14
「わぁ、大きな街……」
私は見えてきた街を眺めて呟いた。
単純な規模で言えば、そりゃあ王都や聖都には劣る。が、街を覆う活気はそのどちらとも異なる、渦巻くように大きなものだった。……そして人が多い。全然進めない。
「港はどっちだ?」
殿下が窓の外を窺いながら眉をひそめる。何せ大きな街なのである。私は目の上に手をかざして周囲を眺めた。石畳をがたがたと移動しながら、渋滞する道をゆっくりと進む。焦って変なことをして目立つのも良くない。分かってはいるけれど、まんじりともしない気持ちだった。
「殿下、」
「ん?」
私が呼びかけると、殿下は張り詰めたような顔で私を振り返った。本音を言えば私だってそんな顔をしたいところだったけれど、懸命に頬をほぐして、私は殿下に向かって笑いかけた。
「ヴィゼリーについたら、どんな美味しいものがありますかね」
明るい声で持ちかけた話題に、殿下はきょとんとした顔のまま、たっぷり五度ほど瞬きをした。
「……そう、だね」
殿下はほどけるように柔らかな表情になって、窓枠に頬杖をついた。遠くに思いを馳せるみたいに少し黙る。
「あちらには、羊を食べる文化があるらしいから、挑戦してみたいかな」
「羊!? あのモコモコのやつですか?」
私は目をぱちくりさせて聞き返した。殿下は笑顔で「うん」と頷く。
ヴィゼリーについての話は、私もウルティカから度々聞いている。何やかんやと雑談をして時間を潰しているうちに、立ち並ぶ建物の向こうに船がたくさん泊まっている港が見えてきた。地響きみたいなこの音は、もしかして海の音なのだろうか。風の感じが変わった。空気が、これまで嗅いだことのない匂いに塗り替えられる。
「おおー」と私が窓から頭を覗かせかけた瞬間、突如として頭に手をかけられ、馬車の中に押し込まれる。いきなりのことに目を白黒させる私を、殿下が背中から抱きかかえた。
窓の外には、馬から下りた隊長がいた。私の頭頂をぐいと押し込んだ手のまま、こちらを見ることなく前を見据えている。
「な……」
「しっ、静かに」
殿下が私を抱えたまま、片手で窓のカーテンを閉めた。そこでようやく、私は異変に気づいた。
「先回りされている」と殿下が囁く。私は無言で頷き、御者台の後ろの小窓からそっと頭を覗かせた。
馬車や人の引く荷車が、道の左半分に列になって渋滞している。列の伸びる先には、船の帆がいくつも見えていた。ここまで来れば、みんな目的地はゼルキス港だろう。どうして列がちっとも進まないのか。その答えは列の先にあった。
街に入る道を封鎖して、十数人の軍人らしき人間が、馬車を検分しているのだ。
「あの家紋は……」と殿下が狭い小窓から外を窺おうとする。さりげなく押しのけられ、私は負けじと殿下の頭を押し返した。私の反発を意にも介さず、殿下はぴくりとも動くことなく、顎に手を当てる。
「コルテラ卿の私兵、か」
「コルテラ?」
聞き返すと、殿下は「うん」と頷いた。「神殿と癒着……えーと、仲良し……繋がりの深い領主だ」
めちゃめちゃ言葉を選んだ様子である。今更かわいい言葉で誤魔化そうとしても、私も神殿で色々見てきた身だし、微妙な顔になってしまう。と、そこで私は違和感を覚えて首を捻った。
「ん? ここってコルテラ領でしたっけ」
「いや、コルテラはもう少し北方だね。ここはジルシュア領だ」
「…………。」
私は無言で殿下を見る。殿下は窓から顔を離して私を見返した。
「他領に私兵を差し向かわせるって……」
「一般的に見れば侵略的行為だよね」
当然のように答えるので、私は血相を変える。「どどどど、どうするんですか」と思わず殿下の両肩を掴んで前後に揺すった。
「せせ戦争が起きたりとか」
「それはないよ」
殿下は蔑むような目をすいと窓の外にやりながら、肩を竦めた。
「コルテラ卿は神殿に多額の寄進をしているから、……いざというときは神殿裁判所がしゃしゃり出てきて、無罪にしてくれる」
「きったねぇ……」
「アルカ、言葉遣い」
頭を小突かれて、私は首を竦めて舌を出す。
何はともあれ、このままではあの私兵に馬車の中を検められて一発アウトである。じりじりと進む列を眺めながら、私は自分の前にある荷車の数を数える。順番が回ってくるのも時間の問題だ。
「どうします、道を変えますか」
窓の外からカーテンを少し押し開き、隊長が低い声で囁いた。殿下は「仕方ないね」とため息をつく。
「街に入る道はこれしかないの?」
「港の近くで馬車が乗り入れられる道は、ここのみです。他の門となると、だいぶ街の中を通ることに」
なるほど、確かに私と殿下を徒歩でノコノコ歩かせるのは避けたいし、街中を通るのも嫌だろう。殿下も難しい顔である。しかし他に打つ手はないのだ。
「……分かった。そちらの道を行こう」
「もう列を外れることが出来ませんので、手前で横道に入ります。よろしいですか」
殿下が頷くと、隊長がカーテンから手を離す。はらりと布が戻り、馬車の中は再び薄暗くなった。
街の喧騒を聞きながら、私は知らず知らずのうちに両手の指を組み合わせていた。周期的に繰り返される低音。波の音。
全てが、まるで心の準備も出来ない間に流れてゆく。ついこの間まで大神殿にいたのに、今はこうして殿下の隣にいる。そしてこれから、私たちは海の向こうまで亡命するのだ。
「……殿下は、良いんですか?」
「え?」
私は恐る恐る殿下を見やった。――私には家族はいないし、大した立場もない。でも、殿下には家族がいて、立場もあるのだ。その全てをなげうってまで、私と一緒にヴィゼリーまで行くなんて。
私は肩をすぼめて俯く。
「取り沙汰されているのは私ですし、殿下はキルディエに残っても、ふごっ」
「アルカ」
突如として口を手で覆われて、私は目を見開く。殿下はため息交じりに首を横に振った。心底呆れたような表情だった。
「……今更そういうこと言う?」
「だって……」
殿下の手を顔から引き剥がしながら、私は唇を尖らせた。殿下はこの場でこの件に言及するつもりはないらしく、私が口を開くとすぐさま手で塞いでくる。しまいには諦めて、私は腕を組んだ。
「節操もなくじゃれ合うのは後にしてください」と隊長の手がカーテンの隙間からにゅっと射し込まれる。珍しく殿下がのけぞった。私はにやにやしながら追撃を放つ。
「そうですよ、殿下。大人しくしなきゃ」
「お前もだぞ、アルカ」
続いて隊長の顔が入ってきたので、私は思わず座席から滑り落ちた。
検問(無許可)に近づいてゆく。手前で横の道に逸れる手筈だが、もし見咎められたらことである。万が一ということもある、と私はその辺にあった上着を頭から被った。殿下もかがみ込んで荷物を漁っている。
馬車を牽く馬が、鼻先を横に向けた気配がした。馬車の内外に緊張が走る。殿下はじっと体を強ばらせたまま、馬車の壁を見据え、周囲の音に耳を澄ませていた。
「曲がった、」
馬車が車輪の音を立てて横道に入ろうとする。ほっとして息を吐きかけた直後、鋭い声が飛んだ。
「待て!」
声が聞こえた瞬間、殿下が「うわっ」と声を漏らして頭を抱える。私も思わず上を仰いだ。足音が近づき、尖った声が投げつけられる。
「どこへ行くつもりだ。そこから先は何もないはずだろう」
「そうなんだ……」と殿下がうつろな目をして呟いた。地の利がないってのはこういうことだ。むしろこの人たちはなんでそんなに詳しいんだ。
まずい、と私は青ざめる。中を覗かれたら一発でアウトだ。そこまで顔が割れているとも思わないが、ある程度の情報は出回っているはずである。顔を見られてサラッと流されるとも思えない。ほら、何かあれだ。殿下から育ちの良さみたいなのがにじみ出ているのである。
隊長が何やら応対をしているが、どうにも怪しまれてしまっているらしい。つかつかと歩み寄ってくる足音に、私は体を強ばらせた。殿下が私を無言で引き寄せる。
「な、何ですか」
「いざというときのために小芝居を」
私の腕を掴んで、殿下が低い声で囁いた。ずいと顔を近づけられて、私は思わずあたふたする。え、そんな場面じゃなくない? 堪えきれず両手で殿下の顔を制すると、殿下は小さく息を吐いた。
「……まわりの状況も見えないバカップルのふりをする」
「バっ……!?」
「僕たち全然顔似てないから兄妹は流石に無理だし」
言いながら、殿下は私の頭を両腕で抱きかかえる。私は顔を隠すように身を屈め、殿下の胸元に顔を埋めた。……何やってるんだろう、私。
「待ってください、」と隊長の焦ったような声がする。私はやり場に困る両手をさまよわせ、それからおずおずと、殿下の背中に置いた。
「中を検めさせてもら……」
荒々しくカーテンが引かれる。殿下はほとんど覆い被さるようにして私を抱きすくめた。
たっぷり五秒ほどの沈黙ののち、「……悪かった」とカーテンが戻された。
窓からは殿下の背中と私の手しか見えなかっただろう。どちらも顔は見られていない。いないんだけど、何かこれ……嫌だ……。
微妙な表情をする私をよそに、殿下は平然と「誤魔化せたかな」と肩越しに振り返ってご満悦である。馬車の外でも『ああー……』みたいな空気が流れており、いたたまれないことこの上ない。あとで隊長にどんな目で見られることか、考えるだけでもぞもぞしてしまう。
「中は確認したでしょう。先を急ぐので、失礼しますよ」
隊長は若干呆れ混じりの声音で、この場を離れようと話を進める。私は固唾を飲んで動向を見守った。ゆっくりと馬車が動き出す。何とか誤魔化せたか、と息を吐いた直後、鋭い声が飛んだ。
「いや……待て!」
窓枠に手をかけられる。窓を掴まれては、無理矢理馬車を走らせることもできない。仕方なく馬車は止まった。
馬車を見咎めたコルテラ領の私兵は、低く潜めた声で呟く。
「……この先にあるのは水門を管理する事務所だけのはずだ」
訝しむようなゆっくりとした口調だ。私は手探りで殿下の指先を見つけると、きつく握りしめた。殿下は奥歯を噛みしめて、外の様子を窺っている。
「身分証を出せ。これほどの馬車に乗っている人間ならそれくらい持っているだろう」
どくん、と心臓が跳ねる。あともう少しで港なのに、こんなところで足止めを食らう訳にはいかない。私は唇を噛んで座席をぎゅっと掴む。
焦りと苛立ちが頂点に達しようとした、その瞬間。
「ん?」
遠くで、驚いたようなざわめきが聞こえた。私はぱっと顔を上げ、目を瞬く。
近づいてきているのは複数の足音だった。規律正しい、決然とした歩調だ。同業者だろう、見なくても分かる。私は耳をそばだてた。
「失礼、許可していない武装集団が道を封鎖していると通報を受けたので」
馬車のすぐ近くで、冷ややかな声が告げる。窓枠にかけられていた手が離れた。先程まで私たちを詰問していた声が凄む。
「我々はコルテラ卿の命を受けてここにいる。――重罪人がここを通ると、タレコミがあった」
脅すように声を低め、声は迫った。声の主はどちらもある程度距離を取ったところまで離れたようで、私は僅かにカーテンを持ち上げ、隙間から外を窺う。
「あれは、」
私は呆然と呟き、息を飲んだ。まだ若い男性だった。背後に十人ちょっとの兵を従えて、コルテラ卿の私兵を睥睨している。
「あれは……えーと」
……誰だっけ?
何か見覚えがあるのに咄嗟に思い出せない私を押しのけて、殿下が外を見た。「ああ、」と納得したような声を漏らす。
殿下と並んで窓枠ににじり寄りながら、私は相対する二つの集団を見守った。後から来た方の人……何か見覚えある人が、視線を鋭くした。
「それが道を封鎖する理由になるとでも? ここは港街であり、国内外からありとあらゆる人間、物品の集まる貿易港です。交通こそがこの街の命、往来を許可もなく妨げられ、それを看過していてはこの港は立ちゆきません」
難しい顔で唸っていると、殿下が「まさか覚えてない?」と私を窺う。私はどちらとも答えられずに「えーと」と言葉を濁した。
コルテラ卿私兵は、腕を組んで身を乗り出す。声を潜め、脅すように語調を荒げた。
「事の重大さを理解していないようだな。……件の異端者と、その関係者が逃亡中と言えば、これがどれだけ大きな使命を帯びているか分かるというものだろう」
「正当な手続きも取らずに、何が『使命』だ」
その噛みつきの早さに、私は「あっ」と口に手を当てた。記憶の片隅に放り込んですっかり忘れていたけれど、そうだ、あの人は確かジルシュア卿の……
「私はラディル・ジルシュア――領主代理です。今すぐここから立ち退くことを要請します。今回の侵略的行為に関しては、私から王に報告しておきましょう」
彼は決然と告げた。門の前での相対に、人目が突き刺さる。それをものともせず、ラディルさんは街とは反対側を厳しく指さす。帰れ、ということだろう。
私は窓枠に手をかけたまま目を輝かせた。――ラディルさんだ! うわ、元気そうで何よりである。そういえばウルティカからも話を聞いていた。
「なるほど、王家との繋がりを選んだか」と殿下が隣で呟く。私は久しぶりに見るラディルさんをじろじろと眺め回す。前の浮ついた感じは幾分か落ち着いて、ちょっとしっかりした気がする。領主になりたいって言ってたし、代理として頑張っているみたいである。
それにしてもちょうど良いタイミングで来てくれたものだ。まるで示し合わせたみたいだった。
それからやり取りが一つ二つ続き、やがて列は動き出した。馬車が街にゆっくりと乗り入れる。私は長い息を吐いて、体の力を抜いた。ずるずると座席をずり下がりながら、胸をなで下ろす。
「はぁ、命拾いしましたね……」
「図らずも恩を作ってしまったね」
殿下もぐったりと背もたれに寄りかかって、疲れた様子である。がたがたと石畳の上を僅かに跳ねる感触を味わいながら、私はカーテンをそっと押しのけた。




