3
翌日、私は殿下の部屋で暇つぶしに剣を磨いていた。ここ最近とんと携える必要のない生活を送っているが、もう何年間も毎日持ち歩いていた癖で、今でもどうしても携帯してしまう。
乾いた布で剣の腹をせっせと磨いている私に、殿下が不安げな声を出す。
「間違ってソファとかに刺さないでね」
「そんなヘマしませんよ、……おっと」
「言った側から!」
つるりと手を滑らせると、殿下は血相を変えた。「気をつけてよ」と殿下は腰を浮かせかけて、思い直したように座り直した。
よくよく考えてみれば、私は剣に見慣れているけれど、殿下はそうでもないもんね。私は目を伏せて手の中の剣を見下ろす。
「……殿下は、私が剣を持ってるのは、あんまりですか?」
「別に、僕は剣を握っているアルカも好きだから、何とも。……取り扱いには注意して欲しいと思うけどね」
殿下は頭を振って肩を竦めた。私はその様子をじっと眺め、それから小さく頷く。剣を掲げ、鏡ほどではないものの、僅かに周囲を反射するその腹を眺める。私の目がこちらを覗き込んでいた。
「私、ずっと近衛のままではいられないって分かってはいるんです。でも護衛官をやめたら、私、無職になっちゃいますよね。お城では他にやることもないし」
ため息交じりにゆっくりと剣を鞘に収める私を、殿下は頬杖を突いて眺める。ややあって、殿下はこともなげに応じた。
「……そのうち、僕は、城を離れようと思っているから、」
「い、家出!?」
「違うよ」
目を見開いた私を尻目に、殿下はどこか遠くに視線をやったようだった。
「譲位の話が出るよりももっと前に、どこか、王都からも聖都からも遠い場所に領地でも貰って、そちらに行こうかと考えている」
淡々と語る殿下を、私はしばらく呆然と眺めていた。言葉を選びあぐねている私に目を移すと、殿下は照れ隠しのように頬を掻く。
「……そしたら、アルカ、君はついてきてくれる?」
「もちろん!」
勢いよく頷くと、殿下は笑みを深めた。
「殿下のゆくところならどこだってお供しますよ」と真っ直ぐに殿下を見つめて告げると、殿下は「ありがとう」と囁くように応えてくれた。
「アルカ、おいで」
手招きされて、私はいそいそと殿下に近寄る。「あげる」と手渡されたお菓子に頬を緩めると、殿下は心底満足そうに息を吐いた。
すっと、音もなく殿下の手が伸ばされる。その指先が頬に触れるか触れないかといったところで、鋭いノックの音が響いた。
息を飲んで、私は殿下から一歩離れる。殿下の表情が一瞬にして引き締まった。部屋の中の空気が硬化したのを肌で感じる。私は思わず腰の剣に手を当て、僅かに腰を低くした。じっと扉を見据える。
殿下は一呼吸置いてから、短く応じた。
「入れ」
「失礼致します」
扉が開け放たれる。青ざめた表情の文官が、肩で息をしてこちらを見据えていた。
「一体何が、」
「――大神殿より、使者が」
私が呟きかけた直後、文官は息も絶え絶えに告げる。殿下が目を見開いた。がたりと音を立てて立ち上がり、「用件は」と鋭い声音で問う。
文官は首を横に振った。
「それは、まだ」
「……今行く」
殿下は椅子にかけていた上着を羽織ると、早足で歩き出した。当然のようについていこうとした私を、殿下が片手で押しとどめる。咄嗟に眉をひそめた私を見下ろして、殿下は抑えた声で言い聞かせるように命じた。
「アルカは、ここで、待っていて」
「でも、きっと、私のことです。それなのに私が行かなかったら」
「だからこそだよ」
殿下は真剣な表情で私の両肩を掴んだ。気圧されて一瞬口をつぐんだ私に、殿下はぎこちなく微笑んだ。
「すぐ戻ってくるから」
そういう、問題じゃ、ない。私は拳を握りしめる。
殿下は颯爽と歩き去ってしまった。「シアトス、アルカを」と廊下で殿下の声がして、数秒後、ひょっこりと先輩が顔を覗かせる。
「アルカ、」
部屋の中で立ち尽くしたまま動かない私を見て、先輩が怪訝そうに歩み寄ってくる。私は奥歯を噛みしめて、じっと床を睨みつけていた。
「おーい、息してるかー?」
顔の前で手を振られ、私はその手首をがしっと掴む。顔を上げると、先輩は思いのほか神妙な顔をしていた。
「……アルカ。お前の気持ちは分かるよ」
「先輩には、分かりません」
にべもなく応えた私に、先輩は「言ってくれるなぁ」と腰に手を当てて嘆息した。
「全部、私のことなのにっ、……私、何も出来ない」
唇を噛むと、先輩は眉を上げる。「馬鹿」と頭を小突かれて、私は顔をしかめる。
「……確かに、それは事実だ。この件に関してお前に出来ることは特にない」
「うっ」
わざわざ明文化してくれなんて言ってない。ダメージを食らって胸を押さえた私に、先輩はさらりと告げた。
「で、それがどうした」
「んん? いや、だからその」
「少なくとも殿下は自分の意思でお前の為に動いているんだ。お前が無理矢理やらせてる訳じゃないんだろ」
そりゃもちろん、と頷いた私の前で、先輩は腕組みをする。
「なら、ありがたく受け取っておけ。逆に訊くが、お前は殿下の為に何かするとき、見返りでも求めているのか」
そんなことない。私は俯く。同じことだ、と先輩は言いたいのだろうが、だからといってすんなりと納得は出来なかった。
「……たとえ、何も出来なくたって、側にいたいと思っちゃ駄目なんですか」
「そういうのは二人のときにやってくれ」
ばっさりと切り捨てた先輩は、ちらと廊下の方を見やった。
ごほん、と咳払いをすると、先輩はあからさまに明後日の方向を見ながら大きな独り言を呟いた。
「……あー、そういえば、玉座の間の脇にある小部屋って、結構壁が薄くて隣の音とか結構聞こえるんだよなー」
「……?」
いきなり何を言い出したのか、と愕然とする私をちらちら見ながら、先輩は盛大に顔を背ける。
「俺、権力者の命令に弱いからなー、王族の婚約者とか超怖いし、命令されたら逆らえないだろうなー」
嘘つけ、と私はじろりと先輩を見据える。先輩はひょいと目を逸らした。……まあ、言わんとしていることは知れた。私はしばらくの間渋い顔で黙り込むと、腰に手を当てて毅然と顔を上げる。
「わ、私を、その小部屋まで連れて行きなさい」
「ん? アルカのくせに生意気だな」
「……お願いします」
自分から催促したくせにこの言い草である。ほとんど舌打ちをするように付言すると、先輩は親指を立てた。
***
「申し訳ありませんが、その要求には応えかねます」
殿下の硬い声が耳に入り、私ははっと息を飲んだ。
「先輩、今の声ってでん」
「おい、あっちの音が聞こえるってことは、こっちの音も向こうに聞こえるんだからな」
先輩に低く囁かれて、私は慌てて口を手で塞ぐ。背伸びをして天井近くの小窓からそっと様子を窺うと、殿下の横顔が目に入った。
陛下はいない。王妃様は椅子に座ったまま、悠然と場を眺めていた。
白い法衣は、聖職者の証である。いまいち知識がなくて分からないが、一般的な司祭が着ているものとは形が違う。多分もう少し高位――司教くらいだろう。
司教は険しい表情で殿下に詰め寄る。
「それでは、王家は異端者を擁護する、と」
「先程ご自分で仰った言葉をもう一度振り返ってみては? あくまでも『異端であるか否かを審議する』として彼女を召喚すると言っておられたはずです。それなのにもう異端者扱いとは、……まるで、端から彼女が異端であると決めつけているような物言いですね」
殿下は薄ら笑いを浮かべたまま司教を見据えた。頬を吊り上げたまま、殿下が肩を竦める。
「公正な判断が望めないのであれば、こちらとしても、大切な婚約者をやすやすと預ける訳にはいきません」
ふ、と視線を鋭くして、殿下は使者として使わされた司教を見据えた。それはほとんど睨むような表情で、口元に僅かに引っかかった笑みなんてまるで意味がなかった。
司教は一瞬たじろいだような様子を見せたが、すぐに表情を険しくして反駁する。
「しかし、大神殿には異端を取り締まる義務があります」
「神に選ばれた存在に異端の疑いをかけるのは、それこそ異端的な行動なのでは? 不思議とお忘れのようですが、彼女は紛れもなく僕の託宣人ですよ」
淀みなく切り返す殿下を小窓から眺めながら、私は「はぇー……」と声を漏らした。
「これって、本当に私の話なんですか?」
「お前の他に、どこに殿下の託宣人がいるんだ?」
先輩と顔を突き合わせてひそひそと話していた矢先、不意に殿下の視線がこちらに滑らされた。咄嗟に頭を引っ込めたので、多分、ギリギリ気づかれていないと思う。
「……何だか、私じゃない誰かの話をしているみたいで、変な感じです」
私は壁に額を押しつけたまま、小さく呟いた。先輩は「ふーん」とだけ応え、視線を戻す。
「神殿には一般人を強制的に連行する権限はありませんし、託宣人の進退に関しては全て王家の管轄です。そちらの要求に応えることは出来ません。どうぞお引き取りください」
殿下はきっぱりと告げた。もう話すことはないと言わんばかりに目を背け、腕を組む。司教は何やら言いつのっていたが、殿下が一言二言返すと、険しい表情で押し黙った。
「――本当に、よろしいのですか」
低く囁かれた言葉に、殿下は悠然と微笑んだ。ちらと背後の王妃様を振り返ると、王妃様も無言で頬を緩める。
「構いません。……ご存知でないかもしれませんが、私たちにも矜持というものがあるのですよ」
柔らかい表情、声音だったが、その実、目の奥だけは静かに冷えていた。王妃様は肘掛けに置いた指先をとんとんと上下させ、ゆったりと目を細める。
「それが分からないのなら、神に問いなさい。それがあなたたちの本職でしょう。けして一つにはなれない無数の他者の中に、尊ぶべき光を見いだせないくらいなら、人を導くのはおよしなさいな」
その言葉に、司教はぐっと歯を食いしばった。憎々しげな視線を平然と受け止め、王妃様は司教を見下ろした。
玉座の間を辞した司教を見送り、それから少ししてから、殿下も部屋を出たようだった。それを見送って、私は浮かせていた踵を下ろす。ふぅ、と息をついた矢先、背後で先輩が息を飲んだような気配がした。
怪訝に思って振り返ろうとした瞬間、肩に手を置かれる。
「……アルカ。僕、待っててって言わなかったっけ?」
「ギャー!」
横から顔を覗き込まれ、私は飛び上がった。さっきまで隣の部屋にいたはずの殿下が、いつの間にかすぐ後ろにいた。肩に置かれた手に力がこもる。私の体を地面に押しつけたまま、殿下は先輩を振り返る。
「シアトス、どういうことなのか説明しろ」
「王族の婚約者の命令には逆らうことが出来ませんでした」
「ちょっ、」
自分で命令しろって言ったくせに……!
先輩の姑息な手に引っかかってしまったことに気づいたは良いものの、今更弁明もできない。ぐむむと唸って歯ぎしりをする私を見下ろして、殿下に見えない角度で先輩がせせら笑う。
殿下は腰に手を当てて人差し指を立てた。
「アルカ、権力は振りかざすものじゃないよ」
「うぅ……」
がくりと項垂れた私を数秒眺め、殿下はため息をついた。
「……とはいえ、どうせシアトスに引っかけられたんだろうけど」
「ご明察!」
両手を打ち合わせてぱっと表情を輝かせた私を、殿下はじっと見つめた。僅かに批難するような視線に、私は肩をすぼめて小さくなった。
「アルカ、何か言うことは?」
「ごめんなさい……」
私だって、自分がノコノコとそこら辺を気軽に出歩ける立場じゃないことくらいは理解している。特に神殿から使者が来ているタイミングともなればなおさらである。
「結局、どういう用件だったんですか? 私の身柄をよこせとかそんな感じですか」
気を取り直して殿下に向き直ると、殿下は難しい顔で頷いた。腕を組んで、殿下は私から目を逸らす。
「ついに直接の申し立てだ。公式なものだし、こちらがそれを撥ねのけたのも公的な対応だし、これから軋轢は本格化するだろうね」
「そんな……私のせいで」
私は思わず青ざめた。殿下は平然と肩を竦める。
「これはもうアルカがどうこうというだけの話じゃないんだ。ただ建前としての槍玉に挙げられているのがアルカだというだけで」
「それが嫌なんです……」
ぶつくさと指先を突き合わせる私に、殿下は「うん」と静かに頷いた。
人通りの少ない通路を選んで殿下の部屋まで連行……案内して頂くと、殿下は後ろ手に扉を閉めた。ふぅ、と息をついて、殿下は気まずい表情の私を見る。
「……すみませんでした」
「それはもう聞いたから良いよ」
殿下は肩を竦めた。「僕のやりかたもまずかったし」
殿下はすたすたと私の横を通って、自身の机に向かう。机の縁に寄りかかって、殿下は考えこむように腕を組んだ。
「これからしばらく僕たちに出来ることはない」
「どうなっちゃうんですか……?」
「向こうの出方を見るしかないよね」
私ばっかり肝を冷やして、何だか殿下はあっけらかんとしている。私にもその余裕が欲しいものである。そう思って視線を落としたところで、私は殿下の指先が震えているのに気がついた。それもそうだ、と私は唇を噛む。
「大丈夫ですよ、殿下。何とかなりますって」
私は明るい声を出して、殿下の腕に触れた。殿下は驚いたような表情で私をしばらく眺めてから、僅かに頬を緩めた。




