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駅の改札を抜け、ホームに出る。
天気予報は午後からの降水確率を訴えていたが、ヒイロが出かけたい時は有無をいわさず晴れる。案の定、ますます殺人的な熱気と蝉時雨の洗礼をくぐり、ヒイロの足音に追われながら連絡通路の階段を上がった。観光地のポスターを白く焼いた一列の窓に、抜けるような青空と漂白剤でもかけたような雲。蝉の声がやや遠くなる。
ヒイロはしゃべらない。怒っているわけではないが、不機嫌そうな気がする。面倒なのでごきげんとりはしない。もともとわめき散らすタイプじゃないか。
「夜まで待てば?」
「待てない」
これほど明るい中で怪談を実体験とは、昼間のイルミネーションを眺めるぐらい興醒めな話だ。色あせた観光地のほうが幾分楽しげである。
「観光旅行とか興味ねえのお前」
「――イル、キサラギ駅って知ってる?」
「しらねー。何が有名な場所だ? 肉料理? 魚料理? 甘いもんなら俺はパス」
ヒイロは俺の顔をじっと見つめた後、気の抜けた顔で微笑んだ。
「私も知らない。でも、イルとだったら楽しそう」
「そもそもどこにあるんだ? 東京? 北海道? 沖縄?」
「さあ。どこだろう」
そんなどこにあるかも教えられん観光地を薦めるなといいたい。
ただし、俺を追い越していくヒイロの足取りは踊るように軽かった。気分屋め。
「階段踏み外すなよ、助けねーからな」
「私は落ちないよ」
「へーへー、知ってますー」
下りは自然早足になった。連弾さながらに階段を打ち鳴らす、夏靴のうっすぺらな靴音が二人分、いや、雷鳴もだ。遠いが間違いない。
くだるほど窓から差し込む日がかげり、雲が暗い。たちまち雨音の独擅場になった。ヒイロが気象予報に負けるとは思わなかった。槍でも降ってくるんじゃね?
階段から出る。
目的の喫煙所まで二十数メートルほどか。湿りだしたアスファルトや土草のにおい。雨の気配をたたえたホームは、熱気も相まってよどんだ沼のようにドロリとしていた。そして――ホームの端で、誘蛾灯のように輝く店の蛍光灯。
「あるね」
ヒイロは嬉しくも楽しくもなさそうに、ただ、美しく笑った。
「イルもくる?」
「行くと思うか?」
俺が欲しいものなどない。
( どうして は、)
俺に欲しいものなどない。
( いらない、 なんかいらない )
苛立ちを込めて睨み返す。
ヒイロは見透かすように笑みを深め、一人歩きだした。俺の答えなどわかっているくせに聞いたのだ。こういうところが気にくわない。
今降りてきた階段に腰をおろした。白々としたコンクリートが冷やりとする。やがて聞こえてくるだろう扉の開閉音を締め出すため、目を閉じる。
空は変わらず暗く、喫煙所は明るいのだろう。
俺には関係のない話だ。
「イル、起きて」
「?!」
起き抜けに悪寒が背筋をかけた。
なんだ今の。
ふりはらうように首を振った。
とにかく、ヒイロの気が済んだのは間違いない。怪談の中から戻ってきたとは思えない様子だった。何をどう楽しんだのか、やりきった感が目の輝きやほころんだ口元からあふれている。悪趣味な奴め。
ぼんやりホームを視界に入れて、目をこすり、それでも理解できずに大げさに瞬く。……なんだあれ。
「ヒイロっ!」
「どうかした、イル」
「どうかしてんのはお前だろ! なにやらかした?!」
店の入り口を押し広げるようにあふれだした黒い塊が、ずるうり、こちらへ伸びてきてる。
目を凝らしてゾッとする。ムカデのように長い何十本の腕だ。宙を泳ぐように声も音もなく、しかし、確かな憎悪をまき散らして俺たちを目指している。
ヒイロはのんきに振り返った。
「意外と速いね」
「っ! 感想いってる場合か! 逃げるぞ!」
階段を駆け上ろうとした俺を、ヒイロが押さえつけた。
いや、正確には体格差があるので無理だ。ヒイロは、ただ、俺の服の裾をつかんだ。そして、たまたま、靴底が滑って俺のバランスが崩れ、たまたま、ヒイロを巻き込みながら段の上に倒れただけだ。
ふざけんなよ、こいつ…!
「おっまえなぁ!」
「動いちゃ駄目」
恋人が口づける距離から、湿度にまざって女のにおいがする。
とけるんじゃないかと思うほどやわらかい体を俺に押しつけたまま、羞恥の欠片もない目がたしなめる。バカなのかヒイロ? いつか食ってやろうと思ってるけど今じゃねえよ!
「もうそこまでバケモノが来てんだぞ!」
「そうだね。イル、抱きしめて」
「……っ!!」
うすうす気が付いていたが、目を背けてきたことがある――俺はいつか、こいつに殺される。
目前で甘く香る首筋を睨んだ。
俺の手が一周しそうな、白い肌を。
その瞬間、雷が落ちた。
心構えもなく目を閉じ、本能的に目の前にあったものをつかんで腕に囲った。
残念なことに、ヒイロは腕の中にすっぽりおさまるサイズだった。
くそっ、なんで未来の殺人者を俺が守らないといけないんだ?
雷光、地響き、重なるような轟音。静かになったので目を開けると、一秒数える暇もない距離で―――黒い異形は灰色のアスファルトに焼きつく煤になっていた。見上げたホームの天窓が、一つだけ開いている。そこからピンポイントで雷が落ちたって? 冗談でも笑えない。
慄然とする。差し迫った距離にいた俺たちが無事なのは、たまたまだ。幸運とか奇跡とかではなく、本当に偶然なのだ。
「店もだね」
「は…?」
淡々とした声の示す先、怪談の店が雨の中で燃えていた。
むしろ、落雷はそこが本命だったのではないか。そして、つながっていた異形の腕も焼いた。怪談も自然の理相手には燃え尽きるしかないらしい。
俺はヒイロを抱きかかえたまま、フィクションじみた光景を見ていた。
胃がムカムカする。
「……満足か、これで」
答えはない。
うつくしい怪物は、俺の腕の中で微笑むだけだ。
ゲリラ豪雨の常か、雨雲がなりを潜めると、雨に打たれたアスファルトの影もたちまち夏の空気に吸い込まれて消えた。ヒイロとふたり、何事もなかったように駅を後にする。実際、何事もなかったのだ。確かに雨は降ったらしいが、落雷など誰も知らなかったので。
店はない。
夏の怪談は陽炎のように消えてしまった。
〈余禄 怪物の愛〉
答え合わせが必要ですか?
そうですね。
よい話を聞かせていただいたお返しを、少し。
あるところに、生まれつき目の見えない子どもを授かった両親がいました。
我が子を哀れに思いながらも、両親は愛情を持ってその子どもを育てました。
ところが、目の見えないはずの子どもが3歳になると「なんでも見える」といいだしたのです。
それは空恐ろしいほどに、世の流れ全てがなんでも「見えている」と。
両親はその子どもを遠ざけるようになりました。畏怖を抱いたのです。
子どもは4歳を迎える前に、祖父母のところへ預けられました。
新天地では、目が見えないことを誰も知りません。
子どもは普通の「見える」子どもになったのです。
この話では不足ですか?
ではもうひとつ。
――あるところに、とてもとても恋人を深く愛した男性がいました。
彼とその恋人は仲睦まじく、互いを愛していました。けれど、人の心はうつりゆくもの。
恋人の気持ちが去ったことに気がついた男性は悲しむあまり、目の前に現れた悪辣な奇跡にすがったのです。ええ、あの店のことです。
彼に心を奪われた恋人は、深く深くより深く、この世で彼一人のみを愛しました。
親も兄弟も友人ももうどうでもよくなりました。いとしいひとは、彼一人。生まれた子どもさえ目に入りません。
それどころか、腹の中にいる子どもを、彼の愛を分配せねばならない相手とみなし、彼女は「要らないお前なんか要らない」と繰り返しながら子どもを産んだのです。
男性は、我が子から母親の愛まで奪ったことを初めて後悔し、子どもの名を存在証明に変えました。その名前は――、もういいのですか?
私が動いた理由、おわかりになったのでは。
怪異的特異条件によって存在が確立している人間なんて、本来生存ているはずがないんです。その実在性が希薄すぎる故に、あらゆる観測から彼はとらえにくく、「見える」ものがない……私にとって「未来が変化する」ことはありえないのに。
結末まで見えていた物語を変えてくれる人が現れたら、手放せるはずないでしょう?
わずかな可能性とはいえ、「返品」されては困るんです。彼の存在を揺るがすモノは消しておかなくては。
答え合わせはもう十分ですね。
彼のことが好き?
?
恋人になりたいと思ったことはありません。答えになりますか。
そんなにがっかりするほどの話ですか?
いえ、でも。
世界に彼がいなくなったら、きっと私は死んでしまいます―――それって、とても幸せなことだと思いませんか。
イルには内緒ですよ。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
評価・ブクマ等、嬉しかったです。