7
雪の中を通り抜けて、私たちは王都から馬車で半日ほど離れたところにある高原にたどり着いた。
「あの森の中に別荘があるんだってさ」
「へぇー……」
窓に張り付いたまま、私は一面の雪景色を遠くまで眺める。馬車が動けるということはそれほどの積雪でもないのだろうが、人の立ち入った形跡のない高原は、一点の曇りもなく冴え冴えと白く光っていた。
「私、雪が降るようなところで生まれ育ってないので、何だか嘘みたいに見えます」
「ジゼの方は内陸だもんな」
先輩もあまり雪は見慣れないらしい。腕を組んで、興味深そうに外を見ている。
「先輩は南の方ですっけ」
「南の港町だ。雨は降るが、雪はとんと」
雪に慣れない二人で雪景色について語っても、大して何も出てこない。「白い」「滑らか」「寒そう」と一通りの感想が出尽くしたところで、話題は途切れた。
しばらく黙り込んだまま馬車に揺られた。先輩は足を組んだまま背もたれに寄りかかって目を閉じている。私は何をするでもなく、窓に頭をつけて、ぼうっとしていた。
左肩の調子は依然としてあまり良くない。まあ、剣で貫かれたのだから当然か、とため息をつく。何かやばい筋が切れているということはないらしいので、まあ……運が良かったのかなぁ……。
森に入り、景色が一変する。雪原に比べると、木立の中は薄暗い。私は視界を流れてゆく木々を見送りながら、ゆっくりと目を閉じた。
「着いたぞ、起きろ」
腕を叩かれて、私は慌てて目を開ける。馬車は止まっていた。
荷物を持って、馬車から降りる。雪を踏む感触がした。大して深くはない。
「はぇー……ここが別荘……」
流石は王家の別荘である。そこらの屋敷より普通に大きい。門の前に立ってまじまじと建物を眺め回してから、私は玄関に向かって歩を進めた。
ここで働いている、……というよりは、今回の為に派遣されたのだろうが、数人に出迎えられて、簡単な挨拶を交わす。
「ありがとうございます、何か、その……色々と」
私が縮こまると、身の回りの世話をしてくれるというエルタさんは「いえ」と微笑んだ。
「久しぶりの平和なお仕事でほっとしておりますわ」
「え?」
「これからしばらく、よろしくお願い致します」
エルタさんはにこりと微笑むと、「中を案内いたしますね」と片手を挙げて、私を促すようにして歩き出した。その足運びをちらと見ながら、なるほどと内心で頷く。どうやら相当に厳重な人選らしい。
恐らく、この冬はここで越すことになるだろう。窓の外は冬の森であり、この別荘の特性からしても、周囲から隔絶された感は否めない。
……まずい、私結構寂しがってるな、と心の中で呟きながら、私はエルタさんについて屋敷の奥に足を踏み入れた。
***
拍子抜けするほどに穏やかな日々が続いた。暖炉のある部屋でのんびりと時間を過ごし、時折、薪割りやら食事の準備やらに顔を出す。何というか、……余生みたいな気分である。
私は暖炉に手をかざしながら眉根を寄せた。
「……こんなにぐうたらしていて良いんですかね」
「大丈夫ですよ」
料理長がソファに寄りかかりながら頷く。気の抜けた表情に、思わず私まで脱力してしまう。まったく、と頬を掻いたところで、エルタさんが取り込んできた洗濯物を抱えて部屋に入ってきた。
「たたむの手伝いますよ」
「そうですか? ありがとうございます」
手持ち無沙汰を理由に手伝いを買って出た私は、数分後、エルタさんにこれ以上の手伝いは無用だと追い出された。
「アルカ、お前、どうやったらこんな芸術的なたたみ方が出来るんだ?」
私がたたんだ……たたんだつもり、の洗濯物をつまみ上げながら、先輩が呆れたように呟く。私はふてくされて唇を尖らせる。
「この方が時間短縮になると思って……」
「申し訳ないけど何を言っているのか分からないな」
ばっさりと切り捨てた先輩にぶつくさ文句を投げつけながら、私は暖炉の前まで戻った。料理長が私の惨劇を眺めながら、けらけらと笑っている。
「今日の夕飯の下準備が終わりましたよ」
「おお、ありがとな」
「料理長だって手伝って下さいよぉ! 僕ばっかり準備させられてるじゃないですかぁ」
厨房の方から顔を出した少年が、料理長を指さして地団駄を踏んだ。自分で料理長の弟子を名乗っている少年である。名前を教えてくれないので便宜上、弟子君と呼んでいる。
「何を言う。その準備の日々が、いつか立派な料理人への道になるんだぞ」
料理長はしたり顔で人差し指を立てる。弟子君は全く信じていない顔で「えー」と腕を組んだ。
「だったら更なる邁進のために料理長も下準備するべきじゃないですか」
「俺は良いんだよ、俺は」
ごろんとソファに横になった料理長に、弟子君が「もう!」と拳を握る。基本的にこの二人はこれが日常である。
何とも穏やかである。王都からの連絡はあまり入らない。だから私は状況がほとんど分からない。
そのまま日々は続き、いつしか雪は全て解けていた。
***
城内はしんと静まりかえっている。外では小鳥が盛んに鳴き交わし、咲き初めの花が庭園を彩っている頃だった。うららかな春の日である。それなのに、城の中は、固唾を飲んで重く凝っている。
窓の向こうをちらと見下ろしながら、この光景を見ればさぞかし喜ぶであろう婚約者の顔を思い浮かべた。
「……神殿には、一般人を連行する権限はない」
周囲から突き刺さる視線を黙殺して、ユリシスは静かに呟く。
「王家と神殿は管轄を違えている。互いに干渉をしないのが原則だ。王家は神殿の行う宗教活動に、神殿は王家の施政に口を出してはならない。違うか」
幼い頃から背中を預けている近衛隊長は、半ば独り言のようなユリシスの言葉に「いえ」と頷いた。ユリシスは目を細めて、廊下の先を透かし見る。誰もが壁際に寄り、まるで死人を見送るかのような静寂である。
葬送のごとき列をちらと見やった。ほとんどが、視線を合わせぬように目を伏せている。息を整え、心を必死に平らに撫でつけながら、ユリシスは起伏のない声で呟く。
「例外として干渉を認められている事例は限られている。……例えば、王の譲位の際に定められる選王卿。大司教の選定の際、手続きとして大司教を任命するのは在位の王だ。他にも」
仄暗い目をして、ユリシスは一度言葉を切った。
「司教以上の聖職者が被告である裁判。王族が被告である裁判。あとは、」
こつり、と靴音を響かせて、渡り廊下を闊歩する。半歩後ろを歩く隊長が、同じ顔を思い浮かべているのは分かっていた。
「――神託」
神殿には一般人を連行する権限はない。裏を返せば、一般人でない人間――王族を召喚する権限はあるのだ。それは、干渉を認められる条件を満たしている場合のみの話だが、
「はぁ、……してやられたな」
人気のない廊下まで来たところで、思わず項垂れる。額を押さえて、ユリシスは深々とため息をついた。
拒否権はない。拒否はすなわち反逆を意味する。国の制度である。国を治める王族に、法を無視するという可能性は、万の一つも残されてはいない。ユリシス自身とて、直系王族の家系に生まれ落ちてこの方、自らの立場を常に意識し、矜持を保ってきたつもりである。その誇りを今更踏みにじるつもりは毛頭ない。自分たちの立ち居振る舞いとはすなわち王家の権威を保つための手段であり、ひいては安定的な施政に繋がるものだと、理解しているつもりだ。
「殿下、本当に、」
背後で隊長が躊躇いがちに呟く。
「僕は逃げられない」と答えると、主君を第一に考えるはずの近衛の長は、重たげなため息をついた。
「……アルカが、泣きますよ」
「アルカはこういうことでは案外泣かないよ。むしろ、泣いて大人しくしていてくれれば、どれほど良いか」
何をするのか分からない不安定さを、ずっと持ち合わせている。痩せぎすの少女だった頃から、近衛として剣を授かったときから、ずっと。今に何を擲つか分からない。明るい表情の裏に、常に仄暗いもののある女である。それを不意に目の当たりにするたび、胸を満たすのはいつだって、恐れにも似た感情ばかりだった。
「アルカには、教えなくて良い。……何もだ」
「後に知ったとき、どれほど怒ることか。守るというのは何も、情報から遠ざけることばかりではないのですよ」
耳の痛い諫言に、ユリシスは一度天井に視線をやってから、軽く肩を竦めた。
「……それでも、僕は、こういう姑息な手段でしかアルカを守れない」
「殿下」
心底呆れた様子で、隊長が額に手を当てる。その様子を視界の端で眺めながら、言葉にはせず、内心でぼやいた。――仕方ないじゃないか、僕だって怖いのだ。
自分の窮地の際、何をするか分からない婚約者の存在とは、存外恐ろしいものである。躊躇いもせずに肩を貫かれる姿を目の当たりにすれば、なおさらだ。それなら、何も知らずに笑っていてくれるうちに全部片付けてしまった方が安心に決まっている。
隊長は苦言であることを隠しもしない調子で告げた。
「お言葉ですが、アルカをもう少し信用してやっては如何ですか。あれももう二十歳を超える女です」
「そうだね。この件が終わったら、少し考え直してみよう」
にべもなく撥ねのけて、ユリシスは一度立ち止まり、隊長を振り返る。
「良いか。これはお願いではないし、ましてや提案でもない。――命令だ」
硬い声で告げると、隊長は目に見えて不満げな顔で「はい」と胸に手を当てた。
「アルカ・ティリに一切の情報を流すことを禁ずる。僕が大神殿に召喚されたことも、その理由も、すべてだ。分かったか」
僅かに顎をもたげ、自分より体格の勝る武人を睥睨する。返事を迫るように視線を鋭くすると、隊長はややあってから、重々しく頷いた。
「……御意に」
「それで良い」
軽やかに踵を返し、再び廊下を歩き出す。正面玄関、神官たちの待つその場所に向かって、一歩ずつ、着実に近づいてゆく。
数日をかけて、ユリシスは国内で最大規模を誇るもう一つの都市へと連行された。
――聖都。敬虔な信徒、すなわち、神を愛し、神に愛された人間のみが住むことのできる、清浄なる都である。神に愛されたが故に、恵まれた境遇に自らを置くことのできる人間のための、白く気高い、都。
かつてはこうじゃなかった、と内心で呟いても、在りし日の聖都の姿をこの目で見たことがある訳でもない。所詮はそれも幻想か。
都を見下ろすようにそびえ立つ大神殿。それを仰ぎながら、ユリシスは神々しさに圧倒されるように目を細めた。
……思えば、こんな日はいつか来るような気がしていたのだ。何とか綱の上を上手に渡り切れまいかと願ってはいたものの、予測の出来ないことではなかった。
「僕は、ずっと問いたかった」
誰に告げるでもなく呟く。答えるものはいない。
「――神とは、何だ」
それを見失った頃から、何もかもが定まらないような心地を抱えて、歩いてきたのだ。
ユリシスは奥歯を噛みしめて目を伏せた。
「神に依って成り立つこの国に生まれ育ちながら、僕は、そんな簡単な問いの答えすら……」
***
白い花が、一面に広がっている。冬でも春でも白々とした高原だ。でもそこにある柔らかさが全然違う。
「すごい、きれい……」
私は風に煽られて膨らんだ髪を押さえながら、眼前をどこまでも続く高原を見渡した。森を抜けて、道のない平原に足を踏み入れる。
「転ぶなよ」
「流石にそこまではしゃぎませんもん」
先輩の失礼な忠告にむっとしつつも、私は足下に気をつけて歩き出した。花を踏まないようにはしたいものの、多分気づかないうちに踏んでそうだ。それくらいに密集した花が、見渡す限りの高原を覆っている。
「春ですねぇ」
弟子君が頭の後ろで手を組んで、のんびりと呟く。どこか遠くの山から鳥の鳴き声が届いた。
「今度、外でお昼ごはんを食べるのも良いですね」とエルタさんが微笑む。私は大きく頷いて、胸いっぱいに息を吸い込んだ。爽やかな風である。踊るような足取りで進むと、私は薄らと雲の走る空の端を眺めた。
「――殿下と一緒が、良かったな」
誰に言うでもなく言葉を漏らす。駄々をこねるつもりなんかではない。ただ、……この光景を、私だけが見るのは、あまりに勿体ない気がした。今にも振り返って、『綺麗ですね、殿下』と口走ってしまいそうな自分がいることを、私は明確に意識していた。
「今頃、お城でも花が咲いている頃ですかね」
そして殿下は、それを、見ているだろうか。窓際に佇む殿下の、その表情の移ろいのひとつひとつまでもを思い浮かべながら、私は目を眇めた。遠くに霞む稜線をぼんやりと望む。
「殿下に、自慢しなきゃ。凄く綺麗な花畑を見ましたって。来年にでもまた、一緒に行きましょうって、言おう」
背後で先輩が息を止めたような気配を感じた。
「……どうかしましたか?」と振り返ると、先輩はいやに歯切れ悪く「いや」と首を振る。その表情に後ろめたさを感じて、私は眉をひそめた。
「殿下に、何かあったんですか?」
先輩が顔を歪めた直後、エルタさんが「いいえ」と柔らかく告げた。
「何もございませんよ。便りがないのは良い報せですとも」
にこりと目を細めたその表情に、私は言葉を選びあぐねて黙り込む。エルタさんの言う通りだ。それは分かっている。……けれど。
「――何か、嫌な感じが、するんです」
私は風のそよぐ高原の中、足を揺れる花弁にくすぐられながら、静かに呟いた。何の確証もない、虫の知らせにも満たない違和感だった。
「皆さん、私に、何か、隠していることは、ありませんか?」
心細さの滲む声で、私は囁く。料理長は屋敷に残っている。それ以外の全員が今、この場に集まっていた。私はぐるりと彼らを見渡し、喉を詰まらせた。私の味方はこの人たちだけである。もしも彼らが何かを黙していても、私にそれを知る術はない。
「アルカ」
先輩は凪いだ視線で私を見据えた。私はその視線を静かに受け止め、唇を僅かに開く。
「せんぱ、」
「そろそろ戻りましょう。昼食もできた頃でしょうから」
エルタさんが不意に快活な声で告げ、手を合わせた。私ははっと我に返って目を見開く。
「はい」と頷いて、私は自分が何を言おうとしていたのか忘れた。




