わたしのかみさま
冷たい水に全身を包まれる。白い泡沫が、いくつも、数え切れないほどの塊、筋になって、立ちのぼってゆく。沈むは私ばかりである。身につけていた服はぴったりと体に張り付き、裾や袖は身じろぎするたびにまとわりついて、心底煩わしい。
私が行動を起こすのは早かった。思い切り腕をよじり、手首に巻き付いた縄を緩めてゆく。
(まずい)
思いのほか、重石が沈むのが速かった。縄の先にくくられた石は、私より遙かに素早く底を目指す。手首の縄が取れるより早く、ぐん、と足が引かれた。
水の中は冷たく、暗い。私はぎゅっと唇を引き結び、息を止める。ずるずると底に向かって引きずられてゆく。私は重石に逆らえない。
(まずは手の縄だ)
手を解いて、それから、足だ。――果たして私にそんな芸当が出来るだろうか?
耳の底でどくどくと心臓の音が響く。水中という環境に、自分が半ば恐慌状態に陥っていることは自覚していた。これまで直視しないできた恐怖が、急激に襲ってくる。
――私は、ここで、死ぬのか?
不吉な疑問が浮かんだ瞬間、私はがむしゃらに体をよじっていた。口から肺の中の空気が漏れ、水面に向かっていくつもの泡が上ってゆく。余計な体力を使ってはいけない。頭では分かっているのに、体はどうしようもなくばたついた。
息が苦しい。これまで何度も絶望するような出来事はあったけれど、こうも命の危険を感じるものはなかった。水音はない。聞こえるのは自分の心臓の音ばかりである。
たすけて。口からごぽりと泡を吐きながら、私は動きを止めた。
たすけて。私はその祈りを誰へ向ければ良いのか分からない。神へ祈れば、こんな状況すらも打破できるとでもいうのか? そんなはずない。私はむしろ、そんな奇跡など有り得ないと信じたいのかもしれなかった。
……だって。
祈れば助けてくれるのなら、どうしてみんな、死んだのだ。私の目の前で、みんな、呆気なく死んでいった。正しい人が救われるなんて嘘だ。嘘だ。この世界に、神の意志なんてない。すべては偶然だ。誰にも定められることなく進んでゆくものごとに、私たちが後から意味や運命、奇跡を見いだすだけ。私たちに先立つ意志など、何一つとしてありようがないのだ。
……そうでなければ、彼らが浮かばれないではないか。
――神とは、何だ。
遠い水面に、小舟の影が浮かんでいる。ゆっくりと頭上から離れてゆく。それを見送りながら、私はどこか超然とした意識で考えた。
私が本当に正しい人間なのならば、ここで私は神に救われるのだろうか。私が救われないのは、本当に私が神を愛していないからなのだろうか。
――常に共にあるもの。いつか行き着くところ。
どうして神は私を選んだのだ。殿下の神託で不具合が起きていたかなんて、誰にも分からない。それを量るはずの神判はこのざまだ。どうして、どうして……。
(私には、神が分からない)
どれほど考えても見つけられない。私には神が見えない。聖火を見ても、豪奢な神殿を見ても、目の前で黄金の輪が消えるのを目の当たりにしてまで、私はその向こうに神の姿が見えない。
――私たちを、救ってくださる、もの。
とん、と水底に重石が触れたようだった。下降が止まった。はらりと腕から縄がほどけ落ちる。
そのとき、底に、光が射した。柔らかな筋となり、音もなく降り注ぐ。水の中が見えた。こうして見れば、なるほど確かに、透明度の高い綺麗な湖だ。私は漠然とそんなことを考えた。落ち着いた、というよりは、呆気に取られたと言った方が正しそうだ。
水は突如として柔らかさを手に入れた。髪が浮き上がり、頬を撫でる。泥や石混じりの水底より僅かに上に浮いたまま、私は辺りを見回していた。
空が晴れたのだろうか。もがくのをやめて上を見やった私は、そこで見つけたものに、自分の目と頭を疑った。息ができない。そろそろ頭がくらついてきていた。……私は、幻をみているのだろうか。
『でん、か、』
呆然と呟く。声は音にならず、息として上っていく。それでも呼ばずにはいられなかった。
『……っ殿下!』
水を掻いて、その人影が近づいてくる。私は手を伸ばした。
光が広がる。足は戒められて大きな石に繋がれ、ろくに動けない。それでも私は体を必死に伸ばし、手を差し出す。
両足を揃えて上下に動かし、私は僅かに浮上した。真っ直ぐに左手を上へ差し伸べる。殿下は咥えていた短剣を片手で取り、反対の手をこちらに伸ばした。絶え間なく揺らめく水面を背景に、眩いばかりの光を帯びたその輪郭を、目に焼き付けた。
水を割る陽光の中で、何よりも大切なその人が浮かんでいた。艶やかな黒髪を透明な水に揺られるがままにして、静かな眼差しをこちらに向けていた。目が合う。彼は悠然と微笑んだ。
まばゆい光を背負って私を見据えるその姿は、どこか温かく、それでいて神々しいものに思えた。
――神というものが、私たちを救ってくれるのなら、
体をくねらせ、私は上を目指す。一心不乱に手を伸ばす。それ以外のことは何も考えられなかった。
――私を救ってくれるものが、神様だというのなら、
ようやく、ひとつの結論を、見つけた。すとんと何かが胸の内に落ちた。その瞬間、明るい水底で、きらりと何かが輝く。
(うでわ、)
左の手首。四年あまりの間、ひとときも離れることなくそこにあった、黄金の輪。神託の腕輪。それが、ふわりと緩み、水の中に浮かび上がる様子を、私は声もなく見つめていた。まるで何かを示すかのように私の目の高さにしばし漂い、それから、ゆっくりと沈んでゆく。緩やかに回転しながら底を目指す腕輪を、私は追わなかった。沈んでゆく腕輪から目を離し、私は更に手を伸ばす。
――――私の神様は、あなた以外にはいないのだ。
指先が触れ合う。一瞬のすれ違いののち、手のひらを掴まれた。強く引き寄せられ、視線が重なる。それだけで十分だった。
ようやく、会えた。胸の奥で、じわりと明るい熱が灯る。
『アルカ』
その唇が私の名を呼ぶ。私は大きく頷いた。温度のない水の中で、彼だけが熱を帯びていた。
殿下は私の手を離し、一旦潜って私の足下に寄る。短剣で私の足の縄を切ろうとするが、どうにも手際が悪い。しびれを切らして、私は殿下の手から短剣を奪い取った。こういった得物は私の方が慣れているだろう。
縄に指先を走らせ、きつさを確かめた。足に巻き付いている部分を切るのは危険だから諦める。勢い余って足を切りそうだ。重石に続く縄に、幾度となく剣先を突き立てる。ほとんど引き千切るような体で縄を切り離すと、私は殿下を見た。
短剣を放る。手を引かれ、導かれるがままに、私は水面を目指した。
「っは、は、はぁ、げほ、っ」
腕を掴まれ、水の中から引きずり出される。草の上に突っ伏したまま、私は激しい咳と荒い呼吸を繰り返した。空気が足りず、動けない私を、誰かが仰向ける。いささか強すぎる力で頬を叩かれ、私は抗議の意思を込めて呻いた。
「アルカ、無事か」
先輩の声だ。私が小刻みに頷くことで応じると、腕を引かれて体を持ち上げられる。地面から足が離れ、頬に熱が触れた。背負われたらしい。
「走るぞ」
「は、い」
力強い歩調を体で感じながら、私はぼうっと周囲を見渡す。森の中を走っていた。どこへ向かうのだろう。そこまで考えたところで息が詰まり、私は再び激しく咳き込んだ。
「おい、あそこを見ろ!」
遠くで誰かが叫んだ。「急げ!」と近くで隊長の声がした。目を開けると、殿下を背負った隊長の横顔が見えた。
私は肩を上下させ、必死に息をする。視界が白くぼやけ、何も考えられない。ただ、緊迫した事態だけを肌で感じ取っていた。
どれほど走っただろうか。慌ただしい気配が近づき、私はどこかに下ろされる。
「馬車……?」
ずいぶんと用意が良い。そう思ってから、そんなのはここに殿下たちがいる時点で分かりきっていることだ、と考え直す。未だに収まらない心臓を押さえたまま、私は幾分か落ち着いた呼吸で呟いた。
「一体、何が……」
「話は後だ」
ばたん、と馬車の扉が閉じられた直後、体の下で車輪が動き出す気配がする。私は馬車の座席に横たわったまま、目を閉じた。




