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「アルカ、この本貸してあげる」
殿下の誕生日が過ぎて数週間が経った頃、殿下は私に一冊の本を手渡した。あまり厚さのない、よく見る娯楽小説の類に見えた。
「これ、最近流行ってるらしいんだよね」
そう言って渡された本のタイトルは、確かに本屋の店頭で見たことがある気がする。
「良いんですか?」と私が首を傾げると、殿下は笑顔で頷いた。私はぱらぱらと中を眺め、小さく唸る。……私に、読めるかなぁ。
「アルカ、最近読み書きの練習はしてる?」
「……あんまり」
「じゃあ、復習がてらにどうかな。平易な言葉で書いてあるし、人気もあるから面白いと思うよ」
殿下がそう言うので、私は「分かりました」と頬を緩めた。
休憩室に戻り、少し読んでみるかと机に置いたところで、先輩が部屋に入ってきた。
「何だ、それ」
先輩は首を傾げて私を見る。「アルカ、それ自分で買ったのか」
私は首を横に振って、本を取り上げる。表紙を見せるようにして持つと、私は自慢げに胸を張った。
「殿下が貸してくださったんです」
ふふ、と笑みを漏らすと、先輩は動きを止め、引きつった顔で「そうか」と首を上下させた。どこか遠くを見るような顔をして、切なげに呟く。
「殿下、もうどう頑張っても伝わらないと踏んで、とうとう御自ら教育に入ったのか……」
「何ですか? 殿下の悪口ですか? いくら先輩と言えど許しませんよ」
「違う違う。殿下も涙ぐましい……おっと、大変だと思ってだな」
先輩は胸に手を当てて、目を閉じる。よく分からないが、先輩は何やら思うところがあるようで、神妙な顔をして休憩所を出て行ってしまった。
「せっかく殿下が貸してくださったんだから、しっかり読むんだぞ」
「分かりました!」
部屋を出る間際に言い残した言葉に、私は大きく頷いて親指を立てた。
殿下が貸してくださったのは、どうやら市井を舞台にした小説のようだった。主人公の女の子は私より少し年下で、学校の中等部に通う、ごく普通の女の子と描写されていた。なるほど、これが一般に言う『普通の女の子』なのだと、私は話に関係のないところで感心してしまう。普通の女の子は、どうやら同い年の子供たちと一緒に学校に通うものらしい。
そんな彼女はある日、転校生の少年と出会って……というストーリーのようだ。その日の夜までかけて一章の終わりまで読んだ私は、思わず首を傾げた。
「殿下って、こんなのも読むんだ……」
私の中での殿下は、もっとこう……難しそうな本を読んでいるイメージだった。だが私はその認識を改めた方が良いらしい。
「さすがは殿下、様々な分野に手を出して、多くの知識を得ようとされてるんだなぁ……」
私は本を抱きしめてしみじみと呟いた。
私は文字を読むのが苦手だ。ちなみに書くのも、あまり上手くない。その理由は単純で、学ぶ機会がなかっただけのことである。孤児院では生き延びるのが精一杯だったし、街をさまよい歩くようになってからも、まさか文字を習う機会なんてあるはずがない。
殿下に拾って頂いてから、私は殿下の期待に応えるために死に物狂いで読み書きを学んだ。沢山の人が手伝ってくれたし、もちろん殿下にもとても助けて頂いた。私が今こうして本を読めているのも、周囲にいる人たちのおかげである。
「私って、恵まれてる……」
――殿下と出会うまで、私は、こんなに優しい世界があることを知らなかったのだ。
それからおよそ二週間をかけて、私は殿下に貸して頂いた本を読破した。翌朝目を真っ赤に腫らしながら参じた私に、殿下がぎょっとしたように顔を引きつらせる。
「どうしたの、アルカ」
「殿下、読み終わりました……」
私は鼻をぐずぐずさせながら、本を殿下に差し出した。殿下はそれを一旦受け取って机に置くと、私の顔を覗き込む。
「アルカ、なんで泣いてるの?」
「ふ、二人が幸せになったのが、嬉しくて……」
私は思わず目を潤ませて拳を握った。
それは怒濤の展開だった。謎めいた転校生の周囲で起こる数々の出来事と、それに否応なしに巻き込まれてゆく主人公。そして最後に全てが主人公の過去へと繋がり、状況がぱっと開ける。ラスト、二人は手を取り合って、未来に向かって歩き出した。
「うぅ……いい話でした……」
殿下に手渡されたハンカチで目元を拭いながら、私はしみじみと噛みしめる。殿下は半ば呆れた様子で、腰に手を当てていた。
「やっぱり僕としては、中盤で主人公が転校生に対して思いを伝えるシーンが一番印象に残っているんだけど、」
「あっはい、そこ、ものすごくこう……なんて言うんですか? 胸がきゅっとなるというか、何だか照れくさいというか……」
「きゅんとした?」
「です! それです!」
思わず手のひらで近くにあったソファを殴りながら、私は大きく頷いた。そう、それだ。私はきゅんきゅんしていたのだ。こんなのは初めてだった。自分の意思とは関係なく頬が熱くなるのを感じながら、私は頬を緩めた。
その日は余韻たっぷりで、私はずっとどこか上の空だった。うーん、いい話だった。
「次はもうちょっとストーリーが軽くて、もっと甘ったるいのを選んでおくべきかな」
殿下は、心ここにあらずといった様子で天井を見上げる私を見ながら、何事かぼそりと呟いていた。
***
休日、私は街に降りてこまごまとした買い物をしていた。長いこと履いていた靴下に穴が空いたり、部屋のおやつがなくなってしまったりと、まあそういった細かいやつだ。
託宣人になってから給料が大幅アップしたので、懐はだいぶ温かい。今日はちょっと奮発してお高いケーキでも買ってしまおうかと思いながら、私は目抜き通りを闊歩していた。
通りに面したケーキ屋さんのショーウィンドウを覗き込もうと身を屈めた直後、隣にいた人がこちらを振り返った。
「あの、もしかして、アルカさんですか? ユリシス殿下の託宣人の……」
「えっと、」
まさかこんなところで声をかけられるとは思わず、私は目に見えて狼狽える。私に声をかけたのは、どことなく見覚えのある女性だった。
「ああいや、これは不躾に申し訳ありません」と彼女は苦笑交じりに胸の前で手をひらひらさせ、私をじっと眺める。
「私はヨルサと申します。イルゾア商会を取り仕切っている者です。すみません、先日殿下のお誕生日祝いの席でお見かけしたばかりなので、つい声をかけてしまって」
「イルゾア商会……」
何となく、聞いたことがある気がした。けれどぴんとは来ず、私は首を傾げる。その様子を見て取って、ヨルサさんは人差し指を立てて微笑む。
「海の向こうに、大陸があるのはご存知でしょうか?」
「聞いたことはあります。行ったことはありませんが……」
「イルゾア商会は、そちらの大陸と、こちら、キルディエの間での商品のやり取りを一手に担っているんです。大抵の舶来品はうちが持ってきたものですね」
へぇ、と私は頷いた。海の向こうは遙か遠くのものだと思っていた。まるで異世界の話を聞いているかのような気持ちだ。
「それで、その……イルゾア商会? の人が、何か私に用でも?」
私が眉を顰めると、彼女は「そんな、用事という程のものでも」と若干慌てたように手を横に振る。それから少し動きを止めて、何か思案するように斜めを見上げた。
「一応お訊きしておきたいのですが……殿下に、婚約者のような人はおられないのでしたっけ?」
「……はい。少なくとも私の知る限りでは」
私は答えてから、首を傾げる。「それがどうかしたんですか?」と問うと、彼女は苦笑する。
「先日、殿下の誕生日をお祝いする食事会に、娘を連れて行ったのですが、……それ以来、すっかり殿下にお熱のようで」
「……おねつ」
「殿下に夢中なのですよ」
困ったものだ、と言いたげに、ヨルサさんは頬に手を当てた。私はようやく理解がいって、思わず口をぽかんと開けてしまう。
「殿下のことを、その……好いてくださっているのですか?」
「まあ、そういうことになるのでしょうか。あの子もいわゆる『王子様』を、初めて目の当たりにした訳ですし、ついぽーっとなってしまったんでしょうね」
ヨルサさんはあっけらかんと笑って、にこりと笑った。
「申し訳ございません、初対面なのに、いきなりこんな私事を」
「いえ、」と私は慌てて首を横に振った。
殿下のことが好きな女の子がいるらしい。その事実が何だかわくわくしたものに感じられて、私は目を輝かせた。つい最近、殿下から貸して頂いた本を読んだばかり。あれも広義で言うところの『恋愛小説』であるはずだ。フフ……すごいタイムリー……。
「娘さんは、どんな方なんですか?」
「娘ですか? まあ……典型的な、ちょっと夢見がちな娘と言いますか」
「ふむ……」
私は顎に手を当てて、以前殿下が言っていた『好みのタイプ』を思い返す。殿下は、年上のちょっと抜けてる人が好きらしい。……どうだろう。
「娘さんは、今、いくつなんでしょう?」
「十四です。もうすぐ誕生日なんですけれどね。……本当に、そろそろ現実を見て欲しいものです」
「お! と、いうことは……殿下より年上ですと」
咄嗟に身を乗り出してしまった私に、ヨルサさんはぎょっとしたようにのけぞった。私は慌てて体勢を戻すと、こほんと一度咳払いをする。
私は殿下の託宣人で、暗殺も防ぐ有能な護衛官、ということになっているのである。お外ではね。
「すみません、私、買い物がありますので」と、取り繕うように厳格な顔で言うと、彼女は焦った様子で「ごめんなさい」と体を強ばらせた。
「いえ。とても楽しいお話を聞けて、嬉しかったです」
微笑んで、私はきびきびした動きで軽く頭を下げた。「また今度、どこかでお会いしたら、ゆっくりお話したいです」と言うと、ヨルサさんは「喜んで」と頬を緩めた。
その場で別れてから、私は特大のため息をついた。
「はひ……ボロが出なかったかな……」
どんなに『凄そうな護衛官』を取り繕っても、私の本質は所詮『どことなく気の抜けた護衛官』である。頑張って気を張ってメッキを張らないと、すぐにバレてしまう。
それにしても、だ。
「へへ……殿下のことを好きになってくれる人がいるんだ……。何だか自分のことのように嬉しいなぁ……」
私はこっそり気持ち悪い笑みを漏らしながら、その場でしばらくニヤニヤと頬を緩ませていた。
***
「……アルカ、これ読んでみる?」
「わっ、良いんですか?」
殿下が差し出した本を見下ろして、私は目を丸くする。殿下はにこ、と柔らかい笑みで頷いた。時折笑みの中に妙に鋭い視線が混ぜられるのを疑問に思いながら、私は本を受け取る。
「…………? 恋愛小説ですか?」
何だか、よく理解できないけれど、どこか甘ったるさを感じるタイトルと装丁だった。少女向け、と言って良いのだろうか。……これを殿下が読んだのか。
首を傾げた私に、殿下はどこかばつが悪そうな顔をしながら、「まあね」と頷いた。
「どんな本なんですか?」
「どんな……? ええと、まあ、見ているこっちが恥ずかしくなってくるような、こう……。いや、アルカが自分の目で判断した方が良いんじゃないかな。――正直、僕がこれを勧めるのには勇気がいるね……」
ごほん、と重ための咳をすると、殿下は片手で顔の下半分を覆ったまま、顔を背けた。その耳が赤くなっている。よほどの問題作らしい。
「殿下、その本の対象年齢は……」
もう一人、室内警備に当たっていた同僚が、おずおずと小さな声で殿下に声をかける。殿下はしばらく、何を言われているのかときょとんとしていたが、数秒後、心外だと言いたげに顔を赤くして、「全年齢だよ!」と珍しく大きな声を上げた。
殿下の反応からして、随分と問題作らしい。楽しみな気持ちと、一体何が書いてあるのかという若干の恐怖に胸を高鳴らせながら、私はベッドに腰掛けて本を開いた。
「ふむふむ……実家のケーキ屋さんで働く女の子と、幼なじみの男の子……」
私は頷きながら、ページを繰る。主人公は女の子で、彼女の生活の様子が瑞々しく描写されている。もう夜だというのに、何だか私までケーキを食べたくなってしまった。
本の中では、幼なじみとして小さい頃は何の気なしに遊んでいた男の子が、最近何だか気になるのだ、と書かれている。
「へぇ……」
この間読んだ本では、主人公は転校生の少年を初めて見たときから、何やら運命めいたものを感じていた。先日話を聞いた女の子も、殿下を初めて見て、そこで好きになってくれたという。でも、必ずしもその限りではないらしい。
「初めは何とも思ってなくても、徐々に、かぁ……。そんな形もあるんだ」
ごろん、とベッドに寝転がりながら、私は仰向けに本を掲げる。
一週間後の朝、である。
「でで殿下、何だか私これ、恥ずかしくて読んでいられません……!」
ページ半ばにしおりを挟んだ本を差し出しながら、私は口を開閉させた。殿下は沈痛な面持ちで額を押さえた。
「何か、こう、これが……ぅあ、甘い台詞ってやつなんですか? くすぐったいなんてものじゃなくて…………か、かゆい! かゆいです!」
わなわなと震えながら赤面する私と、どんよりとした空気を漂わせる殿下を見比べて、隊長は腕を組む。
「……殿下、あまり変なものをアルカに読ませないでやってください」
「違うんだ……全年齢なんだよ……」
殿下は重々しく首を振った。
私は本を恐る恐る殿下の机に戻す。殿下は無言でそれを受け取った。
「……アルカには……少し…………早かったみたいだね」
本を机の引き出しに入れ、鍵をかけてから、殿下はどこか遙か彼方を見ながら呟いた。私も真剣な顔で頷いた。
――男の子が都市へ出て、主人公はどことなく寂しい毎日を送るようになる、そんなシーンで、第一章は締めくくられていた。まあ別にそこに異論はない。全然ない。軽めの障壁ってやつだろう。うん、大丈夫。私は腕組みをし、天井を見ながら数度頷く。
数年後、主人公が……こう……ピンチに見舞われたところを、ちょうどよく帰ってきた男の子が助けてくれるシーンも、正直、いわゆる『きゅんとする』感じがしてすごく良かったのだけれど。
「……すごく、……その、気恥ずかしかったです……」
私は両手で顔を覆って俯いた。殿下も「僕も相当やられたよ」と額に手を当てながらため息をついた。
――そこから先が、甘ったるい。もうどこまでいっても甘すぎる。私は重たい息を吐きつつ胸に手を当てた。
成長して帰ってきた男の子もとい青年は、ひたすらに主人公に迫り続け、主人公もまんざらではないのであっという間に思いが通じ合い、そして第三章から始まるのはめくるめくデロ甘ワールドである。幸せそうな二人が、ちょっとした問題を乗り越えつつ穏やかな村で平和な生活を送る。……それが何かもう、すごい。圧倒的な語彙力低下によるお届けで申し訳ないが、何かこう……すごかった。
「甘さが私の許容範囲を軽々と超えました」
「僕も読み終えた夜は胸焼けに苦しんだね……」
お互い苦しげな顔をしながら呻く私たちを交互に見ながら、隊長が「一体どんな恐ろしい本なのですか」と訝しげな顔をしていた。
「……なるほど、アルカにはあまりキザったらしいことは言わない方が良いらしいな」
「ですから殿下、アルカに一体何の本を……」
隊長を華麗に無視して、殿下は顎に手を当てて何やら考えこんでいた。
翌日、殿下から「これあげる」と頂いたチョコレートを頬張りながら、私はふと首を傾げた。
「殿下、最近よく恋愛小説の類を読んでいらしてるみたいですけれど、……どなたかお好きな方でもいるのですか?」
ぴし、と殿下の動きが固まった。ぎしぎしと音がしそうにゆっくりと顔を上げた殿下は、私の顔をじっと見つめる。
「……アルカは、どうして、それが気になるの?」
「いや、そこまで気になるという訳では……」
私は慌てて首を横に振った。こんな個人的な質問、確かにちょっと失礼だったかもしれない。私が顔を引きつらせると、殿下は目を見開いて、それから長い息を吐いた。
「……ある、」と殿下は絞り出すような声で呟く。私は首を傾げた。殿下は私から目を逸らし、何故か息も絶え絶え言葉を続ける。
「……ある、かっ……か、管理職のような人が」
「管理職!?」
私は思わず目を剥いた。か、管理職……。まあまあ歳がいっていそうな響きである。御年十四の殿下と比べると、こう……結構な年の差になりそうだ。
「違う、管理職じゃない!」
殿下は机を手のひらで叩いた。「違うんですか!?」と私が返すと、殿下はいつになく険しい表情をしていた。
「……この馬鹿、」と、殿下は突如として自分で自分を平手打ちし始めたので、慌てて右手と右頬の仲裁に入る。
殿下の右の手首を柔らかく掴みながら、私は殿下の顔を覗き込む。
「どうされたんですか、殿下。今日は何だか様子がおかしいですよ」
「一体、誰のせいだと……」
「誰のせいなんですか?」
「…………まあ、僕かな」
今日の殿下はどうやら自罰モードらしい。私は殿下をお守りするのが役目なので、それはきっちり阻止せねばならないのだ。
「――分かりました。殿下の思い人がどんな人であれ、私、応援しますから!」
私は力強く胸を叩いて、殿下に向かって微笑みかける。殿下は数秒間呆気に取られた顔をしていたが、やがて、ふっと口元を和らげた。
「言ったね、アルカ」
念を押すような口調に少し戸惑い、それから私は大きく頷いた。「もちろんです」ともう一度言うと、殿下は満足げに笑みを浮かべた。
「――それは良いことを聞いた」
「……?」
すいと目線を私に滑らせながら、殿下が呟く。何か含みを持たせているのは分かるが、何が含まれているのか、私にはいまいち分からなかった。