさい、あなた」
「おかえりおっさん」
「おじさんお帰りなさい」
「い、らっしゃーい! ヒイロちゃん! ただいま、カナメ!!!」
「おいやめろおっさん。腕を広げて待つな。俺のリアクションを期待するな」
「お邪魔しています」
「全然邪魔じゃないとも。むしろ住んでもいいんだよ? おじさんはヒイロちゃんがカナメに嫁いで来るのを楽しみにしてるんだからさ~」
ヒイロちゃんは口に入ったクッキーを飲み込むのに手いっぱいで反応がないが、隣でカナメくんが夫を睨んでいる。あらこわい。
「おっさん、その妄想マジありえねーから」
「カナメ。ヒイロちゃん以外のお嫁さんを連れてくることはないって、俺は信じてるぞ」
「おっさん人の話を聞け」
「照れるな照れるな~、このこのっ!」
夫がカナメくんに絡むと、彼はとても嫌そうに振り払った。年頃の男の子って難しいわよね。
「もうどうでもいい。んなことより、おっさん、あんた誰かから何かもらっただろ?」
もらった?
なにを?
――――だれに?
「い……いや、もらったんじゃないよ? 押しつけられたんだよ?」
断りきれなくてね、と言い訳がましく、夫が白い手提げ袋を机にのせる。
「あなた、なあにこれ?」
「モライモノデス」
どうして夫はそんなに目を泳がせているのだろう。
ふふふ、変なの。
笑いながら紙袋からベージュにピンクのリボンがかかった手触りのいい包を取り出す。
へえ。ふうん。そうなんだ。
「どなたから?」
「今仕事で同じチームで組んでる後輩」
「おんな?」
「アッハイ」
既婚者にこんな素敵なセーターを送ってくれるなんて、頭に花でも咲いてるのだろう。――引き千切ってやろうかしら。
「すこーしお話しましょ? あなた?」
「ハイ」
なんでちょっと嬉しそうなの。怒ってるんだけど。
「じゃ、俺たち出かけるんで」
空気を読んで立ち上がった少年少女がこちらをうかがっている。
夫に向けられた露骨に呆れた目でちょっとだけ頭が冷えた。いたたまれない。
「おっさん、これ俺が処分しておくから」
「えっ、さすがにカナメくんにそんなこと」
「悪いなカナメ、任せる」
「行くぞ」
「失礼します。クッキーごちそうさまでした」
夫をとがめるより早く、カナメくんは忌々しい包みと、ヒイロちゃんの腕をつかんで部屋を出ていく。
ほほう。なるほど。
「一緒にいる口実作りね。カナメくん素直じゃないもの、後方支援は必要だわ」
「だろ?」
「それはそれ。そこに座ってスマホを机に。後輩さんとした会話、遡って検証しましょう、ね?」
「……ハイ」
小一時間ほど突き詰めた結果、おんな、いや、夫の後輩さんは白だとわかった。
その方も、上司から押しつけられたのだが恋人とは趣味が合わず、持て余していた物を、夫が引き受けてしまったらしい。
「もう。困った人ね」
「誤解させたのは謝る。悪かった」
私のいれた紅茶を、夫は嬉しそうに飲んでいたが、ふと、キッチンのほうをじっと見つめる。
「いいにおいだな。なにを作ったんだ?」
夫の関心がうれしくて、取り分けておいた彼のクッキーを持って、隣に座った。
「ふふん、ぱっと見はわからないでしょうけど、甘さ控えめ、すり胡麻たっぷりのセサミクッキーよ。中々うまくいったでしょ?」
すり胡麻を使ったことで味と香りが豊かになる。我ながら会心の出来だ。
「……カナメは食べたか?」
「いいえ。甘いものはやっぱり苦手みたい。結局、ヒイロちゃんが食べてくれたわ」
「 はゴマアレルギーだから」
「え?」
なんだろう。聞こえなかった。
夫はクッキーをひとつ口の中に放り込む。
「うん、胡麻の香りがしてうまいよ。…すまん、知らなかったんだよな、カナメのやつ、ゴマアレルギーなんだ。学校あがってからは、チビのころよりずっと数値が下がってるんだが、万が一ってこともあるから口に入れるのはあいつも避けてる」
「ウソでしょ? どうしよう、知らなくて…! においとかは平気? 粉末を吸ってしまったかも!」
とんでもない失敗だ。
彼に嫌われてしまう!
青ざめた私の頭を、夫の手が優しくたたいた。
「いっただろ、幼い時よりずっと下がってるって。そのくらいならアナフィラキシーも起きないさ」
「うん、でもごめんなさい」
カナメくんはゴマアレルギーだったなんて。アレルギーは重篤になると死亡事故につながるから危なかった。――もうすこしで――のに。なぜかしら、前にもそんな話をどこかで聞いたような。ああ、ニュースでアレルギー事故をみたせいね。
ともかく、カナメくんが口にしなくてよかった。
「悪いことしちゃったわ…あなた? どうしたの?」
夫に強く、抱きしめられた。
唐突だ。顔を見ようとしたけれどかなわない。
「すまない。悪いのは全部、俺だから」
「ええと、そうなの?」
「うん。何もかも俺が悪いんだ。ごめんな、ごめん――ごめんなさい」
私の夫は、時々、すごくかなしそうに笑う。
そしていつも謝るのだ。
ごめんなさい、ごめんなさい、と謝り続ける。許してくれとはいわないので、彼は自分が許されないほど悪人だと思っているのだろう。なんてかわいそうで――、
「 ざ ま ァ み ろ 」
「…………」
「あら? 今、わたし、なにかいった?」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」
壊れたオモチャみたいになってしまった夫を、微笑んで見守る。しばらくたてばいつもの夫に戻るので、気がすむまでさせてあげよう。
本当におかしなひと。
あなたさえいれば――他にダレもいらないくらい、わたしはしあわせなのに。
〈余録 名前を呼びたい怪物の話〉
イギリス人作家の怪奇小説に「猿の手」という有名な短編がある。
魔法のランプのように三つの願い事をかなえる話は世界中にあるそうだが、怪奇小説に落とし込んだ話の完成度が高い。
話はこうだ。ある老夫婦と息子の三人家族のもとに、猿の手という魔法の道具が舞い込んだ。願いを三つかなえてくれるという。
しかし。
ただ幸せなれると約束されないのが願い事のお決まりである。
俺とヒイロは近所の寺に来ていた。
でもって、裏庭の焼却炉で焚き火の真っ最中である。燃えてるのはおっさんの厭な手土産だ。
そう。寺にきたのは、お経を読んでくれとかお祓いしてくれという要件ではない。自宅で野焼きすると近所の連中に通報されるからである。二酸化炭素排出量が問題になった頃から、個人宅の焚き火等禁止が自治体の決まりであり、ヒイロ大明神の目の届くところ、マッチ一本持つことを許されない。しかし、どんなルールにも例外がある。骨箱、位牌、卒塔婆、祭事の神具の処分、宗教的祭事や焚きあげ――怪しいものを合法的に燃やすには寺社仏閣なのだ。
ここを選んだのは、住職が町内子ども会の世話役をしていた流れで、俺とヒイロをガキの頃から知っている分、場所を借りやすいという理屈だ。何より、ヒイロはこの手の大人から信頼が厚い。根拠もないのに、ホッキョクグマが歩いて渡れるくらい厚い信頼を得る女である。小さい焼却炉に案内した坊さんは、なみなみと水がはいったバケツを置くと「目を離すな、火遊びすんな、終わったら呼べ」と言い残して寺に戻った。そんな手抜きでいいのか坊主。
かくして、服のカタチをした正体の知れない何かはメラメラ景気よく燃えている。
おっさんが家に入った瞬間わかった。厭なものを持ってきやがったと。しかも、吐き気がするほど生理的に合わないやつだ。ヒイロは澄ました顔でクッキーを食いまくっていたが、神経が太すぎる。ドン引きだ。
あれ、ホントになんだったんだろうか。
ヒイロなら、押しつけ合いが起こった素敵なプレゼントの因果を知っていても不思議ではないが――俺には関係のない話だ。
代わりに思い出したのが猿の手だ。俺の記憶に残っているのが、暖炉の火を見ているシーンだからだろう。
「都合のいい奇跡を願うとクソみたいなギフトしか降ってこねえのはなんでだろうな」
しかし、そこが逆にリアリティを感じさせる。つまり現実がクソってことだな、納得だ。
「イル」
「あ?」
「イル」
「おい」
「イル」
「うぜェ。黙れ」
呼んでみただけとかバカップルでも許されない所業だろ。ざけんなくそヒイロ。
でもって見透かした顔で笑うな腹立つ。
「お前、今から笑うの禁止な」
「意味が解らない上に横暴だ。イルは我儘だ」
「どっちもお前にだけはいわれたくねー!」
「私は我儘じゃない。正直なだけ」
「………は?」
正直、だと?
時々、正論の暴力みたいな女なのは認める。嘘つきではないイコール正直か? 絶対違うだろ。
「おい、何ニヤニヤし…」
「笑ってない」
そういうヒイロはぎゅっとしかめっ面になった。笑うのこらえてやがる。残念なことに長いつきあいなんでバレバレだからな。
いやしかし、ずっとそのツラしてりゃこの女を女神のように崇める連中も正気に戻るんじゃないか? 土台が美形なのでしかめたツラがかなり恐い。ただし、オマワリみたいにこいつをさけて通る連中は家から出てこなくなるかもしれない。俺の後輩とかの話だが。
「はあ、めんどくせ。正直か嘘つきかどっちかにしろよな」
「どちらであっても私に変わりないはずだ」
「なら、どっちでもいいから俺が楽な方でいろ」
「わかった。正直ものから懺悔をする。
あのね、イル。
悪い願いのおかげで、誰かが不幸になっても、私だけは瑕疵なく幸せだ――――ずっと幸せだ」
相変わらず意味不明な女だ。
おまけに、火を見つめる横顔は絵画的で、俺が知る『幸せ』からはほど遠い。
隣にいるのは、正直か? 嘘つきか? 知るか、どうでもいい。
「おい、辛気くせぇ。笑うんなら楽しそうに笑え」
「……ふふ。やっぱり、イルはわがままだ」
閲覧ありがとうございました
補足 イルの名前はカナメではありません