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乾いた夏が過ぎた。あっという間のことだった。夏が終われば訪れるもの、それは秋……ではなくて、秋が本格的に始まる前に位置する、殿下のお誕生日である。
「お誕生日おめでとうございます、殿下!」
「ありがとう」
殿下が照れたように微笑んだ。私はそれに応えるように頬を緩めた。
「足は痛みませんか?」
「うん、今日は結構良い調子かな」
いつの間にか、殿下の声のかすれはなくなっていた。結構前からずっとだったけれど、このところ引っかかる感じもなくて楽になったそうだ。最近は成長痛もキツいとのことだったけれど、今日は調子が良くて何よりだ。
天気も良いし、気温もほどよい。落葉はまだ始まったばかりだから、お庭も殺風景ではないし、あとちなみに今朝は私の目覚めが良かった。
「……うーん、良いお誕生日ですね!」
「一応言っておくけど僕の誕生日だからね」
どういうわけか、私の方がよほど浮かれている。殿下が何故か落ち着き払っているせいである。
「なんで殿下はそんなに平然としているんですか? お誕生日ですよ、めでたい日ですよ」
「まあ……めでたいけど、この日を迎えたからといって劇的に変わる訳でもないし……。結局、あらゆる物事っていつしか移ろいゆくものじゃない?」
何だか冷めた様子の殿下に、私は拳を握って力説した。
「だからこそ、自分たちで記念日を決めてパーッとお祝いするんじゃないですか!」
殿下は気圧されたように一瞬黙り、それから「一理あるね」と顎に指先を当てた。
「私は殿下が十五年前のこの日に生まれて来たことがとても嬉しいですし、素晴らしいことだと思います。だからこう……もっと祝いましょうよ!」
「んん、いや、僕は祝われる側だからね」
「はっ……そうですね、じゃあもっと祝わなきゃ……」
私がそこまで言ったところで、扉が叩かれる。隊長である。
簡単に挨拶をすると、「今年はお菓子の横流しをしていませんね」と私を上から下まで眺めて隊長は呟いた。殿下は肘掛けに頬杖をついて「隊長にバレそうなところではしないさ」と頬を吊り上げた。なるほど、あとで横流しするおつもりらしい。……拒否した方が良いのかな……。
いや、でも、殿下に頂いたものを突き返すなんて、そんなの失礼だ。そ、それに、正直言って、私が誘惑に勝てるとは思えない。
迷う私を見据えて、隊長は厳格な口調で告げる。
「アルカ・ティリ。この間夜中にお菓子を食べ過ぎてニキビだらけになったのは誰だ」
「……私です…………」
「なら、取るべき行動は分かっているな」
「…………はい」
私はあからさまに目を逸らしながら頷いた。
隊長はため息をつくと、殿下に向き直る。重々しく口火を切るので、私は思わず気配を消してしまう。
「それと、殿下。今年の食事会には大神殿からの出席者も招待されております。会場の外で何らかの活動が行われる可能性がありますし、人の目も多くあります。ですから」
「態度には気をつけろって? 流石に言われなくても分かるよ」
「百も承知だろうとは思っておりますが、念のためです」
私は息を殺して、その会話を聞いていた。文字で読んだことはある。……王家と、神殿の関係について。
王家と神殿はそれぞれ国内で強い権力を持っていて、原則としては対等。ただ、ここ最近は王家に対する神殿の発言力が強まっているのだ、と、話には聞いていた。それを『神殿との癒着』として批難する勢力があるのは、数年前の杜撰な殿下暗殺未遂の件で知っている。
「それぞれの招待客が、僕と神殿関係者のどちらに先に挨拶をするか、密かに記録しておくように言っておけ」
「承知しました」
隊長が固い表情で頷く。何だか今日の食事会は剣呑なものになりそうだ。気を引き締めて行こう。
「向こうは誰が来ると返事があった?」
「末席の司教が一人と、司祭が三人です」
「なるほど、舐めてるな」
殿下は鼻を鳴らした。隊長は何も言わず、表情を変えずに立ったままだった。
隊長が退室してから、殿下は後頭部をくしゃりとかき混ぜて、苦々しげな顔をする。
「礼は欠かず、それでいて媚びるような様子を見せずに、か……」
殿下は長いため息をつくと、勢いをつけて立ち上がった。難しい顔をして唇を噛んでいる私を見ると、少し苦笑する。
「……アルカは気にしなくて良いよ」
「気にしますよぉ……」
そんな、こんな会話を目の前で聞かされて、無邪気にはいられない。私は唇を引き結んだ。
「私、殿下をお守りしたいのは当然ですけど、殿下の足を引っ張りたくもないし、ご迷惑もおかけしたくないんです。だから、気にしないでなんて言われても、気にします」
「僕はアルカに対して『足を引っ張るな』なんて言ったことがあったかな」
殿下は首を捻って私を見る。私が否定すると、殿下は「まあいいか」と呟いた。
「アルカは僕から離れないように。あとはできるだけ迂闊なことをしないように気をつけてね。変なものに触っちゃ駄目だよ」
「肝に銘じます……」
殿下から求められているレベルが低すぎて、思わずがっくり来てしまった。殿下は声を上げて笑うと、机に積まれている山から、綺麗な箱を一つ手に取って私に差し出す。
「隊長には秘密ね」
「で、でも……」
私にはなかなか手が出ないような、有名ブランドの新作お菓子セットである。殿下のお誕生日の季節の関係もあって、秋の新作が毎年届くのだ。
「ヒィ……駄目です!」
意思の力を総動員して拒否する。見たら揺らぐので、必死に目を閉じた。とん、と軽い足音で、殿下がこちらに一歩踏み出したのが分かった。
「……アルカは、もう、お菓子じゃ釣れないの?」
「そ、そうです! 私はもうお菓子に釣られてホイホイと殿下に甘やかされたりなんて……!」
足音が止まる。薄らと目を開けると、少し背を丸めて、殿下が私の顔を覗き込んでいるところだった。
「いらない? 本当に?」
「うぐぐぐぐ」
私は殿下から逃げるようにのけぞる。気がついたら私の身長を拳一つばかり越していた殿下が、「食べても良いんだよ」と囁いて目の前にお菓子の箱をちらつかせた。
「もちろん、食べる時間には気をつけなきゃだけどね」
分かりやすく誘惑を込めて、殿下はふっと微笑んだ。
「んー……やっぱりおいしいですねぇ」
哀れ、あっさりと敗北した私は、のんびりクッキーをかじりながら頬を緩ませる。香ばしいバターの香りが素敵な、おいしいクッキーだった。
「アルカは本当に嬉しそうにお菓子を食べるね」
殿下は何故だか妙に楽しげな表情で、にこにこと私を眺めた。何とはなしに気まずくなって顔を引き締める。殿下は残念そうに「あぁ」と呟いた。
「何でそこまでお菓子が好きなの?」
殿下は不思議そうに首を傾げた。私は虚を突かれて、一瞬黙り込む。よくよく考えてから、私は言葉を選びつつ口を開いた。
「えと……私にとってお菓子は、恵まれた子供の象徴みたいなもので、……憧れがずっと、あったんです。だからその、幸福を噛みしめる、みたいな感じ? なんですかね」
「……そっか」
殿下は躊躇いがちに微笑んだ。
――ねえあれ買って、とはしゃぐ子供の声が耳に蘇る。両親と手を繋いで、軽やかな笑い声を上げて、腹の足しにもならない菓子を指して、甘えるみたいに。
私はあんなものいらない、と、泥を頬からこそぎ落としながら吐き捨てたことがあった。私はあんな甘ったれとは違う、と馬鹿にしたことがあった。それでも結局、そんなものは拗ねた言い分でしかなかったのだ。
本当は、ずっと羨ましかったんだと、今なら分かる。
「うーん、私の幸せはここにあったんですねぇ」
おいしい、と最後の一欠片を口に入れた。まったく、これだからやっぱりお菓子はやめられないね……。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
「それなら良かった」
殿下が箱の蓋を閉じながら頷く。殿下は食べていないのに、どういう訳か随分と満足げなお顔である。
「アルカが夜中にお菓子を食べないように、残りは僕が保管しておくからね」
「ヒィ! 一つでいいです……」
「まあ、また今度ね」
あからさまにはぐらかして、殿下は机の上に箱を戻した。
***
私が普段着ているのは護衛官の中でも近衛の制服だ。しかし、数ヶ月前に殿下の計らいで、今日みたいな公的な場では、色違い、デザインも実はちょっと違う制服を着ることが決まった。確かに、その方が分かりやすいし、何となく権威がありそうだもんね。お披露目は今回が初めてだ。
襟元を正し、私は左手首に嵌まっている金色の腕輪を見た。何だかすっかり慣れきってしまって、最近ではほとんど気に留めることもなくなっている。……実を言うとこの腕輪、ここ数年、ずっと取れていない。正直何となく怖いけれど、特にかぶれもしないし違和感もないし、締め付けも感じないので、多分大丈夫なのだろうと思う。
私は鏡を見る。まあまあそこそこキリッとした顔の女が私を見返した。健康的な体で、楽しそうな目をしている。うん、素敵だ。
一旦ベッドの上に置いていた剣を、腰の剣帯に通した。慣れた重みが加わる。身が引き締まる思いがした。
私が、殿下をお守りするのだ。私は拳を握って、誰に向けるでもなく大きく頷く。私は殿下の託宣人で、殿下の護衛官なのだ。
今日はめでたき殿下のお誕生日である。十五という区切りの良い数字であることもあって、食事会も例年より少し大規模だ。
「うん、似合ってるよ」
「えへへ」
私は両腕を広げて、新しい正装を殿下に見せる。普段の近衛の制服は紺色がベースの格好いいやつだけど、私専用の正装は白地に紺が差し色の、これまた格好いいやつだ。
「ほら、格好いい顔して」
「はい!」
殿下が軽く私の背を叩く。私はすっと姿勢を正し、顎を引いた。会場にはもう招待客が揃っていて、あとは私たちが入るだけである。
「よし、行くか」
時計を見上げて、殿下が力の抜けた声で言った。扉の脇にいた護衛官が、ゆっくりと扉を開く。殿下は強い眼差しで会場を見渡し、ほんの少し口元に笑みを湛えた。私も素早く会場に異変がないか目を走らせると、殿下に向かって頷く。
拍手に迎えられながら、殿下が悠然と一歩を踏み出した。その斜め後ろを歩きながら、何だか私は感動で泣きそうだった。ほんのこの間まで、私の胸程度にしか身長がなかった小柄な男の子だったのに、いつの間にやらこんなに大きくなって……。うっうっ。
……もはや、ほぼ母か姉の境地である。私はあいにく身元不明の孤児なので、誕生日も年齢も分からないが、少なくとも殿下と三つ四つ以上は年が離れているのは確実だ。殿下が今十五だから、おおよそ私は十八から二十の間くらいかな? 考えてみれば私もまあまあいい年みたいだな。うーん。
殿下がそつなく挨拶をこなし、私は招待客と一緒に拍手したいくらいだった。流石、私のお仕えする殿下である。ご立派でした。
「ちょっとアルカ、何でちょっと涙ぐんでるの」
「殿下のご成長が嬉しくて……」
鼻をずびずびさせながら、私は客に悟られないようにそっと目元を拭った。殿下は呆れたようにため息をついて、肩を竦める。
「アルカ、ほら、しゃんとして」
「はい……」
軽く背を叩かれて、私は殿下の隣の席に座ったまま、ぴんと背筋を伸ばした。ごほん、今日の私は強そうな護衛官という設定になっているのだった。運ばれて来た食事に、あからさま過ぎない程度に目を輝かせ、私は唾を飲んだ。