13
体の上を這う感触に、私は意識を浮上させた。頭がずきずきとする。薄らと目を開けて、そうして私はカッと目を見開いた。
「でで殿下、何してるんですか!?」
「え?」
私の服の裾に手をかけていた殿下が、不意を突かれたようにきょとんとする。「アルカ、気分は悪くない?」としれっと顔を覗き込んでくるので、私は思わず両手でその肩を押して、殿下を押しのけた。口を開閉させて、私は唖然としたまま言葉を探す。
「な、何で脱がせようと……」
「だって服濡れてるでしょ? 体冷えるよ」
殿下は馬車の隅に積まれている服を指す。私は勢いよく体を起こした。
「それくらい自分でやります! ったた……」
起き上がった拍子に、頭がずきりと痛む。側頭を押さえて呻く私の背中に手を添えて、殿下が私にタオルを差し出した。
濡れた服は脱ぎづらい。苦労しながら袖から腕を引っこ抜いてから、私は視線に気づいて振り返った。
「……何でこっち見てるんですか」
「ひとときも目を離したくなくて」
じろりと睨んでも、まるで堪える様子がない。窓枠に頬杖をついて、にこにことこちらを眺めている。「着替え中ですよ」と言うと、「うん」と返された。仕方なく、私は最後の手段を使う。
「……隊長に言いつけますからね」
「そりゃ大変だ」
ひょいと肩を竦めて、殿下が反対側を向いた。その隙にもそもそと服を脱ぎ、体を拭いてから新しい服に着替える。用意万端である。大きさもぴったりだ。
「着ました」
声をかけると、窓枠に頬杖をついて外を眺めていた殿下が振り返る。しばらく見ないうちに若干老け……精悍な顔立ちになっている、気がする。随分と心配をかけたことだろう、と思って、私は首を縮めた。
「その……ありがとうございます。色々と」
「……大したことはしてないよ」
殿下は頬杖をついたまま、照れ隠しのように呟く。大嘘である。私はくすりと笑うと、座席に手をついて身を乗り出した。
「殿下にとってはそうでも、私にとっては大したことです」
私の言葉に、殿下は「そっか」と頷く。
「殿下が考えていることを聞かせて下さい。どんなことをしたのか、教えて下さい。私に見えていたのはほんの一部分なんでしょう?」
首を傾ける。私の表情を見て、殿下はしばらく言葉を失ったように呆けた。今更夢見心地から冷めたみたいな顔だった。
「……詳しい、説明は。あとにしよう」
殿下はおずおずとこちらに手を伸ばしてきた。私はその指先を両手で掬い上げて、「はい」と頷く。
「必要な事項だけを手短に伝える。今、僕たちは追われている」
「薄々そんな気はしていました」
やけにスピードを出している様子の馬車からして、ただ事でない様子が漂っていた。超絶な勢いと道の悪さでガッタガタである。舌を噛みそうなので出来れば口を開きたくないくらいだ。
「本来なら、あの神判でアルカは死ぬはずだった」
私は伝言を思い返す。そして小さく首肯した。私は死んだことになるのだろう、と、あれを読んだときから悟っていた。『死んでくれ』と。
「ルセ司祭の手引きのもと、アルカには隣の泉まである程度自分で移動してもらって、こちらで身柄を回収する。ある程度の危険はあったけれど、そうすれば神殿はアルカが死んだものと思う。……そういう計画だった」
流れるように語る殿下の横顔を眺めながら、私は彼がどれほどこの計画を反芻してきたのかを思う。完璧な計画とは言いがたかった。ほとんど博打だ。危険の多い計画であることは、本人も承知の上らしい。それでも、よくぞここまで突拍子もない計画を立てたものだと、私は内心感嘆した。
それでも、と私が目を伏せかけると、殿下も同じように暗い声で呟く。
「でも、駄目だった」
重々しい言葉に、私は頷いた。
「舟の上で、言われました。『ルセ司祭は逃亡した』と」
「……危険を感じたらすぐに身を隠すように言ってあった。良いタイミングだ。ルセ司祭は間諜の才能があるかもしれないな」
単身で話を神判の実行まで持って行き、しかもタイミングを見計らって臨機応変に離脱できる。私には出来なさそうな芸当だ。
殿下は深いため息をついて頭を抱えた。
「舟の上にルセ司祭がいないことに気づいたとき、本当に青ざめたよ」
そりゃそうだろう、と私は遠い目をした。縄に何の細工もなければ、あんなのただの処刑である。
「んで、どういう訳か殿下が自分で湖に飛び込んで」
絶対に咄嗟の行動だろうな、と私は腕を組む。あとで隊長あたりにこってり絞られて欲しい。まさか自ら来るとは思わなかった。
殿下は見るからに気まずそうな顔をしながら、「で、バレたってわけ」と結論を打った。そういうわけで、私たちは追われているらしい。まあ当然だ。
そこで、殿下が首を傾げる。「そういえばアルカ、手の縄……」と不思議そうな殿下に、私は両手を挙げて鼻を鳴らした。
「ルセ司祭がいないから普通に縛られてドボン……のはずだったんですけど、いろいろあって運良く縄が緩みまして」
小馬鹿にした私の声音に、詳しいことは分からないまでも何か察するものがあったらしい。口ぶりからするに、私たちが舟に乗っているところもどこかから見ていたのだろう。「ああ……うん」と殿下は頷く。
私は空っぽになった左手首を指先で辿りながら、ふと鋭い目になって空間を見据えた。
「それで、これからどうするおつもりなんですか?」
まさかこれで終わりではあるまい。殿下が私を死んだことにするだけで計画を終わりにするはずがない。そうですよね、と挑戦的に視線を向けると、殿下はくいっと口角を上げた。
「アルカは、行く先がどこであろうと、僕についてきてくれる?」
「ええ、はい。殿下のいるところなら、私は水の中だって怖くありませんよ」
躊躇いもなくそう答えると、殿下はいたく満足げに息を吐く。私の目を真っ直ぐに覗き込んだ。良いかい、と前置く、その瞳の奥にほのかな憂いを感じて、私はゆっくりと息を飲む。殿下は静かに告げた。
「僕たちはこれから二人で亡命する」
その言葉を数度胸の内で繰り返して、そしてそれから、私は、声もなく微笑んだ。
***
「よろしいですか、ああいう場面で御自ら真っ先に飛び込むのはおやめ下さい。こちらがどれほど肝を冷やしたと」
隊長にくどくどと説教されている殿下を眺めながら、私は小さく笑った。殿下はふて腐れたように項垂れている。ぜひとも反省して欲しい。下手したら二人仲良く湖の底に沈むところだったのである。
普段なら反論の一つでもしそうな殿下が、今日は大人しく甘んじて説教を受けている。それもそうか、と私は息を吐いた。
私たちはこれからゼルキス港を目指す。港とは言っているが、そこは様々な交通手段における要所で、一度入ってしまえばどこから出るか予測するのが難しいところらしい。聖都と王都のちょうど中間ほどに位置する、大きな街だ。
……そして、そこで、イルゾア商会の船に乗る。ヴィゼリー行きの貿易船である。乗るのは私たちだけ。ただ二人で、行くのだ。全てをここに置いたまま。
この件を正面から見つめちゃ駄目だ、と私は目を逸らした。郷愁に駆られるのは、旅立ってからいくらでも出来るのだから。
「お、やっぱり説教されてる」
先輩が馬車の中を覗き込んで笑う。今はほんの休憩時間で、じきに出発しなければいけないのは分かっていた。つかの間の団らんである。
「先輩も入りますか」
「や、これ以上俺が入ったら狭いだろ」
それもそうだ、と頷いて、私は見るともなしに殿下の方を見やった。少しして、ぽん、と頭に手が乗せられる。
「アルカ、お前、ちゃんと殿下を支えるんだぞ」
「分かってますよ」
乱暴に頭を撫でられて、私は思わず唇を尖らせた。ぺいっと手を振り払って振り返ると、上目遣いで睨み上げる。先輩はくいと眼鏡を上げて、目を細めた。
「……この先、俺たちは一緒に行ってやれないんだからな」
酷く案じるような声音だった。虚を突かれて呆気に取られると、先輩は私の頭を鷲掴みにした。視線を逸らさせるように下を向かせる。
「ちょ、わっ」
無言でしばらくの間わしゃわしゃと髪をかき混ぜてから、先輩は長い息を吐いた。
「そろそろ出発しましょう」
「ああ、そうだな」
先輩の言葉に隊長が頷き、説教が終わる。殿下は僅かに目を眇めていた。痛みを堪えるような目をしていたので、私はおずおずと手を差し伸べる。
「殿下、」
普通に呼びかけようとしたのに、やけに弱々しい声が出た。殿下はこちらを振り返った。視線が交わる。同じことを思っているのだと、何も言わなくても分かった。……きっと、隊長の説教を聞くのも、これが最後だろう。
周囲には殿下の近衛が半分ほど控えている。もう半分はカモフラージュのために王都に残してきたと聞いた。蹄の音や馬の荒い息の音が、馬車の中でも聞こえる。すべて終わったら、人も馬もたくさん休んでもらいたい。……私のせいで沢山無理をさせていることだろう。
夜通し走り続け、向かう地平線から光が漏れてきた頃だった。
「まずい、追いつかれる!」
誰かが叫んだ。私は息を飲み、反射的に腰に手をやり、……黙って手を下ろした。殿下がその動きを目で追っていることに気づいて、私は誤魔化すように笑う。
「あはは、いや……つい、癖で」
へへ、と曖昧な笑みで頬を掻くと、思いのほか真剣な表情で、殿下は私を見据えた。
「……アルカは、剣を持っているのが、好き?」
何とも答えづらい質問である。嫌いと言えば嘘になるけど、好きと言ったら何だか血の気が多い人みたいだ。「えーと」と目を逸らした私の頬に、殿下の視線がザクザク刺さる。
「正直に答えて欲しい。嫌なようなら、僕も無理に剣を押しつけたりはしないよ」
「私の剣があるんですか!?」
食いつくように身を乗り出した私に、殿下は苦笑した。分かっていた、と言わんばかりの表情に、私は頬を赤くする。
「……アルカは、城に剣を置いていったから。それが答えなのかもしれないとも思ったけれど、やっぱりアルカは剣が欲しい?」
私は躊躇いがちに頷いた。何も、すぐさま鞘から抜いて振り回したいって訳じゃない。けれど、ただ、
「ずっと、側にあった、より所なので……」
呟くと、殿下は目を伏せて小さく笑みを漏らす。
馬車は勢いを増した。窓から顔を覗かせて背後を見てみれば、確かに、遠くに影が見える。どう見ても行商人とかそういう類ではなさそうである。軍馬のシルエットだった。間違いない、追っ手だろう。こちらは馬車もあって、どうしたってそれほど速度は出せない。
このままではじりじりと追いつかれる。私は歯噛みした。殿下も窓から顔を戻しながら、焦りを滲ませて頭を掻く。
一体どうすれば、と拳を握りしめたところで、「殿下!」と声がした。
隊長が馬車の横に馬をつけて併走しながら、早口に告げる。
「近衛を二つに分けます。半数はここで足止めの後、西方に離脱します」
その言葉に、私は息を飲んだ。「そんな、」と言いかける私を手で制し、殿下は隊長と目を合わせた。
「許可する」
殿下が頷くと、隊長の馬がすっと流れて後ろに下がった。呆然とする私に、殿下は寂しげに笑った。
「ごめんね。……本当なら、もっときちんと別れの場を用意してあげたかった」
「いえ」と私は頭を振る。「分かってます。……分かって、ます」
そんな、甘えたことを言っていられる場合ではないと、きちんと理解している。
間髪を入れず、外で隊長の大音声が響く。手早く指示が出されて、直後、馬車を取り巻く気配が減った。私は窓から身を乗り出す。後方にいた近衛が、手綱を引いて馬の鼻先をくるりと回した。
その人員の中に先輩を見つけて、私はくしゃりと顔を歪める。
「っ先輩! ……シアトス先輩!」
窓枠に縋り付くようにして叫んだ私を、先輩は振り返らなかった。片手を挙げ、親指を立て、ひらりと手を振った。……馬鹿か、こんなときに格好つけてどうするんだ。最後に、一度くらい、顔を見せてくれたって良いのに……!
馬車は走る。私たちは進む。もう声も届かない距離まで、その姿が遠ざかる。どうせ聞こえない。分かりきっていたけれど、私は大きく息を吸い、声を限りに叫んだ。
「――今まで、たくさん、ありがとうございました!」
朝日の中で、道半ばに立ち塞がり、追っ手を迎え撃とうとする近衛の姿だけが、殺風景な地平線に浮かび上がっていた。
ゼルキス港まではもうそれほど距離はない。私は唇を噛んで、馬車の壁を見据える。殿下は無言で、座席の上に置かれたままの私の手に、そっとその手のひらを重ねた。今更、野暮な慰めの言葉なんていらない。
「……いきましょう、殿下」
「ああ」
ぎゅっと、殿下の手が私の手の甲を強く包み込む。私は頭を垂れ、きつく目を閉じ、一瞬だけ、嗚咽を漏らした。
日は完全に昇った。ゼルキス港の一つ手前の街を脇目に、街道を走り抜ける。海が近づいてきたのだろう、辺りはいつのまにか草の海になっていた。草原を裂いて伸びる道を、私たちはひた走る。
――そして、私たちは、ゼルキス港に到着した。




