3
冬が終わる。今年は雪の少ない冬だった。
「アルカ」
殿下が私に手招きする。私は足下のつくしを器用に避けながら、殿下の元まで歩み寄る。
「あそこ、花が一つ咲いている」
かすれた声でそう言うと、殿下は一つ、乾いた咳払いをした。いつしか目線の並んでいた殿下が笑う。
「わ、ほんとだ」と私は目を輝かせ、少し背を伸ばして殿下の指さす先を見やった。
ふわりと、僅かに暖かい風が頬を撫でた。どこかの花の香りが届いた。
「……季節は巡るもの、なんですね」
この間読んだ本の受け売りだった。殿下から本を薦められるようになってから、私も時折、自分で選んで本を少しずつ読むようになった。
「そうだね」と殿下は一旦頷く。
「でも、同じ春は二度とは来ないんだ」
やはり殿下はいつも難しいことを言う。眉は顰めなかったものの、軽く首を傾げた私に、殿下は前より多少低くなった声で告げた。
「去年のアルカなら、きっと、春が来たって大した反応は示さなかったよ。出会った頃のアルカならなおさらでしょ」
そう言われて、私は目を見開く。確かに、と私が口を半開きにすると、殿下はいつになく嬉しそうに目元を緩めた。
「ふぁ、おいしい……」
お城の庭園の片隅、小さな東屋の中で、私は殿下に頂いたお菓子を食べていた。
「アルカはお菓子が好きだね」
「だってずっと憧れだったんですもん」
背後で聞こえるように隊長がため息をつくが、殿下がちらと視線を向けるとすぐに黙った。うーん、いや、私も殿下のご厚意に甘えすぎるのは良くないと、思ってはいるんですけれどね……。
殿下は機嫌良さそうに頬杖をついて、じっと私を眺めている。いつもなら何とも思わないその視線に、今日はどことない気まずさを覚えた。
「この間貸した本、どうだった?」
「……一冊は読み終わりました。もう一冊はまだ途中です」
私が答えると、殿下は「そっか」と頷く。
「読み終わった方は、えっと……すごく勉強になりました」
私は顎に手を当てて躊躇いがちに言った。殿下は少し含みを持った笑みを返す。
「神殿の制度とか、歴史とか……。でも、私にはちょっと難しくてよく分からないところもありました」
「そうかもね。できるだけ俯瞰的な見方の本を選んだんだけど」
殿下は紅茶を一口飲むと、短く息を吐いた。私は本の内容を思い返しながら斜め上を見る。
「それにしても、異端を取り締まるために、街の住民をみんな火刑に処したなんて……びっくりしました」
「ジゼ=イールのことかな? そうだね、最近は多少落ち着いたけど、僕が生まれる少し前までは凄かったと聞くから」
私が本の中で紹介されていた事例を挙げると、殿下は隠しきれない呆れを滲ませて頷いた。
……殿下は、神殿がお嫌いですか、と、一瞬訊こうとしてしまった。唇がぴくりとしたが、私はすんでのところで踏みとどまった。何となく、訊いちゃいけないことなのかもしれないと、思ったから。
「とっ、ところで、もう一冊の方はその、まだ途中までしか読んでないんですけど」
話題を変えるように、私は明るい声を出した。殿下は一瞬戸惑ったように目を瞬き、それから何か言いたげに私に微笑む。
「で……殿下は、最近、その、身分差もの? がお好きなんですか?」
殿下の背後で先輩が大きくぐらついた。何やら目頭を押さえて、先輩は切なげに目を伏せる。その唇が「涙ぐましい」と動いたのが見えた。
殿下は事も無げに「最近、というか、結構前からね」と応じる。
「どうしてですか? 何となくですけど……ああいうのって、一般の人が、自分より良いお家の人との出会いを素敵だと思って読むものだと感じました」
殿下の場合、身分差といったら、自分より身分が低い人が思い浮かぶと思うのだけれど。首を傾げた私をじっと見ながら、殿下は咳払いをした。
「――僕の好きな人が、僕より身分が低いから、かな」
「……管理職の人でしたっけ?」
「それはもう忘れて欲しいなぁ」
殿下はどこか遠い目をしながら首を横に振った。
「じゃあどんな方なんですか? 教えてくださいよ、ほらほら」
私が身を乗り出すと、殿下はぎょっとしたように目を見開く。あからさまに目を逸らされ、思わずしゅんと縮こまってしまった。
「すみません、ちょっと今のは図々し……」
「少し外してくれるか」
俯いたまま呟きかけた私の言葉を遮って、殿下が告げる。私に言われたのかと思って、息を飲んで顔を上げると、隊長を始めとした近衛がすっと下がったところだった。
「えっと……?」
私も席を外した方が良いかな、と腰を浮かせかけた私に、殿下が「アルカ」と短く声をかけた。残れということだろう。皆が遠くに離れてしまい、何だか私たちだけ隔絶された感じである。
大人しく椅子に座り直すと、殿下はいつにも増して軽快な口調で語り出した。
「――僕の好きな人はね、」
……もしや、これは。
「制度としては、実質僕とほぼ同じ身分なのに、どうしても上がってこようとはしなくて」
これは……、あの、噂に聞く……!
「いちいち思い通りにならないし、ちょっと面倒くさいし」
……こ、恋バナなるものではないか……!?
初めての恋バナに動揺し、あたふたする私を見て、殿下がぎこちなく笑った。
「でも僕は大好きなんだよね」
「はわわ……」
自分には関係ないのに、何だか照れてしまう。殿下がひたすら私を見据えながら喋るせいもあるかも知れない。何だか自分に向かって言われているような気さえしてくる。
「まあ、少なくとも嫌われていないだろうという自信はあるんだけど、」
「これが、りょ、両思いってやつですか? こないだ本で読みました……」
両頬に手を当てながら、ごくりと唾を飲んだ。殿下は「どうだろうね」と目を伏せる。そして、一呼吸の後、殿下は瞼をひらめかせて私を見据えた。
「――もし、僕がアルカのことを好きだと言ったら、どうする?」
息が、止まった。
その語尾が震えているのには気づいたけれど、それが何を表すのか、私には咄嗟に理解できなかった。完全に思考が停止してしまっていた。私は笑みを頬に引っかけたまま、戸惑いを前面に出して首を傾けた。
「え、と……」
声が上手く出ないことに驚く。自分の意思とは関係なく唇を戦慄かせながら、私は引きつった笑みを浮かべた。
「……こま、り、ます、かね」
殿下が無言で目を見張った。殿下が体を強ばらせているのは分かったけれど、それが何でかなんて分からなかった。考えようとも出来なかった。
「だって、私は殿下の護衛官で、殿下は私の主君で、恩人で、……そんなの、おかしいです」
私は堪えきれず、にへらと媚びるような笑みを殿下に向けた。
「っじょ、冗談ですよね。…………ね、殿下」
数秒の間、殿下は、声もなく私を見据えていた。それから、にこりと、今まで私にほとんど向けたことのない類の微笑みで答えたのだ。
「うん。――ごめんね、驚かせて」
それは、よそ行きの顔だった。もう何年もお側にお仕えしているのだから、それくらいは分かる。でも、なんで、殿下が私にその顔を向けたのか分からない。分かりたくなかった。
「殿下、……ごめんなさい」
……それでも、私は、今、決定的に殿下を傷つけたことだけは、理解していた。
「謝るべきことが分かっていないのに謝るのは良くないことだよ。ましてや、アルカは今謝る必要なんて何もない」
殿下は静かな声と凪いだ表情で、そっと私から目線を外した。
「――ちょっと早まったかな」と殿下が、淋しげな目をして囁いた。
この日のことは、何故だか、私たちの間では禁句となったように、それ以後話題に出されなくなった。……まるでなかったことのようだった。
それは、少しだけ、私にとっても都合が良かったのだ。忘れたふりをして、無邪気を装って殿下に話しかけるのに、……とても、都合が、良かった。
***
「お久しぶりです、アルカさん」
「えっと、イルゾア商会の……」
「イルゾア家のヨルサと申します。覚えておいて頂けて光栄です」
春の定例会で、私は見覚えのある人に声をかけられた。殿下から離れて食べ物を取りに行っていたときのことだった。何とか思い出した私は、略式の礼をする。
「お久しぶりです、ヨルサさん。そちらは娘さんですか?」
私がヨルサさんの斜め後ろで立っている少女を見やると、ヨルサさんは頷いた。
「ウルティカといいます。初めまして」
「初めまして。ユリシス殿下の託宣人のアルカ・ティリと申します」
私が胸に手を当てて礼をすると、彼女はぽかんと目を見開いた。私もそれほど大柄な方ではないが、彼女は私よりさらに小柄だ。
「殿下の?」
「はい。……ウルティカさんは殿下のことが気になりますか?」
「そんな、さん付けなんてやめてください!」
彼女は大慌てで両手を振り回すと、顔を赤くする。私は少し迷って、「分かりました、ウルティカ」と微笑んだ。
「えっと、その……殿下は……」
「殿下なら、あちらのお席で兄君と一緒にいらっしゃいますね」
「なるほど、近づけないわ……」
ウルティカは何故か私を壁にして、遠くの殿下を窺っている。壁にされた私は、苦笑交じりに首を巡らせて殿下を見やった。
ふと、殿下が顔を上げて、会場を見回すように視線を薙いだ。こちらに目を留めると、片手をひらりと振る。ウルティカが「ひゃあ」と声を上げたので、私は思わず小さく声を上げて笑った。「ひゃあ」だって。何というか、こう、私の口からはなかなか出なさそうな声である。
「もしかして、ウルティカに振ってくださったのかもしれませんね」
「いや、あれはきっと違いますわ」
ウルティカは断固として言い切る。私は深くは追求せず「そうですか」と頷いた。私を壁にするのをやめて、ウルティカは姿勢を戻す。
「すみません、失礼を……」
ヨルサさんが苦々しい顔でウルティカを回収した。
「ごめんなさい」とウルティカも肩をすぼめて俯いてしまったので、私は笑顔で首を横に振る。
「そんな、私はただのしがない護衛官ですし、それほどかしこまる必要なんて」
「でも、殿下の託宣人にあらせられるでしょう」
「気にしないでください」
私が重ねて言うと、ようやくウルティカの顔が上がってきた。
「ひゃッ!」
「え?」
顔を上げたウルティカが、何かを見て小さな声で叫んだ。咄嗟に剣に手を添えて振り返ると、すぐ背後に人影を見つけた。近すぎて瞬時に顔が分からず、一瞬にして総毛立つ。
その場で素早く足を踏み換え、体勢を低く構えてから、私はぽかんと口を開く。
「アルカ、僕だよ」
「……ごめんなさい」
私は神妙な顔で剣から手を離した。いつの間にか背後に来ていた殿下は、綺麗な微笑みでヨルサさんとウルティカに目線を配る。
「――それで、こちらは?」
「あわわわわ……」
どうやら咄嗟に近くにいた方の私を壁にしてしまったらしい。私の肩に隠れながら、ウルティカは真っ赤な顔で殿下を伺っている。
「イルゾア商会のヨルサさんと、そのお嬢様のウルティカさんです」
「ご機嫌麗しゅう、殿下」
ヨルサさんは平然と微笑み、慣れた様子で滑らかに礼をしたが、ウルティカは依然として私の背後に隠れたままだ。
「イルゾア商会というと……海の向こうのヴィゼリーとの交易を行う海運会社ですね」
「最近はヴィゼリー以外にも手を出してはおりますが、はい、そうですね。主にヴィゼリーと、こちら、キルディエの間での貿易を行っております」
ヨルサさんと殿下が話をしている隙に、私は慌ててウルティカの肩を叩く。彼女は茫然自失とどこか遠くに意識を飛ばしてしまっていた。
「ウルティカ、気を取り直してください。殿下ですよ」
「で、殿下……?」
ウルティカはおずおずと私の肩越しに殿下を見やり、それからぱっと目を逸らした。
「何だか近づきがたいです……」
「そんな、殿下はそれほど恐ろしい人じゃないですよ」
「何だか威嚇されてるような気分です」
何を言っているんだろう。私は思わず首を傾げた。と、ヨルサさんと会話を終えた殿下が、一歩こちらに近づく。
「アルカ、おいで」
「はい、殿下」
呼ばれて近寄ると、殿下は私の腕を軽く引いた。特に抵抗せずに足を踏み出す。
「……アルカは、ここ」
「分かりました」
殿下の隣に設置され、なるほどと私は頷いた。どうやら殿下のお隣が私の定位置だったらしい。知らなかったなぁ……こういう場ではそれが決まりだったんだろうか?
「はわわわわわわ……」
哀れ、私という壁を剥がされたウルティカは、及び腰で殿下と対面した。
「ウルティカ、」
しかし、ヨルサさんに鋭めの声で呼ばれると、我に返ったようにすっと背を伸ばして表情を改める。一呼吸おいて、ウルティカは頬を緩めて柔らかい微笑みを浮かべた。
「初めまして、殿下。イルゾア家のウルティカと申します」
「初めまして」
殿下は笑顔で頷くと、しばらく黙る。ウルティカも黙ったまま、じっと殿下を見ている。何だかにらみ合いみたいだ。
「殿下……?」
私が呼びかけると、殿下はすぐに私を振り返った。「どうしたの?」と首を傾けられて、私は「いや……」と返答に困った。
「もう少し、会話とか……」
「目で語り合えたよ。……そうですよね?」
「え!?」
「……ええ、はい」
殿下の言葉にも驚いたが、渋々と頷いたウルティカにも驚愕する。
殿下、マジですごいな……と、思わず馬鹿みたいな感想を抱いてしまった。殿下ほどになると、目線だけで会話できるようになるのか。
「ウルティカ、殿下は目で何と仰っていたんですか?」
私が目を輝かせてウルティカに詰め寄ると、「アルカ」と手を引かれた。「兄上がお呼びみたいだ」
「セデロフィル殿下が?」
全く思い当たる節がないけれど、それは行かなきゃ駄目そうだ。
「ごめんなさい、私はここで……」
「いえ、気になさらないでください」
ウルティカは笑顔で首を横に振った。私はぺこりと一礼して、「またお会いできたら、一緒にお話しましょうね」とウルティカの手を取った。
「はい、ぜひまた」
ウルティカは大きく頷いてくれた。
「まったく、王子はやめておきなさいと言ったでしょう」
「だって、お母様……。あんな怖い人だなんて思わなかったんだもの」
会話はよく聞こえなかったものの、唇を尖らせて、ヨルサさんに甘えるようにウルティカが俯くのが見えた。
「お呼びでしょうか、セデロフィル殿下」
「え、何の話だ?」
私が早足で駆け寄ると、紅茶に角砂糖を二つ落としながら、兄君は怪訝な顔をした。
「殿下……?」
私はあとから追いついてきた殿下を振り返る。殿下は笑顔で首を傾げた。
「あれ? 先程、アルカのことを呼んでいませんでしたっけ」
殿下は兄君に向かって問いかける。兄君は「アルカのことなんて話題にも出てないだろ」と、失礼なんだかそうでないんだか、よく分からない言い草だ。思うにこれが素である。
「そうですか? ちらっと仰ってましたよ。――ね、兄上」
殿下は兄君と目を合わせながら笑みを浮かべる。
「…………そうだな。言われてみれば、何だかそんなようなことを言った気がしてきたぞ」
腕を組み、盛大に顔を背けながら、兄君は明るい声でそう言い放った。